第34話「善意には続きがある」
「祈り、1回。これも書きますか?」
神殿の会計係が新しい記録用紙を持ち上げた。
エレナの笑顔が、きれいに止まった。
「それは書かなくて結構です」
「回数が不明だと、負担額を決められないと伺いまして」
「薬の使用量です。祈るたびに、私の口から銀貨が落ちるわけではありません」
俺は二人の間へ入った。
「俺の説明が足りませんでした。費用の裏付けが要る項目と、救護の経過を残す項目は別です」
会計係は紙を裏返した。裏にも祈りの欄があった。
丁寧な仕事ほど、間違えると両面に及ぶ。
朝、軍から北方の報告が届いていた。
現地部隊が昨日知らせた倉庫を封鎖し、戦闘用の触媒を積んだ荷車の進入を止めたという。ドロメクの部隊の一部は荷車を守るために戻った。村の迂回便は軍の封鎖区域へ入っていない。
俺は軍の報告を読んだ範囲として記録した。見ていない戦闘の剣の音まで、自分の手柄の横へ書くことはできない。
午後に来たのは、もっと身近な知らせだった。
エレナが以前相談していた共同救護について、神殿の負担が正式に決まった。今日受け取るのは2400ルーン。
うち600は、既に隊の薬から使った救護分の補填。残り1800は、新しく共用の薬と保管箱を用意するための金だ。
願いが届くまでには、人の署名と、薬の名前と、次に誰が働くかという確認が必要だった。
傷に治癒の光が届くより、ずっと時間がかかった。でもエレナは、この遅さを怒らなかった。
「私が通り過ぎたあとにも、薬が残るんですね」
受領書を持つ手が、少し緩んでいた。
最初の相談は、エレナの薬を誰が使ってもよいようにする、というものだった。
それでは彼女の袋が空になる。隊が次の怪我をした時に、今度は別の誰かへ頼むことになる。
薬を守るために人を断るのも、人を助けるために薬を際限なく出すのも、彼女には選びにくかった。
だから今は、共用の薬を別の箱に入れる。
隊の装備として持つ薬と、神殿の担当者が使う薬を分ける。実際に使った品の数を残す。患者の細かな事情を、俺の帳面へ移す必要はない。
会計係が患者名の欄を見た。
「こちらには、名前を全て写しましょうか」
「救護の記録は神殿が管理してください。支出の照合には、日付と品目と数量、担当者の確認を使います。人の悩みを、銀貨と一緒の袋に入れなくていい」
エレナは俺を見て、頷いた。
彼女が薬を使った相手を忘れるわけではない。俺が全員の事情を知らなくても、費用は確かめられる。
紙の持ち主を決めるのは、紙の中にいる人を守ることでもあった。
新しい箱を買いに行くと、職人はエレナの白い衣を見て、蓋に金の縁取りを勧めた。
「神殿へ納めるなら、見栄えも大切でしょう」
「水が入りませんか?」
「そこはもちろん」
「片手で開きますか?」
「両手の方がきれいに開きます」
「患者さんは、きれいに怪我をしてくださるとは限りませんので」
エレナが試しに片手を背中へ回した。
職人は縁取りより先に、留め具を変えることにした。
リシアが薬瓶を1本持ってきた。実物の高さを当てると、見た目のいい箱には立てて入らない。
「横に寝かせれば入ります」
「全部の瓶が同時に漏れた時、ひとつの新薬が出来上がるわね」
「仕切りを付けましょう」
俺は見積書の箱の欄を指した。
飾りの費用を外し、仕切りと蓋の内側の留めを入れる。合計は最初に決めた薬と箱で1800に収まる。
ガルドは、持ち手を試していた。
「丈夫か?」
「普通に運ぶ分には」
「普通ってどのくらいだ」
職人の視線が、ガルドの腕から俺へ移った。
「殴りません」
俺は先に言った。
「持ち運びの箱です。盾の追加発注ではありません」
ガルドは、分かっている、と答えた。持ち手だけで箱をぶら下げ、底をもう一方の手で支えた。
思ったより丁寧だった。
彼は壊れるものを知らないのではない。壊さずに運ぶ時に、力をどう使うかも知っている。
買う薬については、もっと時間がかかった。
エレナが使いやすい種類と、村で扱える種類は同じではない。
彼女の魔力で安定させる薬なら効き目が早い。でも常に彼女がいるわけではない。地元の救護担当が確実に使えるものを増やした。
「遅くても、説明を受けた人が使える方を」
エレナが瓶を戻す。
「私は、助けられる時には助けます。でも私のいない日に、箱が役立たないのは困ります」
薬屋は、量を増やすだけでは保管期間を超える、と注意してくれた。
俺が割安な大瓶を選びかけたところだった。
「1瓶あたり安いのは分かります。使い終える見込みは?」
リシアの声が横から来た。
俺は需要を確かめた記録へ戻った。
以前、彼女の高い薬へ同じことを聞いた覚えがある。安い瓶を持っても、問いから逃げられるわけではない。
大瓶を棚へ返した。
小瓶を組み合わせると、種類ごとに使い切る時期を分けられる。割安さは少し減るが、捨てる予定の薬を買わずに済んだ。
「あなた、今日は値段の高い方を残したのね」
「残した理由も書くよ」
「瓶にも書いて。紙を読まない担当者が、一番高いものから開けるかもしれない」
品名と使用期限は見やすく書き、細かな費用は会計用の控えへ置いた。
