第31話「英雄の証言台」
イグナスは、剣を壁際へ置いた。
会計審査の部屋では、抜く必要がない。
代わりに机へ出したのは、自分で書いた3枚の紙だった。
「先に、署名を見比べてほしい」
彼の声は、戦場の合図より低かった。
それでも、机の向こうへはっきり届いた。
王都へ戻るまで、4日かかった。
道中の交通、宿泊、食事と、審査へ出す資料の準備で1800ルーン。
残高は42470になった。
隊は、帰還したから無一文になったわけではない。
次の追加交付の審査は保留だが、既承認の活動費は残っている。
俺はその数字を、最初の説明に入れた。
資金が全部消えたという誤解を、こちらからも広げたくなかった。
ゼフィナは、先に資料を机へ並べていた。
支払済み2800の輸送伝票。
追加4800の請求。
3箱を追加受領したという確認書。
そして、組合の古い誤集計と返金の通知。
最後の1組は、別に分けてある。
同じ4800が出てくるからといって、すべてを同じ疑いとして読んでいない。
それを見て、俺は少し安心した。
「こちらは、訂正された事務上の誤りです。返金と、初回報告の訂正を受け付けます」
ゼフィナが古い通知へ印を押した。
「問題はこちらの追加受領です。公用の部署から、隊長が確認した資料として届いています」
俺は、初めて原紙を見た。
箱8。うち追加3。
受取人イグナス・アークライト。
その下に、署名らしい線があった。
俺が何度も見た勇者の字とは、少し違う。
少し違うだけで偽造と断定するのも早い。疲れていた日や、狭い場所で書いた日なら、字が変わることはある。
俺は先に、自分の判断を言わなかった。
本人が、どう確かめるかを見る。
イグナスは、原紙へ手を触れず、隣に自分の紙を置いた。
隊の委任状の受領、最初の追加予算、白石砦の報告。
どれも、実際に書いた署名がある。
「俺は、この確認書へ署名していない。3箱も受け取っていない。ただ、字が違うだけで終わらせず、受取日を確認してほしい」
ゼフィナは日付を指した。
その日、俺たちは峠の手前で荷を点検していた。
荷車の御者の記録と、宿場での通行確認がある。
追加受領の場所は、麦橋町の別の倉庫とされていた。
同じ日付で、隊長が両方にいたことになる。
「代理が受け取った可能性は、ありますか」
「代理を立てた記録はない。俺の名で署名させてもいない」
イグナスは、短く答えた。
勇者なのだから信じろ、と言わなかった。
何をしていないか、何なら記録を出せるかを示した。
強い人の声が、強い人の権威だけで働く場所ではない。
次に、リシアが薬と魔石の記録を出した。
受け取った箱の番号。開封した日。使用した分。残っている分。
追加の3箱に対応する番号はなかった。
「箱の数だけでは、見分けられません。こちらの番号と、受領書に書かれた番号を合わせてください」
彼女が言うと、ゼフィナは原紙の下の欄を見る。
番号が書かれている。
ただ、その3つのうち2つは、隊が運んだ箱の番号と途中まで同じだった。
末尾だけが変わっている。
同じ箱を別の物へ見せたのか、別の箱を誤記したのか。
確認は、まだ必要だった。
リシアは、残っている魔石を1つ机へ置いた。
見た目だけで新品と決められないことを、説明するためだ。
「これは受領した箱から出し、白石砦で使った物です。残量があるので保持しています。この記録では、使用途中に分類しています」
「追加で受けた物を、消費の記録から隠している可能性は?」
別の担当者が尋ねた。
リシアは不快そうな顔をしなかった。
その可能性を確かめるために、ここへ来たと理解している。
「隊の記録だけなら、その疑いは残ります。砦の支給と使用確認、薬店の出荷控え、御者の箱の記録を合わせてください。私が全部作った物ではありません」
俺は対応する紙を出した。
原記録は1つの箱へ集めず、番号でたどれるようにしてある。
ゼフィナは、照合する順を選べた。
俺が読んでほしい順を強制しなくてよかった。
エレナの説明は、救護の使用だった。
緊急時に1本使った薬。臨時で受けた薬と搬送。神殿へ照会中の負担先。
補填される見込みの金を、受領済みにはしていない。
治療記録は救護所へ残し、費用の証明として必要な箇所の照会先を示した。
