第23話「計算が間に合わない朝」
砦の救護所で、俺は薬を買う紙を探していた。
エレナは、薬を待っていた。
必要な物が、違った。
「まず、こちらの止血薬をお願いします」
彼女の声で、俺は顔を上げた。
薬箱は目の前にある。紙が見つからなくても、蓋は開けられる。
俺は瓶を渡してから、空いた手で鞄を閉じた。
昨日までの準備が、今日の動きを邪魔するところだった。
最初の波を止めた直後、谷から次の魔獣が来た。
数は少ないが、動きが速い。
先に来た群れの後ろへ、別の群れを隠していたのだろうと、兵が言った。俺には、そう判断する知識はない。
ただ、砦の休む時間が予定より短くなったことは分かった。
リシアは薬を飲んだばかり。
ガルドとイグナスが前へ出て、術式の準備が戻るまで壁を守る。
兵の二人が、階段から負傷者を運んできた。
エレナは治療の場所を指し、すぐに手を洗った。
俺は水を替え、薬箱を開ける。
箱の札を触る。止血。回復。消毒。
同じ形の瓶でも、入る場所が違う。
昨日、位置を決めておいてよかった。
よかったはずなのに、買い足す相談の紙を探してしまった。
使う物と、記録する物の順番を、緊張すると戻しそうになる。
「今、ある薬から使います。なくなる前に、補給を頼みます」
俺は自分へも聞かせるように言った。
エレナは短く頷き、患者の傷を見る。
俺の返事を待つために治療の手を止める必要はない。
瓶を渡したら、次の箱を見ておく。
補給担当の兵が、倉庫の鍵を持ってきた。
臨時の薬と運送を頼めるが、公費のどの枠へつけるか、あとで確認が必要だという。
金を使う時には、隊長の承認がいる。
イグナスは壁の外で剣を振っている。
呼び戻せば、安全を守る人が1人減る。
俺は、委任状の現場裁量の欄を思い出した。
休養日に、必要な救護の緊急支出について、範囲を決めてあった。
治療を止めないこと。現地で費用を記録し、事後報告を出すこと。隊の通常の購入と混ぜないこと。
最高額も決めた。
今、そこを使う。
「1800ルーンの範囲で、薬と搬送をお願いします。使った品目と、運んだ人の数をあとで確認します」
補給担当は、こちらの残数と搬送する場所を聞いた。
俺が持つ見積書ではなく、エレナが必要とする薬の種類を確認する。
彼女は治療をしながら、短く答えた。
必要な種類だけを受ける。安い物で数を増やす相談ではない。
俺は銀貨を、先に数えて渡した。
残高16270。
未受領の後半30000は、今日も入っていない。
代金の紙には、まだ空欄があった。
その場で完了していない仕事だからだ。搬送はこれから行う。
空欄があることを理由に、仕事が始められない形にはしない。
支払済み、使用・完了確認待ち。
その状態を、俺の控えへ残した。
きれいな紙になるのは、落ち着いたあとでいい。
壁の上から、短い合図がした。
イグナスが立つ場所が、左へ移ったらしい。
俺には見えない。
救護所の入口に、人が二人立っている。負傷していない兵だが、外の様子が気になって動けずにいた。
「この通り道だけ、空けてください。次の人を運びます」
俺が言うと、二人は脇へ寄った。
人の動く道を確保することも、道具を並べるのと似ていた。
違うのは、置き場所を変える相手が、こちらを見て頷くことだった。
運ばれてきた次の兵は、意識があった。
痛みを我慢して、自分で歩くと言う。
エレナが声をかけた。
「今は、座ってください。歩けることと、歩いた方がいいことは違います」
俺は先日、自分にも言われたことを思い出した。
椅子を寄せる。
兵は座ると、急に顔の力が抜けた。先に動ける場所を作れば、説明を長くしなくても仕事が進む。
リシアが壁の裏へ戻った。
杖を持つ指が、少し硬そうだった。
俺は水の器を出し、薬の残数を短く伝える。
「戦闘用は、予定の残りがあります。救護用を追加しました」
「分かった。今度は、前の術式の残りを使える。新しい石は、そのあと」
彼女は俺の箱の隅から、使いかけの石を取り出した。
最初の波で出した術式は、全部消えてはいない。残った地形と力を利用し、次の群れの足を遅らせるという。
俺は新しい石を買って渡すことだけが、補給だと思いそうになっていた。
