第44話「魔王は領収書を出さない」
城の奥へ入る前、俺は2000ルーンを払った。
魔王にではない。
外の軍の資材担当から、予備の修復材と、退路で使う固定の道具を受け取るためだった。
「魔王様の修理代にするのか?」
ガルドが材料の箱を見る。
「俺たちの道と装備に使う。向こうの城を直しに来たんじゃない」
「よし。壊したら直す仕事は、今日は置いとく」
俺は支払の控えを畳んだ。
49320から2000を引き、現金は47320になる。
既に買った物を城内で使う時、また現金を引くことはない。
今、荷にした材料が、これからどこで役に立つかを記録するだけだ。
数字を書ける最後の静かな場所で、俺は袋を閉じた。
前日と同じ入口から、5人で入った。
救助した運送員は軍の拠点にいる。
昨日は保管所へ向かったが、今日は奥の大きな扉へ進む。
右へ行く荷と、左へ行く兵。聞いた範囲を軍の偵察と合わせ、まだ知らない通路はリシアに確かめてもらった。
俺の目には、どの扉も重く見える。
触れる前に魔法の反応を見る役は、俺ではない。
イグナスが先頭を守り、ガルドは俺の後ろで足音を聞いた。
退路へ置く布札は、奥へ行くための目印ではない。戻る時に、別の扉を開けないために付ける。
軍の班が入口に残り、城外への連絡を引き継ぐ。
俺たちが全部を守るのではない。
守ってもらう範囲を確かめてから、先へ進んだ。
入口の軍の班長は、俺の布札を見た。
「全部集めて帰るつもりか」
「安全に戻せる物は。でも札の回収が、撤退の最後の仕事ではありません」
置いた物を残す判断も決めておく。
敵の城に隊の道具が残れば、あとで何を使ったか聞かれるかもしれない。それでも人が戻る時間を削ってまで、紙の上を綺麗にする必要はない。
班長は、最後に通路を閉じる時はこちらでも数えると言った。
俺は札の数と設置した位置を渡した。
誰かが同じ道で探し物をしないための一覧だった。
扉の手前で、ガルドが俺へ盾の留めを見せた。
前線の職人が直した所は、今のところ動いていない。
俺は溝を触り、布が噛んでいないことを確かめた。
エレナは、俺の指の傷の布を巻き直した。緩むと留め具へ入りかねない。
「治した場所が、次の問題を作ることもあります」
彼女は布の端を短く収めた。
俺は自分の袖も留めた。
記録の袋の口より、身につけた物の方が、戦場ではいろいろな所へ触れる。
イグナスは剣の注意書きを一度だけ開き、すぐにしまった。
リシアが魔力の残りを告げる。
全員が、自分の準備を他の人へ短く知らせた。
俺は現金の残りを言いかけたが、それより退路の引き継ぎを伝えた。
今、知ってもらうべき順番はそちらだった。
大きな扉は開いていた。
中は明るかった。
壁沿いの石に光が流れ、その光が中央の椅子へ集まっている。
椅子というより、石の塊だ。
俺は一瞬、ガルドが座っても壊れないと思った。
そんなことを考えている場合ではなかった。
「来たか、王国の剣」
中央にいた男が立った。
角はドロメクより大きい。肩の上へ、黒い外殻のようなものが浮いていた。
ラグゼオン。
名前を紙で読んだ時とは違い、声だけで足の裏が冷える。
イグナスは剣を抜いた。
「お前の戦を終わらせに来た」
「余の荷を止めた者が、余の前へ届くとはな」
魔王は俺たちを見る。
荷を止めたことは知っている。だから困り果てていたわけではなかった。
壁の石には、まだ光がある。
リシアが小さく息を吐いた。
「蓄えは残ってる。予定より多い」
俺は帳面を出さなかった。
