第45話「承認します、生きて帰れ」
「使う。残しても、次がないかもしれない」
リシアの声が、扉の陰へ届いた。
緊急用の1回分だ。
俺は薬の値段を聞かなかった。
「使ってくれ。帰る道は、こっちで開けてる」
まだ袋に残している金を、全部あの魔法へ渡すわけではない。
買った薬を使う判断と、帰りの輸送を守る仕事は両方できる。
彼女の手が、結び方の違う袋を開けた。
俺が灯りの下で覚えた結び目は、部屋の暗がりでも迷わせなかった。
ガルドの盾の裏へ、新しい固定材が届いた。
軍の担当者が受け渡しを記し、俺は必要な箇所と数量を伝えた。
救護の補充品と合わせ、今回新たに使う物は4500ルーンの調達になる。
委任された緊急調達の範囲で頼み、支払いは安全な場所へ戻ってから照合する。
今ここで財布を開けて数えていれば、留め具を直す人が1人減る。
エレナはガルドの腕を治療していた。
彼女の手の光が細くなり、傷が閉じる。
ガルドは歯を食いしばり、腕を動かさずにいる。
痛くないふりをするより、動かない方が俺には助かった。
古い固定材を外し、新しいものを通す。
溝に布を噛ませない。
ガルドが軽く引き、俺が横から確かめる。
「留まった」
俺は言った。
「承認は?」
ガルドがいつもの声で聞く。
こんな時まで笑わせるつもりなのか、単に手順を確認したのか分からない。
「承認します。生きて帰れ」
俺の声は、最後だけ少し大きくなった。
ガルドは盾を持ち上げた。
「命令は勇者からでいい。お前の分は、聞いた」
イグナスが部屋の中央から下がった。
ガルドが前へ出るまでの時間を、剣で作っていた。
刃を払う動きが、さっきより短い。
疲れを隠していない。残っている力を、どこへ使うかを選んでいる。
エレナが彼の肩へ手を当てた。
「少し、息をしてください」
「敵が待つか?」
「ガルドさんが待たせます」
盾に黒い光が当たった。
新しい留め具は動かない。
ガルドの足も、床の欠けを避けて止まっていた。
俺が先ほど外した石片の場所が、足を置く幅になっている。
小さな準備が役に立つ時、派手な音はしなかった。
リシアの杖から、違う色の光が伸びた。
魔王の外殻へ力をぶつけるのではなく、重なった層の境目へ入る。
壁から来る光の流れが乱れた。
ラグゼオンが片腕を上げる。
ガルドはその前へ盾を差し出した。
俺は扉の外の軍へ、奥の魔法の反応が強くなることを知らせる。
通路にいる人を、入口のさらに外へ下げてもらう。
勝ちそうだから見に来てくれ、ではない。強い力が動く時は、近づく人数を減らす。
扉は楔で支えられている。
帰るための幅は残っていた。
俺は布札を指で触り、そこから視線を離さないまま、部屋の声を聞いた。
「剣、右へ。今度は戻らない」
リシアが言った。
イグナスは頷き、刃を持ち上げる。
ラグゼオンの外殻は、右下に裂け目があった。
さっきと同じように見えるが、今は奥へ向かう光の流れが止まっている。
俺にはそれを説明できない。
リシアは説明する余裕を魔法へ使った。
ガルドが魔王の正面を受け、エレナが彼の呼吸を支える。
剣の通る道が空く。
イグナスが踏み込んだ。
魔王の腕が横へ払われる。
盾がその力を斜めに受けた。
ガルドの足が半歩動いたが、刃の道は塞がない。
勇者の剣へ、リシアの光が集まった。
魔王は、壁の光へ手を伸ばした。
切れた流れを戻そうとしている。
リシアの杖の先から光が広がり、壁へつながる線の1つを押さえた。
「全部は止めない。今の一筋だけ」
彼女の言葉で、イグナスが狙う位置を変えた。