「患者の事情を、ここで全部読む必要はありません。使った物と、誰が確認したかは、担当者から説明できます」
彼女の声は丁寧だったが、そこは譲らなかった。
監査を受けるために、治療した人の暮らしまで無制限に渡すわけではない。
ゼフィナも、その区分を認めて記録した。
必要な根拠と、不要な情報を分ける仕事は、相手側にもある。
ガルドは、荷車の図を広げた。
箱の位置、紐の数、預けた剣の箱。
彼の字は、俺より大きい。線は太いが、荷台の使い方が分かる。
「3箱足すなら、ここには入らん。別の車が要る。別の車を受けたなら、御者もいるはずだ」
「隊が別の場所で受け取った可能性は?」
「俺だけなら、見ていない時間はある。だから、隊の他の4人と、御者にも確認してくれ。俺は、自分が載せた分を説明する」
ガルドは見ていない部分まで、見たと言わなかった。
その答えは、弱いようで強かった。
誇張して1か所崩れるより、確認した場所が残る。
俺は彼の図の横へ、輸送の控えを置いた。
最後に、俺が出納を説明した。
当初120000。
開幕時点の既払111580。
追加60000は、30000ずつ受領済み。
薬の返品、保証金の返還、護衛の代金、古い誤集計の返金。
今日までの支出と、残高42470。
追加請求4800は、まだ払っていない。
その額を残高から引き、払ったことにする処理もしていない。
「なぜ、支払を保留しましたか」
ゼフィナの質問へ、俺は具体的に答えた。
「元の番号と同じで金額と箱数が違い、依頼と受領の対応が確認できなかったためです。額が高いという理由だけではありません」
「最初の誤集計は、なぜ確認できなかったのでしょう」
「支払った事実と正式な領収を照合し、輸送の原票と写しが別の仕事として合計されたことまで確かめていませんでした。実際に運んだ回数と請求の集計を合わせる欄を、次の手順へ加えました」
自分の失敗を、返金されたから消さない。
別の偽造の疑いがあるから、組合の誤りまで悪意としてまとめない。
俺は、その2つを分けて説明した。
ゼフィナは、しばらく資料を見た。
部屋の時計が、小さく鳴った。
戦いではないのに、俺の手に汗が出ている。
イグナスは腕を組まず、机の上に手を置いて待った。
何かを力で押すための手ではなく、確認するための手だった。
「隊の説明と、独立した記録には対応があります。追加の受領については、請求元と登録された印、署名の作成経緯を引き続き確認します」
ゼフィナの返事で、俺は息を吐いた。
まだ全部が終わったわけではない。
それでも、こちらの仕事を説明できた範囲は認められた。
将来の交付の判断には、請求元の確認が残る。
今日使える金の扱いは、変わらない。
別の担当者が、印の登録について紙を持ってきた。
追加受領書に押された印は、王都の臨時調達部署の物だという。
登録日は、俺たちが王都を出たあとだった。
その印で、問題の3箱の受領を確認した形になっている。
受領を確認した印が、いつ押されたものなのか。作成日の照合が必要だった。
「後日の証明として押した可能性は、あります。ただ、その場合の作成日と確認者が必要です」
ゼフィナは、ここでも一つの違いだけで断定しなかった。
俺は原紙の作成日の欄を見た。
空いている。
受領したとされる日だけが、大きく書かれていた。
ここから先は、実際に作った部署へ聞く仕事になる。
俺が印の違いを見つけたから逮捕が決まる、という場所ではなかった。
審査の部屋を出る時、イグナスが剣を持ち直した。
ゼフィナは次の確認の日を伝え、必要な証人へ照会を出すと言った。
輸送員の一人が王都にいて、直接説明できるという。
俺はその時刻を予定表へ書いた。
何かを一人で証明する日に戻らないよう、全員へ伝える。
外へ出ると、王都の鐘が鳴っていた。
イグナスは剣を背負い、少し肩を回す。
「剣を使わないのも、疲れるな」
「俺は、剣を使う方はできません」
「今日は、皆の道具を使った。剣を置く仕事も、必要だった」
勇者はそう言って、昼食の店を指した。
俺は財布を開ける前に、人数を数えた。
5人。
説明する机にも、食べる席にも、その5人の場所があった。




