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第六話 秘密のドーナツと王子様

 その夜。


 私は厨房の隅で、こっそりと小麦粉を混ぜていた。


「……食べたい」


 日本にいた頃、時々食べていたドーナツ。


 ふわふわで、甘くて、揚げたては最高だった。


『ドーナツって、そんなに美味しいの?』


 大きなボウルが聞いてくる。


「ものすごく美味しいです」


『なら作りましょう!』


『私も手伝う!』


『揚げるのは任せて!』


 調理器具たちが一斉に張り切った。


「静かに! 誰かに見つかったら大変です!」


『大丈夫、大丈夫!』


 しかし――


 フライパンが勝手に揺れた。


「ちょっと!」


『揚げたほうが美味しいでしょう?』


「そうだけど!」


 やがて、厨房いっぱいに甘い香りが広がった。


 私は完成したドーナツを見つめる。


「できた……!」


 丸い生地を揚げ、砂糖をまぶす。


 見た目は少し不格好。


 でも――


「いただきます」


 一口。


「……おいしい!」


 懐かしい味だった。


 思わず目を閉じる。


「日本……」


 前世の記憶が胸に浮かぶ。


 家族と食べた甘いもの。


 学校帰りに買ったお菓子。


 何気ない日常。


「……なんだか、泣きそう」


『ミヤ?』


「大丈夫」


 私は笑った。


 その瞬間。


「――私にも、それをくれないか?」


「きゃあああっ!」


 背後から声がした。


 振り返る。


 そこには――


「王子様!?」


 第二王子殿下が立っていた。


 しかも、いつもの王族らしい服装ではなく、目立たない簡素な服を着ている。


「驚かせてしまったな」


「どうしてここに!?」


「甘い匂いに誘われた」


『あら』


『また来たわね』


『これは面白い!』


 調理器具たちが嬉しそうに騒ぐ。


「……そのドーナツ」


 王子がじっと見つめる。


「一つだけ、もらえないか?」


「はい」


 私は一つ差し出した。


 王子は一口食べる。


「…………」


 動かない。


「王子様?」


「…………」


 もう一口。


「…………これは」


 王子の目が輝いた。


「素晴らしい」


「そんなに?」


「こんな菓子を、今まで誰も作らなかったのか?」


「私のいた場所では普通にありました」


「君のいた場所?」


「……あ」


 しまった。


 異世界の記憶では説明できない。


 王子が一歩近づいた。


「君は時々、不思議なことを言うな」


「そ、そうですか?」


「もっと君の話を聞きたい」


 心臓が跳ねた。


 王子がさらに近づく。


「それと――もう一つ」


「はい?」


「ドーナツを」


「そっちですか!」


 思わずツッコんでしまった。


 王子が笑う。


「君は面白いな」


 その笑顔に、私は一瞬だけ見とれてしまった。


 ところが――


 ガチャッ!


「ミヤ」


「……!」


 厨房の入口に公爵アルベルト様が立っていた。


「公爵様……」


 視線が、私。


 王子。


 そして大量のドーナツへ移る。


「…………」


 沈黙。


『あ』


『公爵様だ』


『まずいわね』


『修羅場かしら?』


「修羅場じゃありません!」


 私は思わず叫んだ。


 公爵様の眉がぴくりと動く。


「私は何も言っていないが?」


「……すみません」


 王子が楽しそうに笑う。


「公爵、これは美味しいぞ」


「……何?」


「ミヤが作った菓子だ」


 公爵様が私を見る。


「ミヤが?」


「はい……」


「私には?」


「…………」


 私は固まった。


 王子が先に五個も食べてしまった。


 残っているのは一つ。


 私はそれを公爵様に差し出した。


「どうぞ」


 公爵様が受け取る。


 一口。


「…………」


 無言。


 もう一口。


 そして――


「……美味い」


 小さな声だった。


『公爵様、嬉しそう!』


『顔に出てるわよ!』


『よかったわね!』


「食器たち、黙って!」


 公爵様が怪訝そうに私を見る。


「また食器と話しているのか?」


「はい……」


「そうか」


 公爵様はドーナツを見つめる。


 そして突然、真顔で言った。


「これは、王子にはもう渡さなくていい」


「え?」


「……いや」


 公爵様は咳払いをする。


「毒見の必要がある」


 王子が笑った。


「公爵。今、嫉妬しただろう?」


「していない」


「顔に出ているぞ」


「出ていない」


「出ている」


「出ていません」


『出てるわよ』


 食器たちが全員同時に言った。


「……!」


 公爵様の顔が少し赤くなる。


 私は吹き出した。


「ふふっ」


「ミヤ?」


「いえ、何でもありません」


 すると王子が私の隣に立つ。


「ミヤ。明日も作ってくれないか?」


「はい?」


「王宮にも持ってきてほしい」


「ええっ?」


 その瞬間。


『王宮ドーナツ計画よ!』


『公爵家対王宮ね!』


『面白くなってきた!』


 調理器具たちが大騒ぎする。


 公爵様は黙ってドーナツを見つめていた。


「……明日は私も食べる」


「はい?」


「一番最初に」


 私は思わず笑った。


 こうして――


 誰にも知られず始めたはずのドーナツ作りは、翌日には公爵家全体を巻き込む大騒動へと発展することになった。

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