第32話 黒衣の男の正体――五百年前から続く約束
王城へ向かう馬車の中。
誰も口を開かなかった。
さっきまで「ドーナツが食べたい」と言っていた王女でさえ、今は窓の外をじっと見つめている。
私は膝の上に置いた二つの壺を見る。
「……本当に王城に黒衣の男が?」
『間違いないわ』
『でも、目的が分からない』
アルトは馬車の隅で目を閉じていた。
公爵様が尋ねる。
「アルト」
「何?」
「お前は五百年前のことを、どこまで知っている?」
アルトはしばらく黙った。
「全部じゃない」
「なら、話せることだけ話せ」
アルトは静かに口を開いた。
「五百年前、僕たちの先祖にあたる双子は、物の記憶を読む力を持っていた」
「私と同じですね」
「うん。でも、二人の力はもっと強かった」
アルトは私を見る。
「触れなくても、近くにある物の記憶まで読み取れた」
「すごい……」
「だけど、その力を利用しようとする人間が現れた」
公爵様が眉をひそめる。
「黒衣の男か?」
「違う」
「え?」
「黒衣の男は――」
アルトが目を開く。
「その人間を止めようとした側だ」
馬車の中が静まり返る。
「じゃあ、敵じゃない?」
「少なくとも、最初から敵だったわけじゃない」
私は混乱する。
「でも、私を襲ったり、記憶を奪ったりしましたよ?」
「それは――」
アルトが言葉を濁す。
「君を守るためだったのかもしれない」
「守るために襲うなんて、分かりにくすぎます!」
王女が大きく頷く。
「その通りですわ!」
王子が呆れる。
「お前が言うな」
「なぜですの?」
「お前も人の話を聞かないだろう」
「失礼ですわ!」
車内に少しだけ笑いが戻った。
しかし、公爵様は笑っていなかった。
「では聞こう」
公爵様がアルトを見る。
「黒衣の男の名前は?」
アルトは答えた。
「――エドガー」
「!」
私は息を呑む。
あの名前。
五百年前の護衛。
そして黒衣の男が使っていた名前。
「本物のエドガーなの?」
「違う」
アルトは首を振る。
「五百年前のエドガー本人は、もう亡くなっている」
「では、なぜ同じ名前を?」
「エドガーという名前を、代々受け継いでいるんだ」
私は驚いた。
「名前を?」
「そう。五百年前のエドガーが残した使命を守るために」
やがて王城へ到着した。
しかし――
「誰もいない?」
王子が呟く。
いつもなら大勢の兵士や侍女がいるはずなのに、妙に静かだった。
王女が顔をしかめる。
「おかしいですわ」
「何が?」
「私の城ですもの。静かすぎます」
「そこ?」
「重要です!」
私たちは王城の奥へ進んだ。
すると――
カラン。
一つの銀のスプーンが床を転がってきた。
『ミヤ!』
「スプーンさん!」
『大変よ!』
「何があったの?」
『王城中の食器が、記憶を失い始めている!』
「え……」
私は周囲を見る。
皿。
カップ。
フォーク。
ナイフ。
みんな黙っている。
いつもなら私に話しかけてくるはずなのに。
「そんな……」
『急いで!』
二つの壺が叫ぶ。
『記憶の大災厄が始まったのよ!』
王子が青ざめる。
「五百年前と同じ……?」
「でも、どうやって止めるの?」
その時。
王城の奥から――
コツ……。
コツ……。
足音が聞こえた。
黒衣の男が現れた。
「遅かったな」
公爵様が剣を抜く。
「エドガー!」
男は私を見る。
「ミヤ」
「あなたは何をしているの?」
「記憶を消している」
「どうして!」
「このままでは、もっと大勢の人間が苦しむからだ」
「だからって、全部消すの!?」
男は静かに答えた。
「五百年前、私たちは記憶を守ろうとして失敗した」
「……」
「ならば今度は――」
男が手を広げる。
「すべてを一度消して、最初からやり直す」
公爵様が怒鳴る。
「ふざけるな!」
「君には分からない」
「何がだ!」
「大切な記憶を失う苦しみを」
男が公爵様を見る。
「君自身が、一番知っているはずだ」
公爵様が固まった。
幼い頃の記憶。
母。
兄。
そして失われた時間。
黒衣の男が続ける。
「君の母親は、君の記憶を封じた」
「……」
「君を守るために」
公爵様は剣を握り直す。
「だから何だ」
「同じことをする」
黒衣の男は私を見る。
「ミヤの記憶を封じる」
「!」
「そして、君たち全員の記憶も」
私は一歩前へ出た。
「嫌です」
「……」
「私の記憶は、私のものです」
男が目を細める。
「君は怖くないのか?」
「怖いです」
私は正直に答える。
「でも――」
公爵様を見る。
王子を見る。
王女を見る。
アルトを見る。
そして、二つの壺を見る。
「この世界で出会った人たちのことまで、全部忘れるなんて嫌です」
王女が胸を張る。
「私もですわ!」
王子が苦笑する。
「お前はドーナツのことしか考えていないと思っていた」
「違います!」
王女は真剣な顔で言った。
「ドーナツを一緒に食べる思い出だって、大切な記憶ですもの!」
その言葉に――
黒衣の男の顔が初めて揺らいだ。
「……思い出」
男が小さく呟く。
「五百年前にも、同じことを言われた」
「誰に?」
「……エドガーに」
男は自分の胸元を押さえた。
「『記憶は消すものではなく、受け継ぐものだ』と」
私は気づいた。
「あなた……本当は、記憶を消したいんじゃない」
「……」
「怖いんでしょう?」
男が私を見る。
「また五百年前と同じことになるのが」
長い沈黙。
そして男は――
黒い仮面を外した。
「……そうだ」
そこにあったのは、見覚えのある顔。
老執事が息を呑む。
「まさか……」
男は静かに名乗った。
「私の本当の名は――」
その瞬間、王城全体が大きく揺れた。
男の言葉が途中で途切れる。
床に巨大な亀裂が走る。
そして、その奥から――
真っ黒な巨大な影が現れた。
「何……あれ……」
黒衣の男が叫ぶ。
「まずい!」
「あなたでも止められないの!?」
「あれは私が呼んだものではない!」
影がゆっくり顔を上げる。
そして――
『記憶を……返せ……』
王城中の物が、一斉に震え始めた。
『私たちの……記憶を……』
黒衣の男が青ざめる。
「五百年前の災厄……」
アルトが叫んだ。
「違う!」
アルトは私を見る。
「これは――」
「五百年前に封印された『記憶そのもの』だ!」
私は息を呑む。
そして影の目が――
私を見た。
『鍵を……』
『こちらへ……』
私の足元に、無数の記憶が集まり始める。
公爵様が私の手を掴む。
「ミヤ!」
「公爵様……」
「絶対に離さない」
私はその手を握り返した。
そして王女が叫ぶ。
「その前に!」
「?」
「事件が終わったら――」
王女が拳を握る。
「絶対にドーナツを食べますわよ!!」
「そこは忘れないんですね!?」
――五百年前の災厄が、ついに目を覚ました。




