第18話「俺が断った鎖」
1200ルーンの鎖を、俺は買わなかった。
その判断を後悔した時、1200という数字は頭から消えていた。
代わりに見えたのは、足の下から遠ざかる地面だった。
峠の手前の店で、ガルドが鎖を持ち上げたのは2日前だ。
短い鉄の鎖。両端に大きな留め具がついている。荷を下ろす時や、狭い斜面で補助をするための物だった。
「今ある縄で、同じことはできませんか」
俺は荷物の欄を見ながら尋ねた。
縄は点検してあった。長さも控えた。ほつれは目立たず、ガルドも今すぐ捨てる状態ではないと言っていた。
代わりがある物を増やすより、次の薬代へ残したい。
理由だけなら、間違っているとは思わなかった。
「縄でできることもある。ただ、岩へ当てて引くなら、鎖の方が持つ」
ガルドは、鎖のつなぎ目へ指を当てた。
「峠の道が全部、濡れたままとは限らん。必ず使うとは言わないが、あれば選べる場所が増える」
「正規の道を使う予定です。今は、見送ってもいいですか」
俺は、使わない予定だから不要だとまとめた。
イグナスは地図と道の情報を見て、危険な斜面へ入らない方針を確認した。ガルドも、それなら今は縄を維持すると答えた。
誰かが俺の数字だけを信じて、危険を選んだわけではない。
ただ、俺の見積の中には、道が予定どおりでなかった場合の余裕が足りなかった。
今日、峠の橋が一部崩れていた。
荷車は、手前の広い場所で止まる。
案内人は、歩いて渡れる迂回路を示した。人が先に反対側へ入り、橋の保守担当へ状況を伝える。荷車は安全な補修が済むまで待つ。
崖を無理に渡る計画にはしない。
小さな沢の上にある足場は狭いが、案内人が状態を確かめ、4人の装備と俺の歩き方を見て、縄を使うと決めた。
「荷は、いったん分けよう。ナオトは、自分の鞄だけ持って渡る」
イグナスが先に行き、向こうの木へ縄を留める。
ガルドがこちらで、俺の腰の補助帯を確かめた。
リシアは岩の表面を見て、滑りやすい所へ印をつける。
エレナは、最後に渡る予定だった。
手順はあった。
俺も聞いた。
そこまでしても、足の置き方を間違える時はある。
沢の中ほどで、小さな石が動いた。
俺の靴が滑る。
とっさに縄を掴んだが、身体の向きが外へ回った。鞄の重さに、肩が引かれる。
イグナスの声がした。
「止まれ! 縄を、離すな!」
止まりたい。
身体が、止まり方を知らない。
足場の端へ踵がかかり、次の瞬間、片方の脚が空へ出た。
腰の帯が、俺を支える。
縄は切れなかった。
ただ、岩の角へ擦れ、引く方向が悪い。自分の手で戻ろうとしても、腕に力が入らない。
落ちないよう支えている物と、元へ戻すために引ける物は、同じではなかった。
ガルドが、俺の後ろから腕を伸ばした。
片方の手が鞄の肩紐を掴む。もう片方の腕で、俺の身体を足場へ寄せた。
盾が岩へ当たる音がする。
俺は、謝る言葉を飲み込んだ。
今、話して腕の力を抜く方が邪魔だ。
「膝を、岩へつけろ。手は、離さんでいい」
彼の声で、俺はようやく脚を動かした。
膝が硬い面へ当たる。
痛いが、空中よりいい。
リシアが、短い術式を使った。鞄が外へ振れないよう、岩へ押さえられる。
イグナスは縄の位置を変え、俺を引く。
誰か一人の力だけで、俺が戻ったわけではなかった。
俺の膝と、ガルドの腕と、勇者の縄と、魔術師の一瞬が、同じ方へ動いた。
足場の広い所へ戻った時、俺は立てなかった。
イグナスが、急がなくていいと手を下ろす。
エレナが駆け寄り、俺の膝を見た。
擦り傷と、軽い打撲。動かせる。出血も少ない。
腰の帯が支えた場所は、赤くなっていた。
「しばらく、座っていてください。息を、ゆっくり」
俺は、言われた通りにした。
いつもは、頭の中で数字が続く。
今は、呼吸を数える方が難しかった。
ガルドは、岩へ当たった盾の縁を確かめていた。
傷が増えている。
俺を見て、彼はすぐに手を下ろした。
「今、そこを気にするな。先に、脚だ」
「俺が、鎖を断ったから」
ようやく言葉が出た。
