8話 『襲撃イベント』
◇ ◇ ◇
ミランダ視点
◇ ◇ ◇
日は沈み、空に最初の星が見え始める頃。
正門前の広場には、人が集まっていた。屋台の煙が上がり、焼き菓子の甘い匂いと肉の脂が混じる。子供の笑い声と酔った男の声が重なり、門の内側は騒がしい。
監督司祭ベルナールの来訪に合わせた出迎え――そのはずだった。
だが、警備が厳重すぎる。槍兵が多い。弓兵の位置が良い。巡回の歩幅が揃っている。
兵の視線は群衆を眺めていない。人の肩越しに、屋根や路地の影を確かめていた。
(……変ねぇ。お祭りって聞いてたけど)
ミランダは屋根の縁に腰を下ろし、足先を揺らしていた。視線は広場の密度から門へ戻り、警備の隙間を淡々と拾う。
「ふふ。……まぁ、観客は多いほうが楽しいわ」
門が開き、馬のいななきと共に馬車が入ってくる。飾り紐、護衛の騎士、御者の手綱。窓の奥に丸い腹の影が見えた。
「司祭様ー!」
「押すなって! 見えねぇ!」
「神の祝福を!」
誰かが子供を肩車し、誰かが手を振り上げる。
監督司祭ベルナール。
「……随分と、立派なお腹」
町の声とは違い、ミランダの声は冷ややかだ。
正門の内側で、兵の声が飛ぶ。
「道を空けろ! 前へ出るな!」
「列を保て! 押し込まれるな!」
歓声と命令が同じ場所で重なり、広場の騒がしさだけが増していく。
「……派手なお出迎えね。それじゃあ――お見送りは、もっと派手にしてあげる」
ミランダは調香瓶を指先で転がした。中に入った砂粒大の何かが、静かに揺れる。
馬車が正門をくぐりきった瞬間、それを放った。
放物線を描いた小瓶が、石畳で砕ける。
赤い燐光が散り、粒が宙に浮く。
反応が始まる合図は音だった。
ちりん、と鈴のような響きが増え、重なり、ひとつの律動になる。
魔素を噛んだ光が一斉に増光し、次の瞬間、赤い閃光が連なって爆ぜた。
門の内側で火が弾け、悲鳴が上がる。
馬が暴れ、護衛が叫び、群衆が押し合いへ変わった。
「下がれ! 離れろ!」「馬を押さえろ!」
「火だ! 急に火が……!」
炎の波と逃げ惑う人々で、引き返す余地が消える。馬車は止まり、護衛の数人が下馬し窓の外側へ身を寄せて盾を構えた。
ミランダは屋根から跳び、馬車の天板へ軽く着地する。
板が鳴り、視線が一斉に上を向いた。
「……誰だ!」
先頭の騎士が誰何の声を上げ、剣を引き抜く。
「ごきげんよう、豚に飼われる哀れな騎士様たち。飼い主に、用があるの」
ミランダは隊長格の騎士に、スリット入りのスカートを摘まんで静かに一礼を返した。
その所作があまりに場違いであり――どこか洗練されていたせいで、騎士の目が一瞬だけ泳いだ。
号令が喉で詰まり、半拍遅れて声になる。
「ぞ、賊だ! 司祭様を守れ!」
群衆がどよめき、声が割れる。
「な、なんだ……!」
「突然女が……」
「近づくな! 子供を下げろ!」
ミランダは馬車の天板に立ったまま、視線だけで下を撫でた。騎士の数、取り囲む槍の穂先、弓の位置――そして、群衆の中から飛び出した影。
冒険者風の女が躍り出て、馬車の側面を蹴って天板へ駆け上がる。小盾と片手剣。踏み込みは狙いすましたかのように早く、迷いがない。
剣を引き抜く音と同時に、女の声が広場を割った。
「ミランダ・ノクターナ!」
周囲の兵が、その名に反応して一瞬だけ硬くなる。
(……名前までバレてる。情報が回ってる?)
