9話 『行動の結果』
立ち上る炎と煙で、教会方面は夜の色を失っていた。
俺は通りの端、押し寄せる人波の外側からその赤を見上げていた。
人の声が石畳を叩いて跳ね返る。走る足音に混じって、泣き声がある。怒鳴り声がある。名を呼ぶ声がある。――救助の声だ。
教会の前へ続く通りは、人で詰まっていた。桶が走る。井戸から汲んだ水が次々に渡され、石畳に叩きつけられる。濡れた地面で滑って転ぶ者もいる。咳き込み、喉を押さえ、壁にもたれて吐く者もいた。
その列の端に、冒険者が一人だけ混じっている。水を扱えるのは、町中を探してもせいぜいこの程度だ。
杖先に淡い術式紋が開き、短い声が落ちる。
「放水」
水の束が礼拝堂の入口へ叩きつけられ、白い湯気が一気に噴いた。歓声が上がる。だが長くは続かない。数息で水勢が細り、冒険者は膝に手をついて息を整える。
「桶を回せ! 魔法は切れ目に頼む!」
誰かが叫ぶ。結局、火を殺すのは人の手の数だ。魔法は決め手じゃない。延焼を止めるための、短い刃に過ぎない。
熱が張りつく。煤が喉に刺さる。煙の向こうで、礼拝堂の影が揺れている。
鐘楼が軋み、鐘が鈍く鳴ったのは、その最中だった。誰かが綱を引いた音ではない。震えに、建物が耐えきれず鳴らしただけの――不揃いな一打。
気づけば人だかりができていた。皆、見えた範囲のことを口々に言い合う。
「司祭さまが礼拝堂へ逃げた」
「護衛も一緒だった」
「黒い外套の女が追って――」
「入口が燃えた、閉じ込められたんだ」
そこまでは、外から見ていた連中の目撃で繋がる。だが、その先が途切れる。
中の様子を"見た"と言える奴は、誰もいなかった。煙と熱に押し返され、踏み込めた者は皆無。だから皆、確かな言葉を持たない。代わりに、焦げた匂いと地鳴りみたいな音だけが残っている。
「……にしても、助かったよな」
煤だらけの修道士が、桶を置きながら言った。隣の男が、苦い顔で頷く。
「門前の広場で怪我人が出たって聞いてさ。礼拝堂に残ってた連中まで、みんな飛び出したんだと」
「着いたら誰もいねぇ。血もねぇ。……何だったんだ、あれ」
「悪戯か、聞き間違いか……今となっちゃ、どっちでもいい。残ってたら、こっちも巻き込まれてた」
別の誰かが水を撒きながら、吐き捨てるみたいに言う。
「運が良かった、ってことにしとけ。それで言やぁ司祭さまたちは……災難だった」
運が良かった。
そういう言葉で片づくなら、それでいい。
けれど、"万が一"は残る。
司祭やその護衛たちはまだいい。俺がどう介入しようがしまいが、おそらく結果は変えられなかった。"犯人"についても、今考えたところで始まらない。
だが、馬車に追い立てられた者や犯人を追った者、見物の連中だって、ついさっきまでこの近くにいた。逃げ遅れがゼロだとは、誰も言い切れない。
望んで作ったこの状況を、俺は最後まで見届ける義務がある。
だから、自然と足が動いた。
声を張る者の後ろへ回り、人手が足りていない場所を探す。
「桶だ! 空を先に返せ!」
叫びに合わせて、俺は列の端から桶を受け取った。取っ手が熱を持っている。布を巻き、指先の感覚を殺して掴む。前へ渡す。次の桶を受け取って、また渡す。
水が叩きつけられるたび白い湯気が噴き、煙の奥の輪郭が一瞬だけ揺れた。
――今は後始末だ。
祈っている場合でも、謝っている場合でもない。
関係ない誰かを、舞台の下敷きにするつもりはない。
俺は黙々と、手を動かし続けた。
そうしていくうちに、夜は深まる。騒ぎの声も少しずつ枯れて、代わりに、石と木を動かす鈍い音ばかりが残る。
礼拝堂の入口が開いたのは、火勢が抑えられてからだ。煙を押し返しながら、誰かが梁を確かめ、誰かが縄を張り、誰かが合図を出す。俺はその輪の端で、桶を受け取り、燻る火種に水をかけていった。
――巻き添えは、いない。
そう言い切れるところまで確認して、ようやく胸の奥のざらつきが薄くなる。
その頃には、残る仕事が一つに絞れていた。
礼拝堂の中に残った連中だ。
入口の前では、まだ誰も踏み込めずにいた。熱と煙が残っている。濡れ布を口に当てた連中が、外から覗き込みながら逡巡している。
俺はその輪から外れ、半歩、内側へ入った。
理由は単純だ。いま探すべき場所に、見当がついている。
崩落のさせ方を決めたのは俺だ。落ちる順番も、瓦礫が寄る方向も、火の回り方も――全部、頭に残っている。なら、潰れやすい場所と、逆に"空き"が残る場所も、ある程度は絞れる。
