第7話「無料修理は無料ではない」
俺が拾った一番高い物は、道へ落ちた銅貨ではない。
保証書の『無償』という2文字だった。
「刃先の傷は、保証の範囲だ」
ハルゼの返事を聞いて、俺は安心した。
昨日、800の支出を終えたばかりだ。9900の残高を減らさずに、勇者の剣を整備できる。
道具の状態も、資金も守れる。今日は上手くいったと思った。
職人が、次の紙を差し出すまでは。
「それで、こちらが実費の見積だ」
数字は、1200だった。
「無料では、ないんですか」
「刃先の補修は、無償だ。剣を安全に運び、魔力を抜いて検査し、使える状態へ戻すところまで、全部無料とは言っておらん」
俺は自分の持つ保証書へ目を戻した。
持込・運搬・検査に必要な実費は購入者の負担。
読んだ。
剣を試した日に、確かに俺は読んでいた。
なのに、無料と聞いた瞬間、ほかの字を頭から落としていた。
保証書がある人の失敗は、保証書をなくした人より説明しにくい。
「俺の確認不足でした。内訳をお願いします」
ハルゼは見積を裏返した。
危険物の運搬と保管400。魔力の抜取りと再調整500。訓練場での動作確認300。
合計、1200。
刃の補修代そのものは、ゼロ。
「持主が持って歩く時にも、運搬の代金はかかるんですか」
「持主が持つ剣を外から見るだけなら、預かりの運搬は要らん。今日は、剣を工房が預かる。わしらの管理する箱と車で、仕上げの場まで運ぶ」
ハルゼは奥の扉を開けた。
棚には、細長い箱が並んでいる。蓋に、番号と預けた人の印。箱が1つ間違えば、客の剣が別の人の手へ渡る。
専用の箱を使うのは、見た目を豪華にするためではなかった。
「俺が持って行けば、400は減らせますか」
イグナスが尋ねた。
俺のために安くする質問ではなく、方法を確かめる声だった。
ハルゼは首を振る。
「抜取りが済んだら、わしのところの箱に入れる。お前が持って運ぶと、また魔力が入る。何のために抜いたか分からん」
「分かった。工房に預ける」
勇者の判断は早かった。
俺は、それを急ぎすぎだとは思わなかった。必要な説明を聞いたあとに決める速さは、昨日までにも何度か見ている。
1200の承認は、俺も頷いた。
現金残高は8700になる。
剣の補修が終わるのは、夕方だった。
イグナスはその間、予備の剣を腰へつける。背中から大きな剣がなくなると、見た目は少し普通の旅人に近づいた。
「これで、警戒には出られる?」
リシアが確認すると、彼は頷いた。
「市壁の見回りなら。北の街道へは、今日は出ない」
「大きいのが来たら、呼んで。私の準備はできている」
魔術師の言葉に、イグナスは礼を言った。
武器を預けた時間も、隊の仕事はなくならない。できる範囲を変え、別の人が補う。
俺は日程表へ、剣補修中、警戒範囲変更、と書いた。
その時、イグナスが俺のペンを見た。
「午後、少し時間があるな」
「報告の整理をする予定です」
「全部座ってやる仕事か?」
俺は頷いてから、彼の言いたいことに気づいた。
避難の練習。
肘をぶつけた俺のために、短くする約束は守られている。短いだけで、なくなったわけではなかった。
「20分だけなら」
「10分でいい。昨日、足を置く場所を覚えたから、今日は合図を聞いて動く」
俺は帳面を閉じた。
技術のある人が練習の必要量を決めてくれるのだから、その見積を尊重したい。
あと、10分なら筋肉痛も半分で済むかもしれない。その期待は、言わなかった。
市壁の内側に、小さな練習場があった。
イグナスは俺を壁から離れた位置へ立たせ、自分は3歩向こうへ行く。
「俺が退けと言ったら、剣から遠い側へ下がる。どちらへ下がるか、今決めておこう」
「はい。右ですね」
「そう。危険な方を毎回、見てから選ぶと間に合わないことがある。まず安全な場所を決めて、そこへ動く」
俺は右の地面を見る。
小さな石と、水の残る窪み。立つ場所を少しずらすと、下がる道に何もなくなった。