剣が振り下ろされた。
ミランダは身を引いて外す。刃が天板を掠め、乾いた音が鳴った。
そのまま外套の陰から短剣を抜く。刀身は細く、光を返さない。
「……ふぅん。わたしって、もしかして有名人?」
「ふざけたことを!」
女が続けて斬り込む。小盾で押し、剣で叩き切る構えだ。
「私たちの町で、好きにはさせない!」
ミランダは短剣を立て、剣線を受けて横へ流した。火花は出ない。金属音だけが短く鳴る。
距離は近い。女の息が荒い。
「ねぇ、あなたは正義の味方?」
ミランダは首を傾ける。
「それとも、金と権力の味方かしら?」
「――黙れ!」
女が吼え、小盾で押し込みながら踏み込んだ。
ミランダは押される前に、軸をずらす。次いで足を出す。
蹴り。
「――かはっ」
靴底が女の腹を正確に捉え、息が漏れる。女は背中から落ちる――落ちながらも小盾を抱え込み、石畳へ転がった。
小盾が石畳を叩き、鈍い音が広場に残る。
女冒険者の姿は、人波と火の揺れに呑まれていく。立ち上がる気配はあったが、追ってくる余裕はもうない。
「今だ! 突け!」
号令が飛んだ。
槍兵が一斉に穂先を突き上げた。天板の板が穿たれ、木片が跳ねる。突き上げの列は、天板の上を縫うように走った。
ミランダは躊躇なく跳ぶ。
宙へ逃がし、体を反らせ、外套の裾が夜の影を引く。
槍の穂先が空を突き、遅れて引き戻される。追撃の間合いがわずかに空いた。
着地は路面。石畳に片足、次いで両足。衝撃が吸われ、姿勢は崩れない。
「……今の、見たか?」
「化け物かよ……!」
群衆の声が裏返る。
弓兵が弦を引く音が重なった。矢が狙いを探る。
その奥で、杖を構えた魔術師が術式紋を立ち上げた。淡い輪郭が空中に浮かび、火の気配が集まる。
「火球!」
火の塊が弾けて飛ぶ。
ミランダは半歩だけずらし、熱を肩でやり過ごした。火球が石畳を抉り、焦げた粉が散る。
(……魔術師までいるの)
視線だけで数える。槍兵、弓兵、騎士、魔術師。
歓迎のための配置じゃない。最初から、狩る形だ。
ミランダは口元だけで笑った。
「……ふふ、なるほどね」
返事の代わりに、矢が飛んだ。
ミランダは外套の裾を整えるように指先を滑らせ――その動きのまま、二重ベルトから別の調香瓶を抜いた。
赤い燐光はない。瓶の中身は、淡い緑を宿す。
瓶口を切り、空へ振る。薄い靄がほどけ、甘く冷たい香りが広場の足元へ落ちた。
「……っ、げほっ」
「何だ、これ……!」
槍兵の足が乱れた。踏み込みが浅くなり、穂先が揺れる。弓兵の呼吸が乱れ、狙いがぶれる。
咳き込みと同時に、膝が落ちる者が混じった。
ミランダだけが、靄の中で呼吸を乱さない。
槍兵が一人、無理に前へ出た。穂先がまっすぐ伸びる。
「賊め!」
ミランダは槍の線を外し、短剣で柄を叩いて逸らした。続けて、肘の内側へ浅く一線。
槍が石畳に落ち、男は指を閉じられないまま膝をついた。
「寝てなさい」
次いで、騎士が来る。司祭側の手勢だ。盾の縁を立て、進路を塞ぐ。
「司祭様に近づくな!」
声は強い。護る気概はある。――だから、容赦もしない。
ミランダは盾の死角へ滑り込む。短剣が喉元へ吸い込まれ、声が途中で切れた。
騎士が崩れ、盾が石畳を叩く。
窓の奥から、甲高い声が漏れた。
「な、何をしておる! 早く……早く出さんか!」
ベルナールだ。焦りだけが濃い。
御者が叫ぶ。
「馬が怯えて――! 前が詰まって――!」
正門の内側は、火と人で塞がっている。残るのは前だけだ。
「道を空けろ! 急げ!」
「轢かれるぞ! 子供を下げろ!」
兵が群衆を押し戻し、通りがねじれて細くなる。馬車が軋みながら動き出した。
ミランダは馬車の後ろを、悠然と歩いて追う。
まだ群衆が残っている。馬車は速度を上げきれない。歩幅だけで、距離は詰まる。
窓の布が揺れ、肥えた影が身を縮めるのが見えた。