誰に何を知らせるかで、同じ情報も役に立つ場所が変わる。
神殿へ戻ると、交代する救護担当が3人集まっていた。
エレナは使い方を説明し、俺は払った1800の明細を会計係と確かめた。
2400を受け取り、1800を支払う。
現金は39720から40320へ増えた。
増えた600は、治療をした利益ではない。隊が先に負担していた薬の分が戻ったものだ。
前の支出に対応する補填として印を付け、同じ600を新たな薬の購入としてもう一度差し引かない。
会計係は、最初の祈りの欄に太い線を引いた。
欄が大きかったので、太い線も長かった。
「これなら、祈りすぎても予算が尽きません」
「薬は尽きますから、そちらは見てくださいね」
エレナの笑顔が戻っていた。
説明が終わる直前、若い担当者がそっと手を上げた。
「薬が足りなくなったら、私のお金で買ってもいいですか」
エレナはすぐに頷かなかった。
俺も、善意だから大丈夫、とは言えない。
「緊急なら、必要な治療を優先してください。そのあと神殿へ伝える手順を、今ここで決めましょう。いつもあなた一人が先に払う仕組みにはしない」
神殿の会計係は、少額の救護用現金を別に置く案を出した。
それは神殿側の管理になる。俺たちの活動費に混ぜない。定期の補充を誰が承認するか、薬屋へ直ちに頼める範囲はいくらか。俺たちがいない日に、俺たちの許可を待つことはできない。
イグナスが椅子を寄せた。
「誰かが怪我をしてる時、俺が帰ってくるまで待たないでくれ」
若い担当者は、勇者を待たなくてよいと、用紙の端に書いた。
俺はその文言が正式な手順の見出しになる前に、緊急時の連絡先、と書き直してもらった。
「俺、そんなに邪魔か?」
「違う。お前を連絡先にすると、魔王城まで連絡が追いかけてくる」
イグナスは納得した。
「それは困る。戦ってる最中、返事が雑になる」
「雑で済むといいけどな」
交代の時間を決めるところで、また議論が止まった。
3人とも、来た患者を最後まで見てから帰るつもりだった。それでは最後がいつか決まらない。
エレナも昔は、交代を待たずに残っていたという。
「でも、疲れて薬を取り違えたら、私の気持ちだけでは戻せません」
彼女は次の担当へ引き継ぐ欄を作った。
経過の詳しい記録は別に保管する。この紙には、残った薬と、処置を続ける人がいること、次の担当が受け取った時刻だけを書く。
紙を埋めたら、前の人は休む。
「お祈りしてからでも?」
「はい。でも、祈っている間に次の勤務を始めないでください」
エレナは真面目に言った。
その真面目さに、3人が笑った。
俺は勤務の交代を銅貨に換えることはできない。でも次の人がいると分かれば、薬を全部抱えて立ち続けなくて済む。
救護の箱を閉じるのは、救護をやめる合図ではない。誰かへ渡すための準備だった。
パンを買う前に、リシアが神殿へ戻った。
箱に入れた薬の注意書きが、小さすぎたのだ。
「私には読める。でも薄暗い部屋で、寝不足の人が読めるとは限らない」
担当者に実際に箱を開けてもらうと、瓶の違いを見分けるために窓辺へ持っていく必要があった。窓辺に患者がいないとも限らない。
リシアは紙を大きく切り、瓶を置く区画にも同じ番号を付けた。薬の説明そのものはエレナが確かめ、間違えて覚えやすい2種類を離して入れる。
俺は、薬と箱を受け取ったという署名だけで帰りかけていた。
物を渡して、使い方まで届いたと思うのは早い。
最後に若い担当者が目を細めず瓶を選べることを、全員で確かめた。
「この紙は無料?」
ガルドが尋ねる。
「買った箱の仕切り用の残り。追加の支払いはないわ」
「大きい字は高くないのか」
「高かったら、あなたの名前を小さくするところだった」
ガルドは、俺の名は普通に書け、と真剣に頼んだ。
夕方、二人目の担当が来た時、箱の底を支えたガルドが、引き継ぎの台まで運んだ。
台は、彼が座るには頼りない造りだった。
「俺は立ってる方がいいな」
聞かれる前に彼が言った。
エレナが渡した箱を、担当者が受け取る。
会計係が持ち手へ布を巻いていた。文字を縫い付ける暇はないので、墨で大きく、薬、と書いてある。
ガルドが1文字を眺めた。
「盾って書かなくていいのか」
「書きません」
職人より早く、エレナが答えた。
俺は使った費用の報告を畳んで、彼女の袋へ入れず、自分の袋へ入れた。共用薬の鍵は担当者へ、治療の記録は神殿へ。全部をエレナに持たせる必要はなかった。
外へ出た彼女は、肩を一度だけ回した。
「軽くなりました」
薬の重さより、行った先々の続きを一人で持たなくてよい、という声だった。
階段を降りたところで、子供が転びかけた。
彼女は反射的に手を出し、支えてから、無傷の膝を確認した。
子供の母親が慌てて財布へ手を伸ばす。
「今のは、どうかそのままで」
エレナが笑って止めた。
俺は何も書かなかった。
後ろから会計係が走ってきた。祈りの欄を消した新しい用紙を渡したかったらしい。
彼女が受け取ると、紙の端には、小さく休憩済みの欄が増えていた。
「そこは、今から埋めます」
エレナは紙を畳み、パン屋の方へ俺たちを向かせた。




