第33話「敵が困る支出」
軍議の机には、敵の倉庫より大きな赤い矢印が描かれていた。
俺はその先を指で押さえた。
「ここ、村ですよね」
「敵の補給路だ」
輸送担当の将校は答えた。村であることを否定していない。そこが困る。
王都へ戻って3日目。審査の合間に呼ばれた俺たちは、ドロメクの印が付いた荷札と輸送集積所の記録を軍へ渡していた。北方の倉庫を押さえる作戦は現地部隊が担う。俺たちが今朝のうちにそこへ行ける距離ではない。
ただ、王都から民間の輸送を止める命令なら、今日の便に間に合う。
それが矢印の脇に、小さく書かれていた。
「村へ通じる橋を全部閉鎖すると、敵の荷車は困る。村の荷車は?」
「同じように困る」
リシアが俺の横から即答した。
「たいへん公平な橋ね」
将校は眉を寄せた。机の向こうで、イグナスが椅子を引き寄せる。
「俺たちが見つけたのは、戦闘触媒の保管場所だ。村が敵だと分かったわけじゃない」
「敵兵も村の道を使う。分けて封鎖するには人手が要る」
「だったら、分けるために何が要るかを聞きたい」
勇者は赤い矢印に自分の指を置いた。消しはしない。ただ、そこで止めた。
街道の荷車を通行不可にするのは、命令1枚で済むらしい。
その後に困るものは1枚では済まない。
北へ出る麦粉、戻ってくる空樽、神殿の薬、冬物の布。空樽を後回しにしたら、来週の水と穀物の運び手が容器を失う。中身がないから仕事もない、とはならなかった。
俺はオルネスの輸送表を開いた。
彼は誤集計の訂正を済ませ、今日は王都の組合にいる。これから北へ戻る便の変更を相談できた。
「僕の荷車は、矢印より曲がるのが下手です」
呼ばれたオルネスは地図を見るなり言った。
「この細い道に回す案は無理です。坂で停まります。僕も停まります」
「道幅が足りないのか」
ガルドが尋ねた。
「道幅はあります。橋の手前の曲がり角がありません」
「曲がり角はあるだろ」
「荷車に必要な分が、ありません」
ガルドは自分の肩を見て、納得した。
俺には荷車の代わりに彼を押して曲がり角を試す想像が浮かんだが、言わなかった。腕力の検証が始まってしまう。
別の道は、王都近郊の渡し場を経由する。そこから北へ向かう共用便に接続できる。2日遅れるが、村の荷は届く。
オルネスは遅れる2日の保管費を、地図の余白へ書いた。
「軍の依頼で経路を変えるなら、荷主に全部負担させないでください。運び手も、同じ荷を二度積みます」
俺は金額を見た。
2100ルーン。渡し場の臨時荷役、荷の保管、連絡票と、近郊区間の護衛補助を含む。
現金は41820。
払える。だが払えることと、俺が勝手に払っていいことは違う。
「今回の任務に付随する避難輸送として、軍の指示書をください。負担する区間と荷を決めます。軍本隊の戦費を、うちの袋から丸ごと出すわけじゃない」
将校は赤い矢印より細い筆を取った。
「王都側の迂回措置に限る。それでよいか」
「はい。倉庫の封鎖は現地部隊の計画と予算で」
「敵を困らせるために、こちらが2100払うのか」
「こっちだけ困る作戦を避けるためです」
俺の返事のあと、エレナが神殿へ送る薬の箱を指した。
「これが止まると、怪我を治す人も困ります。敵味方の数を数える前に、そこは確かめていただきたいです」
将校は薬の便名を書き加えた。
議事の紙が1行伸びた。村を敵の一部にしてしまうより、ずっと小さな手間だった。
午後、俺たちは渡し場へ向かった。
4人の仕事は遠くの倉庫を一瞬で制圧することではない。急に積み替えが決まった民間の荷を、今日この場所で守ることだった。
川辺は荷主と御者の声でいっぱいだった。
先に渡したい薬の箱と、雨に弱い麦粉の袋が、同じ屋根の下を求めている。
「薬だから先、とは言わないわ」
リシアは空を見た。
「麦粉が濡れたら、薬を飲む人の食事がなくなる。小さい箱を上、袋を床から離して。そのまま一緒に覆える」
荷役の男が持っていた板を床へ置いた。
ガルドが持ち上げ、イグナスが袋を滑らせ、エレナが薬の封を確かめる。
俺は受け取る便と、積み替えた個数を突き合わせた。
紙の上では1台から別の1台へ線を引けば済む。実物は、まず荷台から降ろさないと次へ載らない。
「経理、あの樽は?」
「空だ。後ろでいい。ただし置き忘れるな」
ガルドが樽を両腕で運び、積み場所へ置いた。
次の瞬間、樽は坂を転がった。
イグナスが片足で止めた。剣は抜かなかった。勇者の靴底が世界を救うには、ずいぶん平和な規模だった。
「空なのに元気だな」
「止まってる時も、同じくらい役に立つんだよ」
俺は輪止めを入れた。ガルドが俺を見た。
「今のは経費か?」
「既存の備品の使用。お前の失敗1回ごとの請求ではない」
「よかった」
「よくはない。川まで行かなくてよかった」
荷車の列が動き始めた頃、軍の巡回兵が近郊の道を確認して戻ってきた。
北向きの通行を止めた知らせを見た商人が、独自に旧道へ向かっていたという。旧道の出口は作戦の封鎖区域につながっている。
間に合えば知らせてほしいと頼まれた。
イグナスがその場で走り出しかけ、オルネスが彼の袖をつかんだ。
「看板を持ってください」
「話せば伝わるだろ」
「勇者の顔を見たら、話より先に歓声が来ます」
