第5話「善意の支払先」
神殿の入口で、俺は財布を出すのをやめた。
目の前に差し出されたのは、寄付箱ではなく、水の入った桶だったからだ。
「まず、手を洗ってください」
白い前掛けをつけた人に言われ、俺は袖をまくった。
薬店から戻ったあと、その足で6000ルーンの寄付の確認に来た。費用は、神殿への往復の乗合車と、記録の写しを合わせて300。11000だった残高は、10700になる。
帳面には書ける。それを口にする場所は、選んだ方がよさそうだった。
入口の奥には、椅子が並んでいた。
腕を吊った人。足へ布を巻いた人。壁に背を預けて、目を閉じている人。俺を見ても、誰も立ち上がらない。
エレナがそちらへ向かうと、前掛けの人が困った顔をした。
「今日は、記録の確認にいらしたんでしょう」
「ええ。けれど、今の順番は」
「向こうの担当が、一人ずつ診ています。あなたまで入ると、またお昼がなくなりますよ」
エレナは、すぐに返事をしなかった。
手を洗い終えた俺へ、申し訳なさそうに向き直る。
「少しだけ、待っていてもらえますか」
「俺は待てます。ただ、昼を食べる予定も残してください」
前掛けの人が、俺に小さく頷いた。
何かの味方にされた気がする。
エレナは診療の部屋へ入り、俺は記録室の前で待つことになった。
神殿の記録係が出してくれたのは、薬の受入帳だった。
討伐隊からの寄付6000。日付。受取人。購入した薬の品目。
記録の終わりに、街道の襲撃で運ばれた人たちへの治療とある。
個々の患者の名前も続いていたが、俺はそこまでの写しを求めなかった。
「確認に必要なのは、隊が寄付した日と金額、受け取った方、使い道です。患者さんの詳しい事情は、こちらで保管してください」
「名前がなくても、説明できますか」
「薬の購入と受領を確認できれば、俺の報告には足ります。治療を受けた人の説明を、費用の証拠にする必要はありません」
記録係は、該当する部分へ薄い紙を当てた。
俺も領収の控えを見て、当初の帳面と日付を照らす。
6000は、すでに払っている。
神殿から紙を受け取ったからといって、6000をもう一度払うのでも、6000が財布へ戻るのでもない。
証明のない欄が、一つ埋まる。
それは地味だが、次の支出を説明するために必要な作業だった。
写しができるまでの間、廊下から音がした。
椅子を動かす音だった。
俺が顔を出すと、エレナが低い台を持って、患者の足元へ運んでいた。部屋から出てきたのは、治療を終えた人ではない。順番を待つ間も、傷んだ足を地面に下ろしていた人だった。
俺は台の反対側を持った。
「ここで、いいですか」
「はい。その高さなら、足が楽になります」
患者が礼を言い、身体を少し動かした。
エレナは巻かれた布を見て、血が滲んでいないか確かめる。それから俺へ、短く礼を言った。
「ここは、今日も無料なんですか」
「この待合は、無料の救護枠です。けがをした経緯と、今の状態を確認して診ています」
「薬の費用は、神殿が持つ」
「決まった分は。足りない時は、別の枠や寄付を相談します」
そこまで答えると、エレナは診療の部屋へ呼ばれた。
俺は壁際へ戻る。
決まった分。その言い方が、帳面の数字より長く残った。
昼近くになっても、椅子は空かなかった。
一人が立てば、次の人が座る。俺が受け取った記録を鞄へしまっても、エレナの仕事は終わらない。
前掛けの人が、彼女へ食事の包みを持っていった。
しばらくすると、包みを持ったまま戻ってくる。
食べる暇がないのだと、表情で分かった。
「今日は、人が多いんですか」
俺が尋ねると、相手は廊下を見る。
「今日は、という日が続いています」
責める声ではなかった。
疲れた声だった。
俺は空いている椅子を、入口の方へ1脚運んだ。順番を待つ人が増えて、立っている人がいたからだ。
これなら、俺にできる。患者の状態を判断したり、薬を選んだりはできない。
できる作業をしているうちに、エレナが部屋から出てきた。
前掛けの人が、今度は廊下で食事を渡す。
「次の患者は、別の担当が診ます。あなたは、ここで食べてください」
