第11話「英雄の署名は長い」
雨が続く第8日の午後、初回報告を渡すと、監査官は1枚目だけを見て、俺へ返した。
「こちらには、提出できません」
俺は机に置いた紙束を見る。
薬店の写し。返品票。交換票。神殿の受領確認。保証金の返還。新しい支出の領収書。
何が足りないのか、まだ分からなかった。
「どの欄ですか」
「支出の目的です」
指された欄には、魔王討伐のため、と書いてある。
正しいつもりだった。俺たちは、そのために集められたのだから。
「全体の目的は、委任状で分かります。この薬をどの活動で使い、どの分を次へ残したのか。それを確認したいんです」
監査官は、1枚だけ薄い説明用の紙を添えた。
ゼフィナ・トレスと名乗った人だった。静かな声で、困った顔もしない。
俺の報告を読んでいないのではない。読む入口がないのだと、言われた。
王国会計監査院の部屋は、拍子抜けするほど普通だった。
机と椅子。棚。窓際に、公用伝令の受付箱。剣を取り上げる兵士も、金を没収する箱もない。
ただ、紙を出せば勝手に通る場所でもない。
俺は説明用の紙を読んだ。
活動の日付。使用者。必要だった理由。承認した人。実際に払った金額。
項目そのものは分かる。
俺がしていなかったのは、元の記録をそこへつなぐことだった。
「添付の使用記録へ、書いてあります」
「ありますね。それがこの支出と対応するよう、番号を付けてください。全部を同じ文で写す必要はありません」
「書き直すより、照合できるようにする」
「はい。記録を作った方の仕事を、もう一度していただく必要はありません」
俺は頷いた。
薬剤を使った人の記録があり、俺がまとめた数字がある。その間を読む相手へ渡していなかった。
読む相手が監査官でも、分かるようにする仕事は必要だった。
「提出は、いつまでですか」
「今日中なら、2日後の審査へ回せます。正式な受理は審査後です」
旅程の第8日。
第10日に審査がある。
初日に聞いた、9日後という期限に間に合う最後の提出日だった。
俺は今朝、間に合ったと思っていた。その安心は、1枚目で返ってきた。
「今日中に、直して持ってきます」
「迷った項目は、理由も書いてください。不明な物を、確認済みに混ぜないことです」
ゼフィナは、紙束を俺へ戻した。
励ましの言葉はなかった。けれど、何をすればよいかは具体的だった。
俺は700ルーンの公文書写しと伝令費の手続を済ませ、部屋へ戻った。
残高は10370。
減った金と、戻された紙。今日は、あまり格好のよい報告ができない。
部屋へ入ると、イグナスが立ち上がった。
「受け取ってもらえたか?」
「差し戻しです。俺のまとめ方が、足りませんでした」
俺は机へ紙束を置く。
誰かが怒ると思っていたわけではない。ただ、皆の記録を集めたのに通らなかったことを、自分の失敗として言う必要があった。
リシアが、ゼフィナの紙へ目を通す。
「薬の使い方じゃなくて、どの欄へ対応するかね」
「はい。あなたの記録に番号を付けて、使用した活動と支出を合わせます」
「なら、私が番号を確認する。使った術式は、あなたに一つずつ判断させるより早いわ」
エレナは神殿の写しを手に取った。
「寄付の目的と、受領の確認は、こちらですね。イグナスの承認があることも添えます」
「盾の整備は、ハルゼの記録と俺の確認だな」
ガルドが椅子を寄せる。
全員が机の周りへ来ると、俺だけの差し戻しが、5人の修正になった。
それに安心して全部任せるのも違う。俺は紙を分け、必要な欄を説明した。
「確認した人の署名が、最後に必要です。内容を確かめてから、書いてください」
「先に書いてしまうのは、駄目なんだな」
イグナスが、ペンを置いた。
「何を確認したか分からない署名になるので」
「分かった。俺が知っている支出から、読もう」
彼は剣の支出の紙を取った。
48000。最初は俺が一番驚いた数字だった。