ガルドの盾へ、今度は横から力が来る。
彼は腕だけで耐えず、身体を回して受けた。
新しい固定材が支え、俺が確かめた溝の辺りは動かない。
エレナがリシアの後ろへ立ち、倒れかける肩を支えた。
自分の治癒の光を、攻撃の光に混ぜない。味方の術式も、ただ全部重ねれば強くなるわけではないらしい。
俺は魔法の理屈を考えるのをやめ、扉の外から来た兵を下げた。
まだ進入する合図ではない。
見物に来たのではなく、救護へ備える人だ。それでも中が見えれば、手を出したくなる。
今ここで人を増やすと、イグナスの動く場所を減らす。
兵は頷き、扉の外へ戻った。
魔王の足元の光が、裂け目へ向かって収縮した。
イグナスが息を一度整える。
最後の力を、どこへ置くかを決めた顔だった。
俺は笛を持ったまま、その人が戻る道を見た。
音が、一瞬なくなった。
俺の耳が音を受け取れなくなったのかもしれない。
刃が裂け目へ入った。
外殻の奥で、赤い光が割れた。
ラグゼオンの身体が後ろへ傾く。
まだ腕は動いている。
イグナスは刃を戻さず、足の位置を変えて力をかけた。
剣の芯が、奥の核を通る。
壁沿いの光が、1本ずつ切れた。
部屋の明るさが変わった。
エレナがガルドの腕を掴み、もう下がっていいと叫ぶ。
リシアは術式を閉じ、杖を抱えた。
イグナスが剣を引いた時、魔王は石の椅子の前へ崩れた。
床を走る黒い光は、もう俺たちへ来なかった。
誰もすぐには歓声を上げなかった。
イグナスが魔王の反応を確認し、リシアが核の光が戻らないことを読む。
ガルドは盾を下げず、エレナは4人の顔を見る。
俺は扉の外へ、進入を待つ合図をした。
何が起きたかを調べる人が、怪我人を運ぶ道を塞がないようにする。
「終わった」
リシアが短く言った。
イグナスがようやく剣を下げた。
「5人、戻る」
その言葉で、俺の喉が急に乾いた。
魔王を倒した、と帳面へ書くには、まだ軍の確認も要る。
5人が戻る、と俺たちが動くのは今だった。
リシアは杖を持っているが、足が少しふらつく。
エレナも息が短い。
ガルドは自分が背負えると言ったが、治療したばかりの腕を確かめてからにした。
イグナスは剣の反応が止まるまで待ち、収める。
彼の手が少し震えていた。
俺は空瓶を見つけた。
扉の手前にまとめてある分だけを袋へ入れる。
部屋の奥へ転がった1本は取りに行かない。軍が安全を確かめたあと回収できるなら、そこで頼む。
拾うために戻った俺を、4人が守る戦いはもう要らなかった。
ガルドが、俺の持つ袋を見た。
「瓶は何人だ」
「人ではない」
「なら、先に俺たちを数えろ」
俺は顔を上げた。
イグナス、リシア、エレナ、ガルド。
俺がいる。
「5人」
「よし。瓶は、あとだ」
彼は盾を少し下げ、通路へ出た。
途中で、リシアが壁へ寄りかかった。
俺は担架を出そうとしたが、まず座れる場所をエレナが示した。
無理に歩かせない。無理に横へ寝かせて、身体を揺らしもしない。
軍の運搬担当へ合図すると、二人が来た。
今日新たに調達した救護品を開き、必要な物をエレナへ渡す。
リシアは薬を飲み、俺を見る。
「使った1回、ちゃんと残った?」
「記録は後で聞く。今は、お前が残ってる」
彼女は目を閉じ、少し笑った。
少し休んでから、運搬班に担架へ移してもらった。
ガルドが彼女の杖を持とうとして、触る場所を先に尋ねた。
何でも丈夫に持てる手でも、術式のある道具の扱いは別だ。
リシアが示した所を持ち、エレナが歩く幅を空ける。
