第19話 引っ越し準備
店舗兼住宅の物件を見学したあと、俺たちは再びベルク商会へ戻ってきていた。
応接室へ案内され、席に着く。
先ほどまでは実際の建物を見ていたせいか、頭の中にはまだあの建物の光景が残っていた。
一階は店舗。
奥に倉庫。
二階が住居。
商会を作るなら理想的と言っていい物件だった。
問題は、借りられるかどうかだ。
どれだけ条件が良くても金が足りなければ話にならない。
前世でも家や店舗を借りるには金が必要だった。
この世界でも同じだろう。
◇◇◇
「さて」
ハリーが机の上で手を組む。
「物件の印象はいかがでしたか?」
「かなり良かったです」
俺は素直に答えた。
父も頷く。
「正直、思っていたよりずっと良かった」
「そう言っていただけると紹介した甲斐があります」
ハリーは笑った。
そして表情を少しだけ真面目なものへ変える。
「では、次は金の話ですね」
やはりそこだ。
「借りる場合、保証金として金貨三枚」
思ったより高い。
いや、この規模の建物なら安いのかもしれない。
俺にはまだ判断できなかった。
「月々の賃料は銀貨八枚です」
父が少し考え込む。
農家として考えれば決して安い金額ではない。
だが商会として考えればどうなのだろう。
「購入はできるんですか?」
俺が聞く。
「できます」
ハリーは即答した。
「その場合は金貨四十五枚ですね」
さすがに高い。
今すぐ即決できる金額ではない。
ただ、不可能な数字とも思えなかった。
「追加で倉庫を借りるなら小型倉庫は月に銀貨五枚」
「そんなもので借りられるんですか?」
「最初は十分でしょう」
「従業員一人なら月に銀貨十枚前後です」
「銀貨十枚」
「現在の利益ですと」
さらさらと数字を書く。
「月に金貨三〜四枚程度は残っています」
「そんなに」
「はい」
「つまり?」
「家を借りても倉庫を借りても黒字ですし、仮に売上が半分になっても維持できます」
「半分になっても?」
「ええ」
ハリーは頷いた。
「今のモフク君は、その段階をもう過ぎています」
「まずは借りる方が良いでしょう」
ハリーが言う。
「私もそう思います」
父も頷いた。
「最初から大きく動く必要はありません」
その言葉には商人らしい慎重さがあった。
俺も異論はない。
まずは借りる。
必要になったらその後考えればいい。
話が一段落したところで、ハリーがこちらを見た。
「モフク君」
「はい」
「具体的に聞くと、今どのくらいあるんです?」
資産の話だった。
確かに、ここできちんと確認しておくべきだろう。
俺は最近の売上を思い返す。
ベルク商会。
村の商会。
ダン。
それぞれへの卸売。
そして増え続ける販売数。
細かい管理は父が行っているが、大まかな数字は把握している。
「父さんの方が詳しいんじゃない?」
「まあな」
父は苦笑した。
そして懐から小さな帳面を取り出す。
「最近まとめた」
そう言って開かれた帳面には数字が並んでいた。
俺も覗き込む。
売上。
支出。
生活費。
残額。
その全てが記録されている。
「思ったよりちゃんとしてる」
「失礼だな」
父が笑う。
「農家だって金の管理くらいする」
それはそうだ。
「現在の貯蓄だが」
父が指を滑らせる。
「金貨十三枚と銀貨二十七枚」
俺は一瞬だけ黙った。
予想より多い。
いや、かなり多い。
村人として考えれば十分すぎるほどの金額だ。
「そんなにあったの?」
「最近の売上が凄いからな」
父が苦笑する。
「俺も驚いてる」
母が管理している生活費を差し引いてもこれだけ残っているらしい。
改めて数字になると実感が湧く。
◇◇◇
「保証金を払っても問題ありませんね」
ハリーが言う。
「ええ」
父も頷く。
「十分払える」
保証金は金貨三枚。
払ったとしてもまだ余裕は残る。
商会設立費用も問題ないだろう。
「どうする?」
父が聞いてきた。
俺は少し考える。
そして答えた。
「借りたい」
迷いはなかった。
百二十個。
いや、今頃はさらに増えているだろう。
このまま村で足踏みする理由はない。
◇◇◇
「では手続きを進めましょう」
ハリーが微笑む。
その言葉を聞いた瞬間。
不思議な感覚が胸の中に広がった。
本当に決まった。
昨日までは話し合っていただけだった。
だが今は違う。
実際に物件を借りる。
実際に町へ移る。
実際に商会を作る。
全てが現実になり始めていた。
◇◇◇
その日の帰り道。
父と二人で村へ向かいながら話をしていた。
「本当に決まったな」
「うん」
「なんだか実感がない」
父が苦笑する。
俺も同じだった。
少し前まで普通の農家だった。
いや、今も農家ではあるのだが。
気付けば町へ移住し、商会を作ろうとしている。
人生というのは分からないものだ。
◇◇◇
村へ着く頃には夕方になっていた。
家へ入ると母とアリアが待っていた。
「どうだった?」
母が聞く。
「決まったよ」
俺が答える。
「借りることになった」
一瞬の沈黙。
そして。
「本当に!?」
アリアが飛び上がった。
「本当だ」
「町!?」
「町」
「やったー!」
予想通りだった。
完全に引っ越しより町そのものに興奮している。
母も驚いていたが、すぐに笑顔になる。
「そう」
「うん」
「じゃあ準備しないとね」
やはり母は現実的だった。
◇◇◇
その日から家の中は慌ただしくなった。
持っていく物。
置いていく物。
売る物。
畑の扱い。
村への挨拶。
決めることは山ほどある。
特に父は忙しかった。
畑をどうするのか。
誰に貸すのか。
あるいは売るのか。
村長とも相談しなければならない。
◇◇◇
俺も暇ではない。
毎朝増え続けるカップヌードルを生成しながら、今後について考えていた。
商会を作る。
倉庫を持つ。
従業員を雇う。
商品を管理する。
考えることは増えている。
だが不思議と不安はなかった。
むしろ楽しみだった。
前世では会社員だった。
与えられた仕事をこなしていた。
それはそれで悪くなかった。
だが今は違う。
自分で考え。
自分で決め。
自分で作っていく。
もちろんカップヌードルそのものを作ったのは俺ではない。
だが、この仕組みを作るのは俺だ。
◇◇◇
数日後。
引っ越しの日程も決まり始めた。
村での生活は、あとわずか。
十年間暮らした家。
見慣れた畑。
毎日歩いた道。
それらと別れることになる。
少し寂しさもある。
けれど、それ以上に前を向いていた。
百三十個を超えたカップヌードル。
増え続ける【NISSIN】。
そして町で始まる新しい生活。
商会設立はもう遠い未来の話ではない。
確実に手の届く場所まで来ていた。
俺は窓の外に広がる村の景色を眺めながら、小さく息を吐く。
「忙しくなりそうだな」
そう呟くと、どこか楽しそうな声になっていることに自分で気付いた。
どうやら俺は思っていた以上に、この新しい挑戦を楽しみにしているらしい。
――次はいよいよ引っ越しだ。