今は用途を見ている。魔王の外殻へ刃を通すため。街道の甲殻獣への有効性を試験場で確認。保証補修は対応済み。
それを書けるようになったのは、剣を返品する前に実演してもらったからだ。
薬剤の元の支出は、21600。
3600の未使用返品を別に示し、残った数量をリシアの記録と合わせる。
交換した瓶は、現金の動きなし。数量と品目を訂正する根拠として交換票を添える。
寄付6000は、神殿の購入と受領で確認。
保証金4000は、当初預けた支出と今回の返還をつなぐ。清掃250は新しい支出。
確認が進むたび、未精算の一覧に小さな印が増えた。
俺は最後に、未精算残額ゼロ、と書いた。
現金残高10370は、変わらない。
紙の確認が済んでも、新しく金が湧くわけではない。それでも、出発するための条件が一つ整った。
署名の番になると、イグナスが困った。
自分の名前を書き終えようとして、欄の右端を越えたのだ。
イグナス・アークライト。
俺が、欄を小さく作りすぎていた。
「短い名前で、書いていいか」
「正式な署名は、そのままがいいです。俺が欄を広げます」
新しい紙に、内容を移す。
今度は文字を書く場所も、名前を書く場所も広くした。
それを見たガルドが、自分の名前の紙を寄せる。
「俺の方も、少し広げてくれ。細い字は、得意じゃない」
「はい。最初から、皆の書きやすさを聞くべきでした」
紙をきれいに収めるために、人の名前を小さくするところだった。
その失敗は、計算を間違えるのとは違う。だが、書けない欄は同じくらい仕事を止める。
リシアは新しい欄へ、細い字で署名した。
「広い方が、間違えずに済む人はいるわ」
「あなたの名前も、長いですから」
「私は、たいてい入る。でも、入るから狭くていいとは思わない」
合理的な返事だった。
俺は正式な氏名と、普段呼ぶ名前を使い分ける欄も作った。署名は正式名。連絡用の一覧は、皆が使う呼び名。
同じ人を指していると分かれば、毎回長い名を口にする必要はない。
提出前、俺はもう一度、現金を数えた。
銀貨、銅貨。書いた残高と一致する。
初期の120000から支払った分、返ってきた薬代、保証金、今日までの支出。
イグナスが横で照合した。
リシアは薬の数量、エレナは受領、ガルドは装具の項目を見直す。
俺一人が分かる報告から、誰が何を確認したか分かる報告になった。
「これで、全部正しいと言えるか?」
イグナスが尋ねる。
俺は少し考えた。
「俺たちが確認した範囲は、正しいと言えます。分からないところは、分からないまま分けました。審査で聞かれたら、根拠を出します」
「なら、俺も一緒に行く」
彼は剣を背負わず、予備の剣だけつけた。
署名のための手が空いているように、紙束を俺から半分受け取る。
俺は断らなかった。
監査院へ着くと、ゼフィナはまず最初の紙を見た。
次に、付いた番号の先を開く。薬の使用記録。剣の検査。神殿の写し。
俺たちは、その順番を黙って待った。
先に説明しすぎると、相手が何を確認したいか聞けなくなる。
「これなら、審査へ回せます」
その言葉で、俺の肩が軽くなった。
受理されたのは、提出の形。支出の審査は、これからだ。
俺は確認の意味を取り違えないよう、頷いた。
「当日の追加申請も、同じ行程の資料を使いますか」
「はい。最初の予算では、北の砦以降の費用が足りません。必要な期間と物資を見積もっています」
「では、帰路も入れてください。討伐が成功したあと、隊がそこに残されては困ります」
ゼフィナは、イグナスへ視線を移した。
「あなたの署名は、確認したという責任を示します。長い名前のために欄を作り直しても、削らなくてよかったと思います」
勇者は真面目に頷いた。
俺は、その横で小さく息を吐く。
世界を救う署名にも、置き場所がいる。
それを用意するのが、今日は俺の仕事だった。




