第40話「盾の裏に5人いる」
ガルドの盾の裏には、小さな傷がいくつもあった。
戦って付いた傷とは別に、意図して刻んだ短い線もある。
王都で聞いた、盾の後ろで待った人たちの数だ。俺は古い線の間に、新しい刻みがないか見た。
「前より増えたか?」
ガルドは盾を膝から下ろした。
「少しな。全部は数えきれてない」
彼はあっさり答えた。
帳面なら、数えきれていない合計をそのまま出せない。
盾は帳面ではない。助けた相手の全部を思い出せなくても、線を消す必要はなかった。
俺は指で数えかけて、やめた。
最後の鎧の点検は、野営地の外れの修復台で行われた。
俺が教えた丸太は、まだ置いてある。
ガルドは座る前に叩き、ひびがないことを確かめた。
「椅子を壊さない係になったのか」
「椅子のためじゃない。俺のためだ。落ちると鎧をもう一度確かめる」
職人が、確かにそうですね、と真面目に答えた。
俺たちは笑った。
壊した物の値段を聞く日ばかりではない。壊さないための確認が、本人の役に立つようになっていた。
ハルゼの設計が、修復台の横に広げてあった。
王都で身体に合わせた留め具と、前線の職人が調整する補強箇所。ガルド本人が来てから確かめる寸法は空けてある。
紙に書いた体の大きさは、今ここで動く体そのものではない。
職人は鎧の脇を緩め、ガルドに腕を上げてもらった。
前へ構える、横へ守る、誰かを背負う。
最後の動きで、背中の留めが少し引っ張られた。
「このままだと、長く人を背負うと当たります」
職人が言った。
ガルドは、短い時間なら問題ないと答える。
「短いと思って入った道が、長くなるかもしれません」
エレナが前へ出た。
「運ぶ方が動けなくなったら、運ばれる人数が増えます」
俺は見積もりを開いた。
見ているのは、鎧の補強と撤退に使う昇降器具を合わせて10000ルーンの項目だ。
背負う時の固定を調整する分も、その中に含まれていた。
軽くするために外せば済む部品ではない。必要な部分を残したまま、体の動きに合わせる。
最初の案では、胸の板を厚くする代わりに、腕の動きが少し鈍くなる。
ガルドは盾を握り、いつも通りに横へ振った。
板の縁が肩に当たった。
「こっちは厚くせんでいい」
彼は言った。
「魔王の正面を受けるのに、不安は?」
職人が尋ねる。
「腕が遅れたら、隣の奴が受ける。俺だけ丈夫でも駄目だ」
リシアがガルドの隣へ立った。
実際に盾が届く距離を測る。彼女が術式を組む位置と、イグナスが前へ出る位置。全員が同じ場所へ隠れるわけではない。
職人は補強の配分を変えた。
胸に足す板を少し減らし、脇と背中の留めを強くする。
安全を数値一つで増やすことはできない。
俺は変更の理由を短く控えた。薄くしたから節約した、と後から読まれないようにするためだ。
昇降器具には、軍から借りる金具も使う。
俺たちが買った物と借りた物を分け、番号を布札へ写した。
返す時に全部新品として請求されないようにするためだけではない。壊れた場所が分かれば、次の隊へ渡す前に直せる。
ガルドが長い縄を引っ張り、留めを試した。
イグナスが短い縄と混ぜないよう、別の袋へ分ける。
リシアは、触媒の箱に結ばないでと先に言った。
「何に結べばいい?」
イグナスが尋ねる。
「固定できる柱。柱に見える箱は駄目」
俺は野営地を見回した。
箱の上に箱が載り、遠くからは柱に見える場所が何か所かある。
魔王城なら、見た目だけで固定先を決めたらもっと危ない。
職人は、最初に荷重を掛けて確かめる手順を教えてくれた。
縄を持つことと、縄を使えることは違う。4人は慣れていても、俺には説明が要った。
俺の役目は固定の確認と、通る順番の管理だ。
戦士が誰かを抱えている時、金具を見てくださいと呼び止めるのでは遅い。
俺も留め具を使ってみる。
図の通りに通したつもりだったが、最後の向きが違った。
荷重を掛けると締まるはずの部分が、引っ張るほど緩む。
ガルドが俺の手を止めた。
「ここ。もう一度」
俺は外し、やり直した。
絵を理解したつもりで、指先の動きを飛ばしていた。
次は正しく締まった。
「数字で説明する方が楽だな」
「数字もお前以外には楽じゃない」
ガルドは俺の使った縄をほどき、もう一度渡した。
最初は教えた向きと、分かったかどうかを見る向きを分ける。彼の手が横にあればできることと、彼が動けない時にできることは別だ。
俺は3度通した。
指に縄の細かな跡が付いた。
ここで覚えることも、今日の10000に含まれる準備だった。
試験では、袋に入れた重りを運んだ。
人を使えば簡単な顔をしてしまう。失敗した時に本当に怪我をする人を、わざわざ作る必要はない。
ガルドが持ち上げ、職人が留め具の動きを見る。エレナが運ばれる人の頭と肩の位置を示した。
「この向きだと、痛む場所が揺れます。ここへ布を入れて」
俺は布を探し、薬の包みに使う清潔なものを手に取った。
「そっちは残しておいてください」
彼女が止める。
布なら全部同じではない。救護のために用意した物を、試験で先に汚してはいけなかった。
御者が古い布を貸してくれた。
試験に使い、あとで新しい包みの位置を決める。汚すものと使うものの順番も、準備のうちだった。
イグナスは荷の重さを半分支え、ガルドと歩幅を合わせた。
魔王へ向かう人が、最初に練習するのは、誰かを運んで退く動きだった。
