第10話「雨の日の帳簿」
帳簿へ、空から水滴が落ちた。
俺は頁を押さえ、天井を見上げた。
屋内で雨の心配をするのは初めてではない。けれど、剣を持った人が天井の穴を見て、慌てて鞘へ戻すのは初めてだった。
「剣で、どうするつもりだったんですか」
「布を、持ち上げようと思った」
イグナスは、自分の剣先と天井を見比べた。
先日直した刃を、雨漏りの穴へ入れなくてよかった。
リシアが窓を閉め、ガルドが机を動かす。エレナは桶を持ってきた。
俺は帳面と紙箱を抱え、雨が落ちない壁際へ避難した。
足の練習は、こういう時にも役立つ。机の脚に引っかからずに動けたのを、少し喜んだ。
雨は朝から降り始め、昼前には強くなった。
出発の準備をするために借りている部屋は、広いが新しくない。屋根の修理は家主の担当で、今すぐ職人が来るとは限らなかった。
桶を置けば、床への落下は止められる。だが、荷物は乾いた場所へ移す必要がある。
「薬の箱を、こっちへ」
リシアが机の上へ、乾いた布を敷いた。
俺は紙箱を置きかけて、手を止める。
そこへ置けば、薬の箱は別の場所へ回る。どちらも濡らせないが、同じ場所を俺だけの物にはできない。
「紙は、小さい棚へ入れます。薬を先に」
「助かるわ。液体が入っている瓶でも、濡らしていいわけじゃないから」
外側の札が読めなくなれば、中身を確認できなくなる。
箱も、封も、働くための道具だった。
ガルドが、荷物の中から油布を出した。
天幕を包んでいた物だ。机の上にかけると、雨の落ちる場所の下へも、乾いた作業場所ができる。
ただ、その布は端が裂けていた。
「これ、外で使ったら雨が入るな」
「今日のうちに、直せますか」
「油を塗った布の店で、継ぐ物を買える。古い端は、切る」
俺は、その端を見てから自分の帳面を見た。
防水の袋も、必要だった。
保証書は封筒にある。領収書は箱にある。雨の中を移動する時、箱だけでは足りない。
帳面だけなら袋を1つ買えばいい。だが、天幕を後回しにして俺の紙だけ守るのは、出発の準備として順番がおかしい。
「天幕を補修する物と、紙を入れる袋。一緒に買いましょう」
「紙の袋は、小さくていいか?」
「帳面が入る大きさは、欲しいです」
「なら、実物を持っていこう。あとで、口に入らんと言うなよ」
ガルドが、俺の帳面を指した。
紙の束だけで袋の大きさを見積もるところだった。表紙の厚さまで含めると、思ったより幅がある。
俺は乾いた布で包んで、鞄へ入れた。
雨の中、店へ向かったのはガルドと俺だった。
イグナスは家主へ屋根の状況を伝え、エレナは薬の箱を並べ直す。リシアは部屋の湿気を少し減らす準備をするという。
全員で傘を出せば、入口は混み、部屋に残った桶が溢れる。
分かれて動く方がよかった。
布の店は、市場の端にあった。
入口の軒から、雨水が落ちている。ガルドが俺を内側へ寄せ、先に荷物を置かせた。
店主は天幕の油布を見て、補修できる部分を指した。
全部を替える必要はない。裂けた端を切り、同じ幅の布を継ぐ。濡れている場所を乾かしてから、縫い目へ油を入れる。
材料と補修糸で320。
帳面の入る防水袋は、160。
合計、480。
店主は袋を水の桶へ入れた。
俺は思わず、止めそうになった。売り物を濡らす実演だった。
内側の薄い紙を取り出すと、乾いている。
「閉め方が大事です。口を折って、それから留める。紐を結ぶだけでは、ここから水が入ります」
口を二度折り、留め具へ挟む。
俺も自分でやってみた。一度で挟もうとすると、端が浮く。
ガルドが、向こうの端を持った。
「両側を合わせてからだ。焦ると、片方だけ閉まる」
紙の保管は、袋を買えば終わると思っていた。
使い方を覚え、濡れている時にちゃんと閉める。それまで含めて、防水なのだ。
俺は店主に、もう一度開けてもらった。
「閉じるところを、自分で練習してもいいですか」
「どうぞ。中へ帳面を入れる前に、やっておく方がいいでしょう」