ガルドは首を振り、縄を見せた。
「この縄が切れたわけじゃない。お前が滑った。滑ったあと、引きやすい場所を作るのに、鎖があれば方法を増やせた。そこは分けよう」
「でも、使わない予定だからいらないと、言いました」
「言ったな。俺も、道が変われば見直すと、もっとはっきり言うべきだった」
誰かが、俺の失敗を全部取り上げてくれるわけではない。
俺だけが悪いという短い話にも、しない。
何を見落としたかを、具体的に残す。
それは、今まで俺が人へ求めていた仕事だった。
「1200を残せば、薬を買えると思いました。必要かもしれないという装備より、必ず使う物を優先したくて」
俺は膝から手を離す。
「自分が道で動けなくなることを、見積に入れませんでした。帰るための余裕を、使わない物だと思った」
イグナスが隣へ腰を下ろした。
「1200を使っていても、滑ることはある。金で事故を全部消せるわけじゃない。ただ、準備できる方法を減らすなら、その理由を皆で見よう」
「はい。俺も、金額だけの理由では断りません」
約束は、大きすぎない方がいい。
二度と判断を間違えない、とは言えない。
必要な条件を聞き、道が変わった時にもう一度確かめる。それなら、仕事の手順にできる。
沢を渡るのは、今日は中止した。
イグナスと案内人が、安全な側から橋の保守担当へ連絡する。俺たちは荷車へ戻り、待つ場所を確保した。
敵が来ているわけでも、今すぐ向こうへ行かなければ誰かが死ぬわけでもない。
予定の遅れを取り戻すために、次の危険を選ばない。
俺はそれを聞いて、また少し恥ずかしくなった。
数字を早く戻すことと、遅れを取り戻すことを、同じように考えていたからだ。
店へ引き返すのは、俺とガルドだった。
荷車が来た道で、長くはない。膝を確かめながら、ゆっくり歩く。
イグナスは連絡、リシアは道具の点検、エレナは俺の傷の再確認を帰着後にする予定。
俺の失敗を、全員が別の仕事で支えていた。
店の人は、鎖を出した。
2日前と同じ1200。
俺は金額を確かめ、代金を払う。
残高31170。
その数字は、今日はすぐ頭へ入った。
使った金が、俺の失敗の罰になったわけではない。これから使う道具を、今買っただけだ。
そこを混ぜると、次に同じ相談をした人まで責めることになる。
「使い方も、教えてください」
俺が尋ねると、店の人は留め具を開いた。
向きと、閉じた時の確認。岩へ直接当てる場所と、帯へつなぐ場所。人体を鎖だけで締めないこと。
ガルドも横で見た。
買えば、使い方が自動で分かる物ではない。
俺は店の台で留め具を動かし、閉じたことを二人に確認してもらった。
荷車へ戻り、俺は判断の経緯を書いた。
鎖を見送った日。正規の道を通る予定だったこと。雨による橋の損傷。迂回路で滑り、縄と帯、仲間の介助で戻ったこと。
鎖があれば必ず事故を防げた、とは書かない。
備えを見直すべき時に、十分に相談しなかった。
最後に、その1行を加えた。
「皆にも、確認をお願いします」
紙を出すと、リシアが読んだ。
「術式は、荷を固定するために使った。あなたを宙へ持ち上げたわけではないわ」
俺は表現を直した。
ガルドは縄の状態を、エレナは怪我の程度を確認した。イグナスは行程を変える判断の時点を添える。
謝罪だけなら、短く済む。
次の判断に使える報告にするには、皆の仕事を正確に残す必要があった。
夜、膝の傷が少し痛んだ。
エレナは腫れを見て、明日は無理をしないようにと言った。
俺は帳面を閉じ、鎖を袋へ入れる。
ガルドが隣で、傷の増えた盾を置いた。
「明日、道具を一緒に点検しよう。断ったことを、ずっと考えてるよりいい」
「はい。お願いします」
俺は膝の布を直した。
1200を使った日の帳面は、赤字にはならなかった。
けれど、今日俺が減らしたのは、金だけではない。
仲間の余力と、予定の時間も使った。
それを思い出すために、まずは明日、同じ場所へ座って道具を見る。
謝ったあとにも、できる仕事があった。