その情報を記すより先に、退く道を空ける。
魔王が片手を上げた。
床の継ぎ目から、黒い光が走る。
ガルドの盾に当たり、彼の足が一歩後ろへ滑った。
俺は壁へ寄りすぎず、盾の後ろへ下がる。
先ほど通った扉の外に、荷を置ける空間がある。材料の箱は、そこへ置く。
持ち続ければ、急に走る時に俺が遅れる。
エレナが短い祈りを紡ぎ、ガルドの腕へ光を添えた。
盾が戻る。
イグナスが横へ出た。
リシアの術式が刃へ流れ、魔王の外殻の端を斬る。
光は散った。
刃は、奥へ届いていない。
剣が役立たなかったのではない。相手の外殻の1枚を剥がしたあと、別の層がある。
イグナスは手応えをリシアへ伝えた。
「外側は割れる。奥が動く」
「反応を変える。少し待って」
待つ時間を、ガルドが守る。
ラグゼオンは笑った。
「いくら積んで、その刃を買った?」
イグナスは答えなかった。
俺は思わず48000と口に出しかけ、歯を閉じた。
価格を答える会議ではない。
魔王は、相手が黙った理由を別に取ったらしい。
「王国は安く使う。勝てば英雄、倒れれば次の剣を買うだけだ」
「俺は、ここにいる人と帰る」
イグナスが答えた。
「お前に代金を聞かせに来たんじゃない」
俺は彼の背中を見た。
買った剣の理由は、使う人が説明している。
俺の出る場所ではなかった。
魔王の指先から、細い光が天井へ伸びた。
壁沿いの石がさらに明るくなる。
補給を止めても、相手は今ある物を使える。
俺が残高を見れば今の隊の余力が全部分かる、というのも同じくらい乱暴だ。薬、剣、体力。金を使った後にも、持っている力は残る。
床が鳴り、柱の脇が欠けた。
石片が俺の前へ落ちる。
俺は布札のある道を見た。
片側が塞がりかけている。全員が走る時、ここで1列になれば遅れる。
扉の外の軍へ、退路の障害を合図した。
兵が二人来て、落ちた小さな石を外へ運ぶ。
大きい石は俺が押しても動かない。金を扱う手を怪我させるための石ではない。
修復材の楔を使い、扉の支えがずれないようにする。
軍の担当者が設置を確かめた。
受け取った2000の材料は、使った数量を後で照合するために、空の包みを同じ箱へ戻した。
今は筆を動かさず、口で使用した箇所を伝える。
俺一人の記憶にしないことも、準備で決めていた。
振り返ると、リシアが杖を床へ立てていた。
魔王の外殻へ、細い光が何本も伸びる。
どこが動いているかを読み、剣を通す場所を探す術式だ。
ラグゼオンは腕を払った。
光の1本が切れる。リシアの肩が揺れた。
エレナが彼女を支え、ガルドが前へ出る。
盾が光を受けるたび、床の埃が跳ねた。
俺は盾の裏の5本の線を見る余裕がない。
線があるから守られるのではない。彼が今、足を踏ん張って守っている。
イグナスがガルドの横から進み、刃を返す。
外殻の継ぎ目が開いた。
リシアが叫ぶ。
「今、右の下!」
剣が光の間へ入る。
魔王は身体をずらした。
刃は肩の端へ届き、核には届かなかった。
イグナスは追いすぎず、刃を引いた。
敵を一撃で倒せなかったことを、失敗の一言で済ませる暇はない。
得た反応を、次へ使う。
壁沿いの石の光が、中央へ流れた。
リシアの杖が、その流れを一度切ろうとする。
切れたように見えた光は、別の壁から戻った。
「供給が複数。ひとつ止めても戻る」
彼女が言う。
俺は運送の迂回路を思い出した。道が1本だと思って止めれば、別の道を通る荷がある。
似ていると思っても、俺に術式を切る能力はない。
リシアが流れを調べる間、エレナはガルドの息を聞き、イグナスは魔王の手の位置を見た。