俺は足元を見て、進む先の荷を外した。
昼の点検が終わった時、職人がガルドへ盾を返した。
表の傷は、強度に関わるものを直してある。
裏の線は残っていた。
磨けば消える浅い線もあったが、本人の了承なしに消していないという。
ガルドは指で触れ、頷いた。
「覚えてたんだな」
「修理する所を先に聞きましたから」
職人は当然のように答えた。
俺はその手順を、修理の控えへ残した。
物の状態を直す仕事でも、持つ人の全部を新品へ戻す必要はない。
夕方、ガルドが細い工具を借りた。
盾の裏へ、短い線を5本加える。
「まだ助けてないだろ」
イグナスが言う。
「今から守る分だ」
俺は自分の線を探しかけた。
区別はない。5本の長さは少し違うが、誰がどれか決めていなかった。
「ナオトも入ってるぞ」
ガルドが俺を見る。
「分かってる」
「分からん顔をしてた」
俺は盾から顔を上げた。
列に自分が入っているのは、頭では当然だ。
魔法も剣も使えない俺の分を、彼が盾へ刻んだことには、少し返事が遅れた。
紙なら役割の欄が分かれる。盾には線しかない。
その単純さは、今の俺には十分だった。
「帰ったら消す」
ガルドが言った。
「守った記録が増えるんじゃないのか?」
「毎朝これを見たら、忘れずに守れるだろ。終わったら、ずっと予定のまま残すこともない」
イグナスは消さなくていいと言った。
エレナも、帰ってから考えましょうと笑った。
リシアは、帰ってからなら新しい道具を買いに行く時間もあると話した。
誰も今日、消すことに賛成しなかった。
ガルドが、古い線の1つを指した。
「前に、助けた子供が礼を言いに来た。俺は顔を覚えてなかった」
彼は笑った。
「酷いって言われたぞ。俺には怖がってた顔しか見えてなかった。笑って来たら、違う奴に見える」
「それで線を付けたのか」
「線はもっと前からだ。忘れたら、いなかったことになると思ってた。でも線を見ても、顔は全部戻らん」
俺は盾の裏を眺めた。
細かい記録を取れば、忘れない部分は増える。
それでも、一人の顔と、その時に必要だったこと全部は残らない。俺の帳面にも限界はある。
「その子は、今は無事なんだな」
「そうだ。だから俺は、もう一度礼を受け取った」
ガルドは短く言った。
「忘れてたからって、助け直す必要はなかった」
イグナスが傍らで頷いた。
俺は、帳面の未精算を減らす時とは違う、仕事の終わり方を聞いていた。
記録が足りなくても、人が無事に暮らしているなら、そこで終えていいことがある。
ガルドは工具を持ち直した。
「お前の線は、顔を忘れたから付けるんじゃないぞ」
「それは分かる」
「忘れにくい顔だ。金の数が合わん時、すぐ分かる」
「そんな顔だけ覚えるな」
彼は工具を置いて笑った。
俺は自分の顔を触り、よく分からないまま手を下ろした。
道具を引き取る前、職人が最後の荷重試験を頼んだ。
新しい固定材は、布を噛んだまま閉めると見た目だけ留まることがある。
ガルドが俺に、布を少し挟んだ状態を見せた。
「これを見つけろ」
正しい方と、間違った方を並べる。俺は明るい所へ運び、横から見た。閉じた音だけでは区別できない。
職人は確認用の溝を示し、俺はそれを指先でも確かめた。
暗い時にも出来る手順が一つ増えた。
俺は図へ小さな丸を付け、ガルドへ同じ紙を渡した。
「お前が見られない時は、俺が見る」
「頼む」
彼は普段と同じ声で返した。
全部を代わりにできなくても、任された1か所はある。俺はその溝を、もう一度触った。
代金の10000を支払った。
現金は82420から、72420ルーンになった。
鎧と器具の明細、借りた金具の一覧、職人が直した箇所の控え。俺はそれぞれを分け、ガルドが持つ注意書きだけ別へ渡した。
盾の線を1本いくらと記録する欄はない。
今日の作業費の中に、借りた工具の使用も入っていることだけを確認する。
仲間を数えた気持ちまで、代金の内訳へ押し込む必要はなかった。
片付けの時、俺は借りた金具のひとつを失いかけた。
新しい袋に全部入れたつもりで、番号を数えると1つ足りない。
もう一度数えれば増える、という種類の問題ではない。
ガルドが腰に付けた分を示した。
「ここだ。お前が渡した」
「渡した欄を書いてなかった」
「今書けばいい」
俺は使用者の欄へ名を書いた。
全てが袋の中にあると想像するより、実際に誰が持つかを残す方が役立つ。
ガルドは俺の肩を叩いた。
「金具が1つ足りん時は、俺を数えろ」
「人を金具の一つとして数えない」
「じゃあ俺の腰」
言い直すところが妙に真面目で、俺は笑った。
夜、イグナスが退路の図を机へ置いた。
魔王城の手前まで進む道と、その先で確かめる区間。まだ分からない道には、分からないと書いてある。
ガルドは盾を椅子の横へ置いた。
ここにも普通の椅子があったが、彼は丸太を選んでいる。
俺は5本の線をもう一度見た。
エレナが、運ばれる人を守る布の予備を畳んだ。リシアは明日使う術式の控えを読んでいる。
「その盾、5人だと狭くないか」
俺が聞くと、ガルドは少し考えた。
「全員が1か所に押し込まれるより、俺が動いた方がいい」
彼は盾を構えず、自分の足を軽く動かした。
「俺を壁にするな。人だから動く」
俺も机を少しずらし、5人が外へ出る通り道を空けた。
ガルドは工具を返し、最後に盾を袋へ入れた。
刻んだ線は見えなくなった。
人数は変わらない。