イグナスが頷く。
「いい。準備をするのは、戦う人だけじゃない」
合図が出た。
俺は横へ動いたが、2歩目で脚が交差した。体が傾く。イグナスが寄って支える前に、俺はしゃがんで手をついた。
転ぶほどではなかった。
膝は、10分に驚いていた。
「動く足だけ考えると、残った足が邪魔になるな」
「頭では、分かるんですけど」
「だから練習する。最初からできるなら、練習場はいらない」
勇者は俺の足を指し、もう一度、ゆっくり歩いて見せた。
俺は真似をする。
金額の足し算なら速いのに、足の順番はすぐに覚えられない。
仕事に慣れた速さを、別の仕事へ持ち込めないと、身体で分かった。
10分で、練習は終わった。
イグナスは終わりの約束まで守った。
俺が壁へ背を預けて息を整えると、彼は水を渡す。
「今日は、合図のあとに迷う時間が短くなった」
「脚は、まだ迷っています」
「そこは、明日だ」
明日の予定が増えた。
追加予算なら理由を求めるところだが、追加練習の理由は、さっき自分で示してしまっている。
「教えるのは、本当に無料でいいんですか」
「俺たちが前を向いて戦うための準備だ。ナオトが逃げられる方が、俺も動ける」
イグナスは、俺の方を向いて答えた。
世話を焼くだけの親切ではない。仲間の動きを知るための時間なのだ。
経理担当が生き残ることも、隊の仕事に含まれている。
夕方、工房へ戻ると、剣は専用の箱に入っていた。
ハルゼは保証書の裏へ、補修の日付と範囲を記入する。
刃先の無償補修1回、対応済。
「次に同じ傷をつけたら、代金がかかる」
「ここは、もう一回使えると思わないようにします」
俺が答えると、職人は満足そうに紙を渡した。
イグナスは剣を持ち、重心を確かめる。握り直すまでに、何も言わなかった。
俺には見た目の違いが分からなくても、使う人の確認は省けない。
「右へ少し、力が逃げなくなった。助かる」
「切り口が傾いておったからな。持って帰れ。ただし、最後の確認を忘れるな」
俺たちは、訓練場へ移動した。
1200の内訳に入っていた300の確認だ。ここでもう一度払うわけではない。
係員に工房の預り票を見せ、確認済みの欄へ印をもらう。請求が別の窓口へ分かれていても、まとめて払った分は明示しておかなければならない。
俺が紙をやり取りする間、イグナスが剣を構えた。
今日は黒い板を切らない。
指定された動作を、何度か繰り返す。ゆっくり振り、速く振り、収めてから抜き直す。
派手な光も、大きな音もなかった。
働く道具が、ちゃんと働くか確かめる時間だった。
帰り道、イグナスが肩を回した。
「これで、北へ持っていける」
「剣の準備は、できたんですね」
「ああ。次は、俺たちの準備だな」
俺は日程表を思い出した。
現金。支出の確認。行程。物資。交付の条件。
欄はまだ埋まりきらない。
ただ、何が残っているかは、初日よりずっとよく分かる。
部屋の壁の残高を、8700へ直した。
ガルドが数字を見て、俺へ水の器を渡す。
「剣と足は、どうだった」
「剣は、調整できました。足は、明日も調整します」
「足の方は、保証が長いな」
笑う勇者に、俺は保証書を見せた。
「こちらは、無料修理の1回分を使いました。次は、有料です」
「分かった。足を教えるのは、次も取らない」
仕事の範囲が、ようやく分かれてきた。
俺は保証書を、決めた箱へ戻す。見積と領収書も、一緒に綴じた。
無料という2文字だけを拾えば、今日の支出は予想外に見える。
全部の字を読めば、必要な1200だった。
自分の失敗を報告の隅へ書くと、リシアが通りがかりに覗いた。
「『無料だと思った』まで残すの?」
「次に、俺が忘れないためです」
「じゃあ、足の練習も書いて。転ばなかった日は、記録した方がいいわ」
俺は短く付け足した。
今日、転倒なし。
手は地面についたが、まだ嘘にはならない。