「でも、急ぐ方が」
「急ぐ方は、急ぐ担当へ。今、あなたが倒れたら、診る人が1人減ります」
エレナは包みを見つめたあと、受け取った。
壁際の小さな机へ、俺も椅子を持っていく。
机には食事の包みと、水の器。俺の帳面を出す場所はなかった。それで、よかった。
「記録は、確認できました」
「よかったです。6000は、使ってよかったでしょうか」
エレナは食べる前に尋ねた。
俺は、もう少し簡単な答えを用意してくるべきだったと思った。だが、安心させるためだけに何でもよいと言うのは、違う。
「当時の隊長の承認があり、救護に使われたことも確認できました。報告できる支出です」
彼女は頷いた。
「これからも、同じように助けたいです」
「その相談は、必要です。ただ、討伐費から毎回いくらでも出すという約束は、今はできません」
エレナの指が、包みの端で止まった。
俺も、声を急がなかった。
「俺が助けていい人を決めたいわけじゃないです。隊の薬と現金が尽きれば、隊の治療も、こちらへの手助けも続けられなくなる」
「足りないから、助けない理由にするのは、嫌なんです」
「俺も、それだけで終わらせたくありません。ここの無料枠と、隊の活動で救助した人の治療を、どこが負担するか決められませんか」
エレナは初めて、食事を一口食べた。
飲み込んでから、待合の方へ目を向ける。
「人によって、値段をつけるんでしょうか」
「違います。同じ治療でも、支払う組織を確認するという意味です。困っている人へ財布を出させる相談ではありません」
「神殿に、枠の確認をお願いできるかもしれません。まだ、約束はできませんが」
「それで十分です。分からないまま、払えると言わない方がいい」
俺の最後の言葉は、ほとんど自分へ向けたものだった。
誰かが助かれば、その分のお金がどこかから現れるわけではない。必要だと分かるだけでは、続ける手順にならない。
それでも、必要なことから話し始めなければ、支払先を決める意味もない。
食事を終えたエレナは、記録係へ相談した。
討伐隊が行く予定の救護所。連絡が届く日数。どこまでが神殿の無料枠で、どこから別の申請が必要か。
返答は、すぐに出なかった。
地方の救護所に、それぞれ確認する必要がある。
俺は待つ時間を行程表へ入れ、まだ決まっていない欄へ、見込み、と書いた。
帰りの車が来るまでに、エレナは二人の患者を別の担当へ引き継いだ。
無理に診療を終わらせるのでも、全部自分で診続けるのでもなく、次の人へ手渡す。
その仕事にも、俺の知らない手順があった。
乗合車では、エレナが窓際へ座った。
王都の屋根が、ゆっくり横へ動く。行きには見なかった、白い布を干す家があった。
「少し、眠っていいですか」
「もちろんです。着いたら、起こします」
彼女は頷き、目を閉じた。
俺は鞄の中から帳面を出そうとして、やめた。車が揺れる。書くことは、戻ってからでいい。
その代わり、神殿の写しが折れないよう、鞄を足の間へ置いた。
これが今日の俺の仕事の、残りだった。
部屋へ戻ると、ガルドが鍋を見ていた。
エレナの分は、火から遠い場所に取り分けてある。俺たちが遅くなると聞いて、残しておいたという。
イグナスは神殿へ出す連絡文を受け取り、リシアは救護用と隊用の薬を別に並べた。
相談が終わっていなくても、始められる準備はある。
「6000の紙は、取れたんだな」
イグナスに聞かれ、俺は頷いた。
「はい。寄付の理由と受領は確認できました。あと、今後の救護費の負担について照会します」
「エレナが、全部出さなくてよくなるか?」
俺は、彼の言葉を聞き直した。
「全部?」
「金だけじゃない。時間も、力もだ」
窓際では、エレナが鍋の匂いを確かめていた。
神殿を出る時より、顔色が少しよかった。
「そうなるように、相談します」
俺は答えて、壁の残高を10700へ直した。
6000の証明は、財布を増やさなかった。
今日の300は、財布を減らした。
エレナが椅子に座り、用意された食事へ手を伸ばす。今日は、冷えきる前に食べられた。
俺は帳面を閉じてから、自分の椀を取った。