俺は布札を辿り、外へ戻る。
城の入口で、軍の班長が待っていた。
イグナスが魔王の核を破壊したこと、部屋の反応が止まったことを伝える。
班長は確認班を送り、俺たちを救護所へ向かわせた。
すれ違う兵が声を上げかけたが、担架を見て道を空けた。
祝う声を先に受けるのは、今ではない。
俺たち5人の帰還が確認されると、門の外の旗が変わった。
軍の連絡が走る。
遠くで歓声が聞こえた。
俺は、その中で今日の追加調達を受け取った担当者を探した。
使った固定材、救護品、残った分を照合する。
部屋で使った既存の緊急薬の代金は、ここでまた請求されていない。
4500は、新しく受け取った物の費用だ。
見積もりと使用の明細を確認して払い、現金は47320から42820ルーンになった。
勝ったから急いで余計な物まで買うつもりはない。必要で受け取った物を、勝った後だから忘れるつもりもない。
支払いの照合で、俺の手は一度止まった。
軍の担当者は、急がなくていいと言った。
指に巻いた布のせいだけではない。硬貨を掴む時に、肩がまだ震えた。
俺は一度水を飲み、種類ごとに置き直した。
勝ったという興奮で計算が正しくなるわけではない。怖かったことも、金の合計へ混ぜられない。
相手と二人で数え、合ったことを確かめる。
俺が誤魔化さずに止まった分、支払いは少し遅れた。
担当者は、使用した箇所が分かるから先に台帳を進められたと言った。
俺が戦いの最中に口で知らせた記録が、ここでは役に立っていた。
全部を自分の筆で書かなかったから、帳簿が失われたわけではない。
別の人の確認と合わせることで、俺の震える手も仕事を終えられた。
軍の確認班が戻ったのは、俺が支払の控えを受け取る頃だった。
ラグゼオンの反応は停止し、戦闘を再開する力は認められない。
イグナスは報告を聞き、椅子へ座った。
椅子は、普通の木の椅子だった。
ガルドも座ろうとし、脚を見てやめた。
兵が丈夫な台を運んでくれる。
「勇者が勝った日に、俺が椅子に負けるのは嫌だ」
彼の声で、リシアが吹き出した。
エレナも笑った。
俺は、ようやく少しだけ息を吐いた。
疲れているのに、笑える顔が5つある。
そのうちの一つが自分だと分かった。
薬の使用記録は、エレナとリシアが休んでから聞く。
俺は空瓶の袋へ、まだ照合前、と札を付けた。
今日の支払が済んだことと、全ての品目の確認が済んだことは違う。
欄が空いたままでも、戦いがなかったことにはならない。
後で確認できる順番を残す。
イグナスが、剣の整備の紙を俺へ渡しかけた。
「使った証明は、これに書くか?」
「今日は休め。使った所は、お前が覚えてる範囲で後で聞く」
「途中、あまり細かくは覚えてない」
「4人の記録と軍の確認を合わせる。一人で全部思い出す必要はない」
彼は紙をしまった。
俺も自分の帳面を閉じた。
魔王を倒した日は、全部を一度に精算しきる日ではなかった。
夕方、救助した運送員が寝台の端から手を振った。
立ち上がろうとして、救護担当に止められている。
「勝ったんですか」
「勝った」
イグナスが答えた。
「台車は?」
「それは軍が確認中だ」
俺が続けると、男は少し申し訳なさそうに笑った。
世界が変わるような出来事のあとでも、誰かの仕事には、帰ってこない台車がある。
ガルドは盾を寝台の横へ置いた。
裏の5本の線を、まだ消していない。
俺が尋ねる前に、彼は言った。
「王都まで帰ってからだ」
俺は頷いた。
外で歓声が続いている。
俺たちの帰り道は、まだ続いていた。