代金を払う前に、俺は3度閉めた。
袋の口より、自分の口を閉めて集中した方が上手くいった。
帰る時、風が強くなっていた。
俺は傘を前へ向け、足元を見る。狭い通りを、水が流れていた。
ガルドは荷物を濡らさないよう、片腕で抱えている。鎧を着ていない今日の方が、歩き方は軽い。
それでも俺より速かった。
「急いだ方がいいですか」
「滑らん速さでいい。途中で治療が必要になる方が遅い」
俺は頷き、歩幅を小さくした。
今日のために買った袋を、今日使う。帳面が入るかは店で確かめてある。
口を閉め、鞄の上から手で確認した。
部屋では、イグナスが桶を替えていた。
家主から、屋根の補修は雨が弱まってからと返答があった。俺たちが部屋の修理代を払う話にはならない。
借りている場所の不具合と、出発用の道具の保守は、分けて記録する。
俺が材料を出すと、ガルドは床へ天幕を広げた。
リシアが杖を手に取る。
「まず、湿っている端を乾かすわ。薬の箱から、離して」
熱を使うと聞いて、俺は大きな炎を想像した。
実際に起きたのは、温かい空気だった。
布の端がゆっくり乾く。リシアは指先で布の温かさを確かめながら、杖を少し遠ざけた。
「使いかけの石ですか」
「そうよ。この程度なら、残っている分で足りる。新しい石は開けない」
彼女が、札の端を切った袋を示した。
俺の紙の札が、魔術師の選択の横で働いている。少し嬉しかったが、術式の途中に声をかけないで待った。
乾いた布の端を、ガルドが切る。
エレナが補修用の布を押さえ、イグナスが糸を引く。
俺は道具を取りやすい場所へ並べ、使った針を数えた。
落ちた針を寝床へ残すのは、嫌だった。
縫う作業には、予想より時間がかかった。
俺は帳面を開き、480の支出を書く。
残高11070。
そこまで書くと、リシアが俺の袋を指した。
「今は、入れておいたら? また落ちるわよ」
天井から、次の水滴が落ちた。
俺は帳面を閉じた。
作業の途中で全員に数字を見せなくても、終わってから確かめられる。紙を濡らしてまで、その場で書く必要はなかった。
天幕の縫い目へ油を入れ、乾くのを待つ。
エレナがお茶を用意した。
イグナスは椅子を並べ、ガルドは短くなった布の端を小袋へ入れる。まだ使える場所があるらしい。
俺もお茶を受け取ったが、次にする仕事を頭の中で並べていた。
薬の写し、寄付の受領、荷車返還。初回報告の準備。
9日後の審査は近づいている。
「ナオト、袋は閉まってるぞ」
イグナスが言った。
俺の手が、鞄の口をまた確かめていた。
「心配で、つい」
「今、紙が濡れたら困るのは分かる。閉めたあとは、待っていい」
俺は鞄を椅子の横へ置いた。
雨はまだ降っている。
天幕はまだ乾かない。
その2つを俺が急いでも、早く終わるわけではない。
お茶を飲むと、少し冷えていた指が温まった。
ガルドが布の補修を見直し、頷いた。
「これなら、寝る場所は守れる」
「紙も守れます」
俺が袋を持ち上げると、リシアはお茶の器を置いた。
「じゃあ、今日は人も休んで。紙が乾いていても、書く人がふらふらでは困るわ」
エレナも、静かに頷いた。
帳面の袋と、仲間の天幕を一緒に買ってよかった。
片方だけ乾かしても、旅の準備は終わらない。
俺は残高を書き直す前に、お茶を最後まで飲んだ。
その間、誰も仕事を催促しなかった。
天井の穴は、夕方に来た職人が直してくれた。
俺たちの480ルーンは、次の雨へ持っていける物になった。
夜、袋へ紙を戻す時、イグナスが閉め方を見ていた。
「俺も、覚えていいか」
「お願いします。俺が閉められない時も、あるかもしれません」
彼は口を二度折り、留め具を合わせた。一度目は端が浮き、俺がそこを示すと、開いてやり直した。
勇者にも、初めての道具はある。
帳面の置き場所と閉め方を、エレナにもリシアにも伝える。守る物の持主だけが手順を知っているより、ずっと安心できた。