渡された板には、太く迂回路と書かれていた。
イグナスは板を掲げ、ガルドと道の分岐へ向かった。
ほどなく、戻ってきた御者が俺に尋ねた。
「勇者様の看板、あれは買えるのか?」
「買えません」
「板だけでも」
「道を間違えないための板を、今売るわけにいかないでしょう」
御者は少し残念そうに、正しい道へ曲がった。
人が動くのは、恐怖か命令だけではない。記念品への関心でも、荷車は危険な道へ行きかねなかった。
俺は板の裏に返却先を書いた。
ただ、積み替えの控えを渡すところで、もう一つ揉めた。
麦粉の荷主が、遅れた2日分を俺に請求すると言った。
「保管費は払いました。到着の遅れで具体的な損失が出るなら、軍の窓口へ記録を出してください。俺には今日、全部を確約する権限がありません」
「勇者がいるんだぞ。勇者がいいと言えばいいだろ」
イグナスが近づいてきた。
「俺は道を守る。契約を変える権限まで持ってるとは言ってない」
「じゃあ、何のための勇者なんだ」
言った男は、すぐに口を閉じた。
イグナスは怒らず、荷台の袋を見た。
「その麦粉を、敵のいる道に行かせないためだ。遅れをなくせないのは悪いと思ってる。だから困る内容を、担当へ伝えてくれ」
男は袋の上へ腰を下ろしかけ、リシアに止められた。
「そこは商品。あなたの椅子じゃないでしょう」
オルネスが空いた箱を差し出す。男は座り、荷の行き先を説明した。
村の共同窯に届ける分だ。明日の焼き上がりに間に合わないと聞いていたが、今朝の連絡では在庫が1日分あった。別便の小麦が今夜届けば、さらに1日持つ。
「では到着をまとめず、小麦の便から先に向こうの窯へ連絡しましょう。こっちの麦粉の輸送は2日遅れます。別便まで同じ日に揃える必要はありません」
オルネスが2枚の運行票を並べた。
荷主は、どうせ全部遅れるから窯を止める、と村へ伝えかけていたという。
俺はその文面を見せてもらった。全部、という二文字が、実際より大きな休業を作ろうとしていた。
連絡係がまだ組合を出ていない。書き直せる。
新しい紙を渡すと、男は自分で文面を書いた。いつ、どの便が来るか。決まっていることと、まだ決まっていないことを分けた。
「損の請求を取り消せと言うのか?」
「違います。損が出たら、その分を記録してください。出る前に窯を全部止める必要はないという話です」
男は紙を乾かしながら、勇者へ向き直った。
「看板は買えないのか」
「なぜそこで戻るんだ」
俺が言うと、イグナスが困った顔で笑った。
「俺が次に村へ行ったら、窯の前で道案内する。それでいいか」
「パンは出すぞ」
「公務の対価と混ぜるなよ」
「ナオト、俺はパンを食べて道を間違えるような勇者じゃない」
問題はそこではなかったが、荷主はようやく笑った。
受け取った積み替え控えの隅には、窯への連絡を書き直した時刻も残した。2100の内訳は変わらない。追加の金を使わずにできたことまで、なかったことにする必要はない。
オルネスは、今日はちゃんと紙が人を助けたね、と言った。
俺は焼きたてのパンの匂いを思い出した。紙だけでなく、誰かが読むところまで届けば、だ。
夕方、全ての荷について引き継ぎが済んだ。
薬の受け取り先には遅れの連絡が入った。麦粉には屋根が付いた。空樽も、ちゃんと空のまま次の便に載った。
2100を支払い、明細の4つの項目に印をもらう。
現金は39720になった。
北方の敵倉庫がどうなったかは、まだ分からない。
俺は支払報告の成果欄に、封鎖成功と書きかけて、筆を止めた。
今日確かめたのは、民間の荷が迂回に乗ったことだけだ。
そこに正直に書く。
軍の連絡官は報告を受け取って、北方の部隊へ送る封筒に入れた。
「村に向かう荷は確保できた、と伝える。現地で止める道を減らせる」
「敵も迂回したら?」
「軍が見分けるために、お前たちの倉庫情報がある」
全部を一度に解決する金ではない。次の人が、間違った場所を押さえずに仕事をするための金だった。
帰り道、リシアが俺の報告書を横から見た。
「あなた、敵を困らせたかどうかより、樽を忘れなかったか確認してたわね」
「敵はまだ見てないからな。樽は見えた」
「大きい敵ほど、見えないことは多いのよ」
川向こうから、イグナスとガルドが戻ってくる。
勇者は看板を抱えていた。
「返したいんだが、どこへ?」
「裏に書いた」
イグナスは板を裏返した。
文字の隣に、旅立つ兵士のための祝福として、誰かが小さな花を挟んでいた。今日渡した荷と一緒に、村へ運んでくれというものだった。
エレナが花を受け取った。
「次の便へ預けてきます」
「それも金が要るか?」
ガルドが尋ねる。
俺はオルネスへ確かめた。彼は首を振った。
「薬の箱の隙間に置けます。ここまで大切にされている隙間なら、まだ空いています」
夜、軍から届いた最初の返事は、現地部隊が荷札の印を確認し、翌朝に倉庫を押さえるという短いものだった。
俺はそれを報告書の後ろへ挟んだ。
まだ勝っていない。だが村の麦粉は、敵の敗北を待たずに運び始められた。
食卓にはパンが5つ並んだ。
「これ、空樽より元気じゃないか」
ガルドが焼きたてを持ち上げた。
「そっちは走らせるなよ」
俺が言うより早く、彼は食べ始めていた。