灯りを借りる。言葉は要らない。手を伸ばし、火皿を受け取って、影を壁に張りつかせる。
瓦礫の端へ回り、黒く焦げた板を踏まないように足を置いた。息を吸うと喉が痛む。だから浅く呼吸して、目だけを働かせる。
――いた。
黒い布が、石の角に引っかかっている。外套の裾だ。布の下に、人の輪郭がある。
俺は膝をつき、指先で布を少しだけ持ち上げた。
ミランダ。
意識はない。だが、胸が微かに上下している。
「……やはり、生きていたか」
声は自分にしか届かない程度だった。
この程度で死なないことくらいは分かっている。過去の周回の中で、この"無理ゲー女"とは何度も敵対し、何度も戦った。ステータスや装備があれば、自分で。無ければ傭兵や冒険者を雇って。
厄介で、しぶとい女だ。
だから――捕まえる。
俺は腰の二重ベルトに手を伸ばし、躊躇なく外した。太腿のストラップもほどく。刃物がある。小瓶がある。扱いを誤れば、ここでまた火が立つ。
淡い緑の小瓶。夜香だ。
赤い粒の残る瓶。爆燐香。
布を広げてまとめ、口を縛る。瓶同士が当たらないように、布を噛ませる。手が勝手にそうする。慣れじゃない――知っているだけだ。
外へ顔を出し、通りへ声を張った。
「生存者がいる。……犯人だと思う」
ざわり、と音が変わる。怒号が混じり、足音が増える。誰かが「どこだ!」と叫び、誰かが「殺せ!」と吐き捨てる。
俺は短く言った。
「縄をくれ。拘束する」
縄が放られてくる。俺は受け取り、礼拝堂の床に戻った。
ミランダの手首を揃え、縄を回す。きつくしすぎない。緩めすぎない。指先の感覚で、結び目を固める。次に足首。最後に手首と足首を寄せ、逃げられない形にする。
外から覗き込んでいた男が、唾を飲んで言った。
「……妙に手慣れてるな」
俺は結び目を確かめたまま、生返事を返す。
「ん。……あぁ。そうだな」
言い終える前に、ミランダの腰の布がずれて、瓶の匂いがふっと漏れた。冷たく澄んだ夜の香りに混じって、甘い毒の気配がある。
俺は布の結び目をもう一度締め直し、まとめた装備を外へ放った。
「これを。扱いを間違えると燃える。……布には包んだが丁重にな」
誰かが受け取り、慌てて抱え込む。怒号がまた一段上がる。
俺は一歩、下がった。
ここから先は、俺の仕事じゃない。
そう思って身を引いた途端、外の空気が一気に濁った。覗き込んでいた連中が押し寄せ、口々に好き勝手を言い始める。
「縛ったなら引きずり出せ!」
「今ここで――」
「黙れ、邪魔だ!」
怒号に怒号が重なり、誰かが前へ出ようとして、誰かに腕を掴まれて引き戻される。町の衛兵が駆け込んできて、槍の柄で人の波を押し返した。
「下がれ! これ以上近づくな!」
「火は消えてねぇ、足場も悪い! 死にたいのか!」
衛兵の声が通ると、群衆は渋々距離を取った。距離を取っても、目は離れない。視線だけが獣みたいに残る。
ミランダは担架に移され、縄が締め直される。意識はまだ戻らない。誰かが外套を引っぺがそうとして、別の誰かが止めた。毒だの爆ぜるだの、さっき俺が投げた言葉が、勝手に膨らんでいく。
「司祭さまは……」
その名が出た瞬間、今度は場の温度が落ちた。
礼拝堂の奥から担架が二つ、重い間を置いて運び出される。覆い布の下の形が、嫌でも分かる。続けて鎧の一部が運ばれ、血の臭いが遅れて鼻を刺した。
誰かが唇を噛み、誰かが手を合わせる。泣き声が混じるが、さっきの怒号みたいな勢いはない。ただ、重い。
俺はその列の端で、黙って数えた。
……巻き添えは出ていない。
そこだけは、守れたようだ。
夜が白み始める頃、判断は形になっていく。町の衛兵隊長らしい男が、疲れた顔で言った。
「この女は町の牢じゃ無理だ。近隣の監獄へ回す」
「護送の馬車を出せ。護衛も増やせ」
文句は出たが、反論は続かなかった。事故と連行で町の足が止まる。皆が不便になる。それでも、火が残る匂いの中では、理屈より恐怖の方が早い。
担架から鉄格子付きの馬車へ移される段になって、ようやくミランダが呻いた。目は開かない。ただ、生きている証だけが増える。
「……目を覚ましたら厄介だぞ」
「口を塞いどけ」
「いや、それじゃ息が止まる。生きて連れてきゃ懸賞金が出るんだとよ」
誰も優しくはない。だが、雑でもない。――死なせないための雑さだ。
俺はそれを少し離れた場所で見ていた。顔を上げない。誰かと目を合わせない。ここで俺の線が繋がるのは、面倒だ。
それでも視線は刺さる。