ミランダは笑いを含ませる。喉の奥で、くぐもった高笑いが弾んだ。
「さぁ逃げなさい。――せいぜい上手にね」
「止めろ! 誰か殿を――!」
「弓、構え! 槍を寄せろ!」
怒号が飛ぶ。槍兵が詰め、弓兵が狙いを探る。
ミランダは振り返らず、二重ベルトから調香瓶を抜いた。
赤い燐光。
瓶口を切り、手首を返す。
赤い粒が空中へ散った。霧のように薄く、扇のように広がる。
石畳へ落ちる前に、宙で一瞬、滞った。
耳の奥で、乾いた高音が弾ける。
次いで、光が増す。粒がひとつずつ、短く瞬く。
槍兵が足を止める。弓兵の腕がわずかに下がる。
次の瞬間、赤い閃光が連なって走る。
熱が跳ね、追っ手の足元に細い炎の帯が生まれる。
「下がれ!」
「離れろ!」
火の向こうで、ミランダだけが歩みを止めない。
馬車は前へ逃げるしかなくなる。
追い立てが始まった。
炎と悲鳴が町を混沌へ落とし込む。
火は屋台や民家に燃え移り、樽が割れ、酒と脂の匂いが熱に混じる。
群衆が散り散りに逃げ、逃げた先でまた詰まる。
馬車が呻るように動いた。
御者が喉を張り上げる。
「どけ! どけぇ!」
「馬だ! ひかれるぞ!」
先頭の騎士が馬腹を蹴り、進路の人波を割る。
続く騎士が馬車の左右を固め、盾で人を押し返して隙間を広げた。
車輪が石畳を叩き、火の明滅が壁に揺れる。
狙ったかのように、町の中心へ向かう通りだけが逃げ道として残っていった。
通りは町の中心へ向かって伸び、白い石の尖塔が近づいてくる。
教会だ。
護衛の騎士が怒鳴る。
「教会へ! 扉を開けろ!」
「司祭様を中へ!」
先に護衛が走り、群衆を押しのけて道を作る。
作ったつもりの道は、人が転ぶたびに細くなる。
馬車が石段の前で減速した。御者が手綱を引き、馬が鼻を鳴らす。
馬車の扉が激しく軋み、肥えた影が転がり出た。
ミランダはその背中を追う。
逃げ切れる距離じゃない。
「早くせんか! 何をしておる!」
大扉が開き、護衛に連れられた司祭が雪崩れ込む。
ベルナールの喚き声が、扉の向こうへ吸い込まれた。
ミランダも石段を上がり、扉をくぐった。
礼拝堂は広かった。白い石の壁。高い天井。長椅子が並び、奥に祭壇。
だが今は修繕の途中で、資材が寄せられ、床の色がまだらに違う。
護衛に引きずられるように、ベルナールが奥へ逃げる。
衣の裾を踏み、息を荒くしながら、祭壇の方へ――いや、礼拝堂の「奥」へ。
「そろそろ諦めはついた?」
ミランダは歩調を変えない。
「神は今、お留守みたいよ」
「不敬な……っ!」
ベルナールが振り返り、喉を震わせた。
「ここが何処かわかっているのか!? 神の家だぞ! その場で膝をつけ! お前が何者であろうと――」
「何者であろうと?」
ミランダは首を傾けた。
「神の名を借りる時だけ、声が大きいのね。ベルナール司祭」
「黙れ! 神を侮るな!」
「別に神は侮ってないわよ。わたしが侮っているのは、ア・ナ・タ」
「き、貴様……! 衛兵! かまわん! この不届き者を――!」
言葉の途中で、ベルナールの目が揺れた。
背後。扉の方から足音が押し寄せてくる。石段を駆け上がる靴音。金具の鳴る音。
「……追って来たの」
ミランダは口元だけで笑った。
「いいわ。さっさと終わらせましょう」
扉が揺れ、兵の声が礼拝堂へなだれ込む。
「中だ! いるぞ!」
人が増えれば増えるほど、逃げ道は減る。
ミランダは振り返らず、二重ベルトから赤い燐光の調香瓶を抜いた。
瓶口を切り、入口へ振る。
赤い粒が散り、数拍遅れて閃光が走った。熱が跳ね、追っ手の足元に細い炎の帯が生まれる。
「下がれ!」
「目をやられる――!」
入口が熱と光で塞がり、追手が止まる。
扉の前に、火の線が一本引かれたみたいに残った。
――そこで終わるはずだった。
火が、礼拝堂の床へ伸びた。
一本の線じゃない。複数の筋が、迷いなく走る。
(……何?)
