第32話「帳簿を置いて走る」
帳面を置いてください、と言われた。
言ったのは、ゼフィナだった。
昨日まで書類を確認していた人が、今日は俺の手から紙を離そうとしている。
「原紙はこちらで預かります。今から持ち歩く必要はありません」
彼女は預りの控えを差し出した。
俺は内容を確かめ、袋を机へ置く。
そのあと、イグナスと一緒に扉へ走った。
輸送員の証言を聞く予定の朝だった。
俺たちは監査院へ集まり、原票を出す準備をしていた。
証人が来ない。
遅れているだけかもしれないと考え、連絡先を確認していた時、入口から息を切らした人が入ってきた。
公用の使者だった。
証人が、泊まっている宿の裏で襲われたという。
護衛が止めているが、怪我人がいて、逃げる人が混乱している。
イグナスは場所を聞き、すぐに出発を決めた。
エレナが救護用の袋を持ち、リシアは杖を取る。ガルドは盾の留め具を確かめた。
俺だけが、原紙と帳面を持ち直そうとしていた。
大事な物だから離せない。
そう考えたところで、ゼフィナに止められたのだ。
大事な物を持ち歩くことと、大事な物を守ることが、今日は同じではなかった。
「預けます。戻ったら、受け取りを確認します」
俺が答えると、彼女は頷いた。
「その手順で結構です。今は、現場の人をお願いします」
使者が戻るための馬と、救護用の運搬の手配に、650ルーンを使った。
現金残高は41820。
金を使った記録は短い控えに残す。帳面本体が手元になくても、仕事の事実を消す必要はない。
写しを鞄の小さい袋へ入れ、今度は扉へ向かう。
紙を持っていない右手が、妙に軽かった。
宿のある通りには、人が集まっていた。
俺が見た時、護衛の兵が裏口の前で二人を押し止めていた。
襲った者なのか、逃げようとした宿の客なのか。遠くからは分からない。
イグナスは、先に剣を抜かなかった。
兵へ自分の身分を告げ、どちらが危険かを聞く。
エレナは入口近くの人の腕を見て、出血している場所へ向かった。
ガルドは盾を人の間へ入れ、通る道を作る。
俺は宿の客を、壁の内側へ寄せるよう頼まれた。
「こちらへ。裏口から離れてください」
声を出すと、一人が俺を見る。
何が起きたのかと聞かれ、俺は全部を説明しなかった。
分かっていないことも多い。
「今、裏口は使えません。表の方へ、ゆっくり出てください。怪我のある方は、その場で知らせてください」
見える事実と、必要な動きを伝える。
帳面へ書く時の説明より、ずっと短い。
短くしても、違うことを言わないようにした。
裏口で、一人が護衛を押しのけた。
手に短い刃がある。
ガルドの盾が、その前へ入った。人を倒すために振り回すのではなく、刃の通る場所を塞ぐ。
イグナスが手首を押さえ、刃を地面へ落とした。
リシアの杖から、細い光が足元へ走る。
相手は足を動かせず、兵が腕を取った。
俺は、その人の顔を覚えようとしなかった。
今の自分の役目は、他の人を近づけないことだった。
証人の輸送員は、宿の小さな倉庫にいた。
腕を傷めていたが、意識はある。
エレナが状態を見て、座る場所を変えた。宿の主人が水を運ぶ。
俺は扉の前の荷を動かし、救護の人が入れる幅を確保した。
森の分岐でも、砦でも、先に通る場所を空けた。
似た仕事を、今日も使っている。
世界が危険になったから、急に新しい能力が増えるわけではない。
「資料は、なくなっていませんか」
証人がエレナへ尋ねた。
その問いを聞いて、俺は顔を上げる。
「どの資料ですか。今すぐ話す必要はありませんが、置いた場所を教えてください」
「部屋の袋に……輸送の控えです。昨日、見せるために出しておいた」
イグナスは兵へ、部屋を確認してもらうよう頼んだ。
俺が勝手に入って探す形にはしない。
証人の許可と、兵の立会い。取り出す物の一覧。
人を救うのが先でも、そのあと物を扱う手順は必要だった。
控えは、一部が残っていた。
袋の口が開かれ、紙が床へ散っている。全部なくなったわけではない。
どの紙がなくなったかは、本人が落ち着いて確認するまで分からない。
俺は、拾った紙を順番に並べ直さなかった。
