第80話:それでも日常
夕暮れの村に、柔らかな煙が上がっていた。
薪の匂い。
煮込みの香り。
家々の窓から漏れる、橙色の灯り。
いつもと変わらない光景だった。
世界が揺らいでいるなど、ここからは想像もできないほどに。
村の中央の広場では、子どもたちがまだ遊んでいる。
「もう暗いぞー!」
大人の声が飛ぶ。
「あとちょっと!」
笑い声が返る。
誰も急いでいない。
誰も焦っていない。
ただ、今日という一日を終えようとしているだけだった。
レオンは井戸の横の木箱に腰掛け、空を見上げていた。
雲の流れは穏やかだった。
風も弱い。
嵐の前夜とは、とても思えない。
「……」
遠くで鍋の蓋が鳴る音がする。
誰かが笑う声が聞こえる。
この村には、
英雄もいない。
勇者もいない。
使命もない。
あるのは、ただの生活だった。
「レオン」
声をかけられ、振り向く。
ミラが立っていた。
手には木皿が二つ。
「食事、できてる」
「ああ」
レオンは立ち上がる。
二人は並んで家へ向かう。
特別な会話はない。
ただ、歩く。
足音が土の道に吸い込まれていく。
家の中では、すでに数人が席についていた。
湯気の立つ鍋。
焼いたパン。
簡単なスープ。
誰かが言う。
「今日は塩が少し多いな」
「お前が入れたんだろ」
笑いが起きる。
誰も緊張していない。
誰も世界の運命を語らない。
ただ食事をしている。
それだけだった。
レオンは椅子に座り、スープを口に運ぶ。
温かい。
それだけで十分だった。
しばらくして、ミラが小さく言う。
「……静かだね」
「そうだな」
「このままだといいね」
レオンは少し考え、答えた。
「そうだな」
それ以上の言葉は続かない。
食事の後。
外に出ると、夜空には星が広がっていた。
風は冷たいが、心地よい。
村は静かだった。
家々の灯りが、ゆっくり消えていく。
レオンは空を見上げる。
世界がどう動こうと。
補正が戻ろうと。
物語が再び動き出そうと。
それでも。
彼の中には一つだけ、はっきりした思いがあった。
奪われない限り、これは続く。
レオンは家の扉を開ける。
中から暖かな光が漏れる。
誰かが言う。
「早く入れ、寒いぞ」
レオンは小さく笑った。
そして扉を閉めた。
村の夜は、静かに更けていく。