爆燐香の火は、一瞬で散る。
ミランダが独自に調合し、そうあれと作った代物だ。
多く振りまけば火は残り、薄く振りまけば火は残らない。
なのに火は、走り続ける。次の燃えるものへ。次の燃えるものへ。
護衛の騎士たちやベルナールも気づいた。顔が青くなる。
「な、何だ……! 消せ! 水を――!」
「き、貴様! わかっているのか、ここは神の家! 神の家だぞ! やめろ! やめ――」
火の筋は礼拝堂を囲うように広がり、脇の小扉へも、裏へ抜ける口へも伸びていく。
逃げ口が次々と熱を帯び、暗い赤に染まった。
「……どういうこと?」
ミランダの声が落ちた。
慌てようを見るに、司祭の仕掛けというわけでもない。
入口を塞ぐつもりで散らしただけの火だ。
こんなふうに、礼拝堂全体を縁取る理由はない。
火が、床の色の違う場所へ触れた。
新しい板の上で、光が跳ねる。板の隙間をなぞるように、下へ落ちていく。
遅れて、縄が見えた。
仮の床を支えている縄。板の下で張っているもの。あちこちに渡されている。
火が縄を舐めた。
一本、二本――ではない。
ほぼ同時に、複数の縄が駆け抜ける。
ぱん、と短い音が重なった。
張りが切れる音。重みが抜ける音。
「なんじゃ! いったい何が起きて――」
ベルナールが足を止めた。
遅い。踏んだ場所が、沈む。
「――ひっ」
声にならない声。
仮床が、落ちた。
板が砕け、埃と熱い空気が吹き上がる。
ベルナールの身体が沈み、叫びが一拍遅れて割れた。
「うわぁぁぁぁっ――!」
礼拝堂の中心が、丸ごと抜ける。
穴の縁が崩れ、資材が滑り、影が落ちていく。
ミランダの足元も崩れたが、持ち前の瞬発力で飛び退いた。
視線だけが、落ちた先を追う。
煙に呑まれて、獲物の姿は見えない。
――落ちた。
そう判断できるだけの“空白”が、中心に開いていた。
下から、声が上がった。悲鳴というより、咳き込み混じりの呻きだ。石が擦れる音。木が折れる音。
「た、助け――げほっ……! 誰か! 誰かおらんのか!」
ベルナールの声だった。
ミランダは口角だけを上げる。
「……しぶとい。まだ息があるの」
板の端が、熱で鳴った。火は上でも下でも走っている。
落ちた穴の向こうから、煤と埃が吹き上がり、視界が白く曇る。
(確認しないと)
獲物の生死が曖昧なまま帰る趣味はない。
ミランダは外套の裾を押さえ、へりから跳んだ。
落下は短い。仮床の残骸と資材の山に足を掛け、衝撃を殺して着地する。
地下は倉庫だった。袋と木箱。仮置きの板。湿った石壁。
空気が重い。埃が喉に貼りつく。
少し先で、ベルナールが倒れていた。祭服は裂け、腹の肉が震えている。片脚が何かの下敷きだ。
「……た、助けてくれ……っ。金なら――」
「金、ね。こんな時こそ、職務怠慢なあなたの主に祈るべきだと思うのだけれど」
ミランダは近づきながら言った。
ベルナールの顔が引きつる。言葉が詰まる。
ミランダは短剣を構えたまま、わずかに首を傾けた。
「人間、追い詰められると本性が出るわね。あなたが本当は“何”に仕えていたのか、今の一言でよくわかったわ」
言って、短剣を掲げた瞬間。
上で何かが落ちた。
重い音が二つ三つ連なり、地下の空気が震える。
次いで、光。
裂け目の隙間から、赤い火が筋になって落ちてくる。
まっすぐじゃない。壁を舐め、木を舐め、縄を舐め、迷いなく“次”を拾っていく。
(……まだ終わってない?)
爆燐香の火じゃない。
ミランダが撒いた火は、もっと軽い。もっと短い。
これは、続く。
ベルナールも見た。口を開けたまま固まる。
「な……何だ、何なのだこれは……っ」
赤い筋が、床を横切った。
乾いた布が、板の裏が、仮置きの木枠が、次々に熱を帯びる。
ミランダは一歩引く。ベルナールから視線を外さずに。
「……ふうん。誰かが、用意してたのね」
火の筋は、地下の奥へ向かった。
袋の山の近くで一瞬、明るさが増す。白い粉が舞った。
――粉。
ミランダの眉がわずかに動く。
「くだらない……」
言い切るより早く、建物が唸った。
石が軋む。梁が悲鳴を上げる。上から落ちてくる音が増える。
ベルナールが泣き声に近い声を漏らした。
「や、やめろ……! 神よ……っ!」
ミランダはその顔を見て、短く息を吐いた。
「……あーあ。神様は留守、って言ったのにね」
次の瞬間、地下の空気が膨らんだ。
圧が来る。熱が来る。光が白く弾け、遅れて耳が痛くなる。
上で、鐘が鳴った。
誰かが打ち鳴らした音じゃない。衝撃で揺れた金属が、勝手に声を上げた。
その音が、粉塵といっしょに降ってくる。
ミランダは短く笑った。
「……なんだ。ちゃんと居るじゃない」
崩れる音が続く。礼拝堂が、教会が、上から下へ落ちてくる。
鐘楼が軋み、鐘がもう一度だけ鈍く鳴った。
そして最後になぜか――嗅ぎ慣れた花の、青臭さだけが鼻の奥に残っていた。
視界が、暗転した。