散っていた位置を兵が記録し、ひとまとめに保管する。
きれいにする前に、どうなっていたかを残す。
いつもの紙の整理と、今の現場の確認は、同じではない。
襲った者を捕らえた兵が、持っていた袋を確認した。
証人の部屋から持ち出された可能性のある紙が入っている。
その場で隊へ渡されることはなかった。
兵が封をし、持ち主と出所を確認してから監査院へ送る。
俺は、それでよいと思った。
俺たちが欲しい紙だからといって、こちらの帳面へ先に取り込めば、どこから来た物か分からなくなる。
証人は、治療のあと救護所へ移ることになった。
監査院で証言する予定は、延期される。
人が怪我をしたのに、予定どおりの時刻へ座らせる必要はない。
ゼフィナへ状況を知らせる使者は、最初に手配していた人が担った。
俺は確認した範囲だけを口頭で伝えた。
証人は生存、腕の怪我あり、治療中。
襲撃者一人は確保、もう一人は兵が確認中。
控えは一部散乱、持出しの可能性あり、兵が保管。
犯人の目的は、まだ分からない。
紙が関係しているように見えても、動機まで見たことにはしない。
イグナスは最後に、宿の人へ怪我がないか聞いた。
ガルドは割れた戸の前へ立ち、客が近づかないよう見ている。
リシアは術式を解く時刻を兵と合わせた。
エレナは引継ぎを終えてから、手を洗い直した。
4人の仕事が終わるのを、俺は待った。
帳面を取りに先へ戻る必要はない。
今、5人で戻れるかを確認する。
監査院へ着いた時、ゼフィナは机の上に俺の袋を置いていた。
封と、預り番号は変わっていない。
俺は控えを見せ、受け取った物を照合する。
原紙、帳面、写し。
全部ある。
袋を手に戻すと、重さがいつも通りだった。
そのことに、思っていたより安心した。
「預かっていただいて、助かりました」
「持って走っていれば、失う物が増えたかもしれません。今日は置く方が、適切でした」
ゼフィナは、淡々と答えた。
いつも資料を出せと言う人も、資料を持つ必要のない場面は分けている。
俺が帳面へ愛着を持つことと、仕事の順番を守ることは別だった。
手放したから、経理担当でなくなるわけではない。
帳面がなくても、受入れの準備と連絡はできた。
今日の650を、出納へ転記した。
短い控えと、使者の受領。現場で使った袋の位置も確認する。
同じ金額を、救助と伝令の両方へ別々に引かない。
手配は1組で、その中に含まれた仕事を分けて書く。
エレナは使用した薬の数を伝え、リシアは術式で使った石を分類した。
薬と石は、既に買った在庫の使用。
今日の現金へ新しい代金を二重に足さない。
混乱した朝でも、落ち着けば対応を確認できる。
イグナスは、兵から届いた現場の記録をゼフィナへ渡した。
原紙の管理は兵と監査院が行う。俺たちは内容を確認するための連絡先を持つ。
襲われたことだけで、証人の言葉が全部正しいと決まるわけではない。
襲った者が紙を持っていたから、誰が指示したかまで分かるわけでもない。
ゼフィナは、その二つも分けて調べると言った。
俺には、それが冷たい仕事には見えなかった。
証人をもう一度、都合のよい物語の材料へしないための確認だ。
午後、隊の部屋へ戻ると、俺は鞄を下ろした。
右手のひらに、薄い擦り傷があった。宿の荷を動かす時についたらしい。
エレナが消毒をしてくれる。
「帳面より、今日は手が働いたんですね」
「はい。紙を持つ手を空けても、仕事はありました」
俺の返事に、彼女は少し笑った。
ガルドが椅子を寄せ、俺の鞄を床から上げた。
「今度は、休む時に下ろせ。今日はもう、走る予定はない」
「予定が変わったら?」
「その時は、声をかける。先にずっと構えてる必要はない」
俺は、預りの控えを帳面へ綴じた。
今日は置いて走った。
戻って受け取った。
それが、紙を失った記録ではなく、守った記録になった。
夕方、救護所から知らせが来た。
証人は落ち着いていて、明日の朝には短い説明ができそうだという。
今日は、こちらから詳しい質問を送らない。
俺は返答へ、承知したと書いた。
返事はそれだけにした。証人へ送りかけた質問の紙を、明日の欄へ差し込んだ。