妖精憑きが来た。指名手配の女が現れた。教会が燃えた。司祭が死んだ。――たった二日足らずで起きたことが多すぎる。不吉という言葉が、都合よく俺の背中に貼られる。
この町での用事も終わった。
頃合いだろう。
そう考えながら、しかし休息を求める体を無視するわけにもいかず、町外れの宿へ向かって歩き出す。
部屋に入った途端、膝が抜けた。煤の匂いが取れない。喉の奥がまだ熱い。水で顔を洗い、布を絞って首筋を拭く。それだけで、頭の芯が少しだけ戻ってくる。
魂籍の写本を開く気にはならなかった。今夜の記録は、別にある。頭の中だ。
――段取りを、確認する。
まずは相手だ。
ミランダは暗殺者とは違う。静かに獲物を狩るような女ではない。相手の矜持をへし折って、絶望と共に屠る――復讐者だ。
相手が教会の人間なら、教会で殺す気だろうことは読めていた。
そして武器。夜香と呼んでいた毒だけじゃない。爆燐香――火と閃光を引き起こす特殊な香を愛用している。あの炎は見世物にもなるし、逃げ道を潰す道具にもなる。あの女のやり口なら、教会で使用することは明白だ。
だからまず、礼拝堂の中を空にした。
門前広場で怪我人が出た、と嘘の情報を伝えただけだ。だが"司祭の到着日"は皆が気にしている。教会の連中は、怪我人と聞けば飛び出す。結果、残ったのは司祭と護衛だけになった。
次に、火だ。
礼拝堂が燃やされることを前提に、罠を仕掛けた。
爆燐香を使うことが"引き金"になるように。
油で火の走る道をひき、内部を取り囲む。
縄が同時に切れたのも偶然じゃない。縄を全部焼く必要はない。支点だけでいい。そこへ火が届くようにして油を沁み込ませれば、全てが落ちる。
そして支えを支える縄が落ちることで、床の崩落が始まる。
そして仕上げの粉。
予め地下の食料庫にあった小麦の粉は、床に撒いておいた。後は崩落で木屑と一緒に舞い上げ、導火線が走れば――爆発的な炎が巻き起こる。
それで終わりだ。
計画と呼ぶにはあまりにも運任せな、一種の賭け。
こんなもの、何度も通せるはずがない。
早く、もっと自由に扱える力を手に入れなければ――。
そこまで考えたところで、意識がふっと途切れた。
◇
半日だけ眠った。起き上がって、水で喉を潤し、手を動かすだけの力を戻す。
町を出る。
そう決めて、乗り合い馬車の溜まり場へ向かった。
門から離れた一角に、馬と車輪の匂いが溜まっている。いつもなら御者の怒鳴り声と客の口論で賑やかなはずが、今日は妙に静かだった。止められた馬車が並び、御者が数人、腕を組んで立っている。
掲示板に紙が増えていた。剥がれかけの紙の上に、さらに新しい紙が重ねて貼られている。
嫌な予感のまま、近くの御者に声をかけた。
「すまない。隣町まで行きたいのだが、今日は動かないのか」
男は俺の顔を一度見て、すぐ視線を外した。返事の代わりに、顎で掲示板を示す。
「出ねぇよ。全部な」
「護送に馬も人も取られた。衛兵もな」
「護送隊が戻るまで、運行は再開できん。……数日は見とけ」
数日。
止まって待つ、という選択肢は最初からない。
「わかった」
それだけ言って踵を返した。愚痴を聞く必要もない。事情は理解した。必要なのは、次の手だ。
馬車がないなら、歩く。
最短の道を、最短の速度で。
町の物売りはまだ開いていた。日中の騒ぎが嘘みたいに、店先にはいつもの品が並ぶ。ただし客の顔は硬い。声が小さい。皆、どこかで聞いた噂を噛み砕けずにいる。
俺は必要なものだけを買う。
乾いたパン。干し肉。塩。水袋。替えの布。縄は――今はいらない。火打ち石と、短い油灯。夜を走るためじゃない。夜を避けるための保険だ。
荷を背負うと、肩に重みが乗った。
それでも不思議と、足取りは軽い。必要なものが揃えば、あとは進むだけだ。
正門へ向かう。
門前に近づくほど、人の視線が増える。刺すというより、避ける。会話の切れ目に、俺が挟まる。妖精憑きという札は詮索を避けるのに便利だが、不吉という札は面倒だ。
正門には、まだ昨夜の傷跡が残っていた。焦げた木の匂いが板壁に染み、石畳には黒い筋と、踏み荒らされた泥が乾きかけている。
守衛が俺を見て、眉をひそめた。
「……出るのか」
「あぁ」
それだけで通った。止める理由はない。止められる筋合いもない。
門を抜けると、町の喧騒が背中側へ落ちた。風の音が戻る。土の匂いが強くなる。遠くで鳥が鳴いている。
馬車が止まっても、道は止まらない。
俺は足を速めた。