ある物を使える状態へ整える仕事も、そこにある。
「時間は、どのくらいですか」
「1分もいらない。でも、その間を二人が守る」
リシアは壁の外へ向かった。
短い1分のために、鎧と盾と剣が働く。
帳面へ書く数字なら小さい。待つ間の音は、小さくなかった。
盾へ当たる響きが、壁を越える。
俺は足を止めない。次の水を運び、使った瓶を別の箱へ入れる。
1本、2本。
数える仕事を、動く手の中へ入れた。
やがて、外の音が変わった。
短い叫びが重なり、それから間があいた。
止めたという連絡が届いても、俺は片付けを始めなかった。
まだ怪我人が来るかもしれない。
エレナが処置を終えた人を見て、次へ引き継ぐ。倉庫の担当は追加の箱を持ってきて、何本を渡したか確かめた。
戦いの終わりと、救護の終わりは同じ時刻ではない。
ガルドが最後に、盾を持って戻った。
顔に土がつき、鎧の肩から汗が落ちている。
俺は椅子を出したが、彼は先に鎧の留め具を緩めた。
「その椅子は、細いな。座る前に、少し脱ぐ」
この場でまで椅子を壊さない。
俺は、思わず小さく笑った。
ガルドも短く笑い、盾を壁へ立てる。
日常で覚えた手順は、戦いのあとにも使えるらしい。
イグナスは砦の兵と、外の確認へ残った。
敵の後続がないか。負傷者が壁の外に残っていないか。荷車が無事か。
勝ったと叫ぶより先に、確認が続く。
俺も、1800の支払の続きをする。
渡された薬の数量。実際に搬送を手配した人数と行先。残った未使用品の扱い。
補給担当者と紙を合わせ、完了した部分へ印を入れる。
使わなかった物まで、使ったことにはしない。
追加の現金支払がないことも、確かめた。
そこで、俺の鞄から濡れた紙が出てきた。
作業の途中で、水の器が少し倒れたらしい。
防水袋の中なら濡れないはずだった。
俺は口を見た。
折り返しが、片方だけ浅い。
閉める時に、焦っていた。
「袋を、買ったのに」
俺が呟くと、リシアが横から覗いた。
「袋は、破れていないわね」
「はい。俺が、ちゃんと閉めませんでした」
「じゃあ、今閉め直して。紙は、乾かせる物から乾かす」
彼女は責めるより、使える場所を探す。
俺も、失敗した気分だけで止まらず、濡れた紙を分けた。
支払の原紙は乾いている。濡れたのは、予定の写しと自分のメモ。
書いた字は少し滲んだが、元の見積は箱に残っていた。
俺は読み取れる部分を確認し、乾いた写しと照合した。
防水袋があれば失敗しない、という期待も今日、直すことになった。
夕方、5人が揃って休める時間になった。
エレナは最後の患者を、砦の担当へ引き継いだ。
リシアは消費した石をまとめ、ガルドは盾の帯を見た。イグナスは外の確認を終え、兵の配置を戻してきた。
俺は臨時支出の報告を出し、現場の裁量を使った理由を説明した。
隊長の署名は、事後確認としてもらう。
先に署名したことにはしない。
「必要な支出だった。俺も、内容を確認した」
イグナスは紙を読み、名前を書いた。
俺はその広い欄を見て、少し安心する。
作っておいた欄が、今日はちゃんと働いた。
「計算より、戦う方が早かったですね」
俺の言葉に、勇者は首を振った。
「昨日、使う条件を決めたから早く動けた。今日、全部をその場で相談する必要はなかった」
「でも、俺は途中で紙を探しました」
「探してから、薬を渡した。それで直せた。次は、渡す場所をもっと分かりやすくしよう」
彼は薬箱を指した。
札の位置は、座った俺には見える。立った人には、箱の縁で少し隠れる。
俺はその位置を変えた。
数を確かめる机と、薬を渡す箱を離す。書くために、渡す手を止めない。
今日の失敗を、明日の配置へ戻す。
砦の夜は、昨日より静かだった。
敵が来ないと保証されたわけではない。見張りの人が、まだ壁を歩いている。
俺たちは眠る前に、もう一度、帰還人数と道具の残りを確認した。
5人、揃っている。
現金16270。
未受領の交付30000は、まだそのまま。
数字の確認が終わると、ガルドが言った。
「今日は、帳面より先に寝ろ。紙は、明日もある」
濡れたメモは、乾いていた。
俺は袋の口を、両側合わせて折った。
閉じたのを確かめ、今度は一度で手を離した。