同じものを全員が見つめる必要はなかった。
俺は通路の床を見た。散った欠片が、布札の前へ流れている。
小さい欠片だけを端へ寄せる。背中を部屋へ向けすぎないよう、軍の兵へ見てもらった。
黒い光がまた盾を叩いた。
俺の膝まで、床の震えが伝わった。
声が聞こえにくい。
呼べば伝わると思っていた距離でも、剣と盾の音で言葉が消える。
俺は笛を触り、今は鳴らさない。
鳴らす内容がないのに音を増やせば、本当に必要な合図が薄くなる。
リシアが2本の指を上げた。
イグナスはそれを見て、次に進む位置を変えた。
俺は手信号を決めていた日の、明るい空き地を思い出した。
余分に試した1回が、今の見えにくい部屋へ続いている。
魔王が俺へ目を向けた。
「その者は、剣も持たぬのか」
視線が合い、俺の肩が固まった。
イグナスが一歩横へ動いた。
「俺たちの帰る道を持ってる」
勇者はそれ以上説明しない。
魔王へ職務の価値を理解してもらう必要はなかった。
俺も、自分が役立つと叫ばず、扉の陰へ身体を寄せた。
彼が空けた場所に戻るために、立つところを間違えない。
ガルドの盾が、また前を守った。
俺は退路へ戻り、軍の救護担当へ状況を知らせた。
奥で戦いが続いている。全員はまだ動ける。通路の一部に障害がある。
勝ったとも、全員が無傷とも言わない。
担当者は、緊急時に追加の固定材と救護品を運べる位置へ待機した。
委任の範囲と、後で費用を照合する手順は既に相談してある。今ここで売買の交渉を始めるための人ではない。
俺は軍の支えがある扉を見た。
中へ戻るために、自分だけ安全な場所を覚えるのではない。倒れた人をどこで引き継ぐかを確かめる。
ガルドの鎧が傷つけば、留め具を確認する。
俺は手を空け、短い縄を準備した。
再び部屋を見た時、ラグゼオンは正面へ踏み出していた。
外殻に裂け目がある。そこへリシアの光が集まる。
だが魔王の腕の光は、まだ強い。
イグナスが刃を下げ、ガルドへ合図した。
戦士が一歩前へ出る。
黒い光が盾へ当たり、金属の留めが鳴った。
いつもと違う音だった。
俺は笛を口へ寄せた。
道はまだ通れる。けれど、そこで待っているだけでは次の一歩が間に合わない。
短い合図を鳴らす。
ガルドがこちらを見ず、片手で返事をした。
俺がいる場所は分かっている。
盾の端の固定が、片方だけ浮いていた。
今なら前からは受けられる。横の力を掛けたら、ずれるかもしれない。
俺は扉の陰へ下がり、直すための場所を空けた。
ガルドが退く間を、イグナスが作る。
エレナが先に来て、手を伸ばした。
俺は帳面ではなく、留め具へ触れる手を準備した。
魔王の声が、扉まで届いた。
「余の前で、道具の修理か」
俺は返事をしなかった。
修理する時間を作っている人の邪魔になる。
楔を使った扉は動かない。布札は見える。軍への合図も届く。
帳面が盾になる日は来なかった。
買った修復材は、ちゃんと支えになった。
ガルドが扉の手前へ来た時、彼の腕には細い傷があった。
エレナがそこへ手を当てる。
俺は盾の裏へ回った。
確認用の溝に指を置く。
布は噛んでいない。固定材そのものにひびがある。
「取り替える必要がある」
俺が言うと、ガルドは短く頷いた。
「やれ。俺は、ここで止まる」
彼が止まれる時間は長くない。
部屋の中では、リシアが魔王の外殻へ最後の反応を読み取っていた。
彼女の手が、緊急用の袋へ向かう。
俺は軍の担当へ追加の材料を頼み、片手をガルドの盾から離さなかった。




