7話 『行動開始』
目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。
窓の外は白い。朝靄が町を薄く溶かしている。
服を整え、写本の位置を確かめる。
腹に何か入れておくべきだが、食欲は後回しでいい。先に動く。
宿を出る。冷えた空気が頬を撫で、頭が冴えた。
向かう先は昨日の詰所だ。
◇ ◇ ◇
門の脇の詰所は、静かだった。
耳に入るのは、森から吹く湿った風と、木々の擦れる音。
人の声は少ない。行き来するのは用がある者だけだ。しかも大抵は、森に慣れた連中。
昨日の門衛が、椅子にだらしなく腰を掛けていた。
俺の姿を見つけた瞬間、背筋が跳ねるように伸びる。
「……おいおい、アッシュ?」
目を丸くしたまま、半歩こちらへ身を乗り出した。
「あんた、まさか……さっそく何かしでかしたのか!?」
声がでかい。
詰所の奥で別の兵が顔を上げた。
「いや、そういう顔じゃねぇな」
門衛は言いながら、自分の勘違いが恥ずかしくなったのか、鼻の頭を掻く。
「……で、なんだよ。こんな朝っぱらから。森に戻る気か?」
「違う。手配書を見せろ」
俺は用件だけを伝えた。
門衛は一瞬きょとんとし、それから顔をしかめた。
「手配書? お前が? ……いや、別にいいけどよ」
言いながらも、壁際の板に掛けられた紙束へ手を伸ばした。
「ま、安心しろ。俺も昨日な、暇すぎて嘗め回すように見返したが――お前の顔は無かった」
冗談めかして言い、肩をすくめる。
「残念だったな。お前も指名手配なら、話の種が増えたのによ」
俺は紙束を受け取り、その場で捲り始めた。
指先に、乾いたインクの匂いが残る。
罪状、報奨、特徴。逃走先の推定。どれも似たり寄ったりだ。
ただ――時折、紙の上に写し絵が混じる。
筆の癖がない、静止画。輪郭がわずかに滲み、陰影が潰れている。
魔法による風景の切り取り。この世界では珍しい代物だ。
重要案件だけが、こうして“顔”を持つ。
数枚捲ったところで、指が止まった。
ミランダ・ノクターナ。
写し絵の中の女は、片手に短い刃を提げたまま、こちらへ微笑んでいた。
笑みは薄い。だが、目だけが冷たい。――夜の底みたいに。
「ほっほぉ、お目が高いねぇ」
門衛が、横から覗き込んで声を漏らす。
「良い女だよなぁ、そいつ」
鼻の下を擦る仕草だけが、やけに堂に入っている。
「……実はよ。俺、こいつの写し絵……一枚、部屋に飾ってんだ」
俺は顔を上げた。
「……公文書だろう。いいのか」
「いや、聞けって。掲示用に余りが出たのをな? 捨てるのも勿体ねぇし」
門衛は言い訳のつもりなのか、へらへら笑う。
「夜番の時なんか、眺めてると退屈が紛れるんだわ。……ま、襲われたら終わりだけどな」
軽口を叩きながらも、門衛の目は紙の写し絵に吸い寄せられている。
俺はそれを無視して、文面の下段へ視線を落とした。
罪状の欄。報奨の額。注記。
俺は息をひとつ吐いた。
「……厄介だな」
「何が厄介なんだよ」
門衛は不思議そうな顔でこちらを見ている。
「いや、こちらの話だ。それより」
俺は写し絵から視線を外し、紙束を元の順に戻した。
「最近、この町で何かあったか」
「は?」
「事件でも揉め事でもいい。あと、これから大きな予定は」
門衛は一拍置いてから、面倒そうに頭を掻いた。
「事件なんざ、そうそう起きねぇよ。森側の門なんて退屈の塊だ」
言いながらも、思い出すように顎を上げる。
「……あぁ、でも予定ならあるな。町の中央に教会があるんだが、あちこち痛んできててな。修繕の段取りの確認で、今日、偉い司祭様が来るって話だ」
「司祭が来る?」
「歓迎の準備もしなきゃならん。こういう時だけ町が張り切る。屋台だの飾りだの――面倒くせぇ」
司祭。修繕。歓迎。人が集まる。通り道が絞られる。
条件が、揃いすぎている。
俺は黙って頷き、紙束を門衛に返した。
「なるほど、助かった」
「へへっ、なんだよ。働き口でも探そうってのか?」
門衛が笑う。
「……まぁそんなところだ」
俺は踵を返しかけて、足を止めた。
「そうだ。ひとつだけ」
「ん?」
俺はミランダの手配書を一枚だけ抜き取り、門衛の鼻先へ差し出した。
「この女、昨日見たぞ」
門衛の表情が、一瞬で消える。
「……は?」
笑いが引く。軽口の温度が落ちる。
「冗談だろ」
「冗談で、朝からこんな場所に来ると思うか?」
門衛は紙をひったくるように掴み、写し絵を見て、俺を見る。もう一度、写し絵を見る。
「おい……おいおい」
次の瞬間、詰所の奥へ怒鳴った。
「おい! 走れ! 隊長呼んでこい!」
若い兵が駆ける。足音が遠ざかっていく。
門衛はまだ紙を握りしめたまま、俺を見た。
「……どこで見た」
「町に入ってすぐだ」
門衛は口の中で何か罵り、それから短く息を吐く。
「……分かった。お前は、余計なことすんな。いいな」
俺は答えず、もう一度だけ詰所の外へ視線を投げた。
――舞台は、もう動き始めている。
◇ ◇ ◇
詰所を離れ、大通りを進む。
石畳を踏む音が増えるにつれて、匂いが変わっていった。
焼きたてのパン。煮込みの湯気。獣脂。汗。
朝の町は、生活の臭いが濃い。
人の数も増える。
森側の門の静けさが嘘みたいに、声が重なっていく。
そうしてしばらく歩いていると、大きな教会が見えてきた。
白い石造り。尖塔。古い意匠。
近づけば近づくほど、古さが見える。雨だれの筋。継ぎ目の痩せ。ひび割れ。
補修の痕はあるが、追いついていない。――なるほど、視察が来るわけだ。
正面では、作業着の男たちが忙しそうに縄を張り、板を運び、足場の木枠を組んでいる。
正面扉は大きい。だが出入口は一つじゃない。
脇に小さな扉が二つ。裏手に搬入口らしい口。
けれど今は、どこも塞がりかけている。
足場の部材、板、縄。資材が寄せられ、人が行き来し、脇扉の前には仮置きの荷が積まれていた。裏手の口も同じだ。通れなくはないが、急いで抜けるには狭すぎる。
緊急時に人が雪崩れ込むなら――逃げ道は、実質ひとつ。
あの正面の大扉だけだ。
そして、逃げ道がひとつなら、追い立てる先も決まる。
「おい。そこの」
声をかけてきたのは、教会の脇で縄を結んでいた若い男だった。目の下が青い。眠れていない顔だ。
「見物なら向こうだ。怪我でもされちゃ洒落にならん」
「すまない。見物じゃない」
俺は足を止め、両手を軽く上げて見せる。敵意はない、という合図だ。
「少し聞きたいことがある。手を止めさせて悪いが――いいか」
修道士は一拍置いてから、警戒を解ききらないまま頷いた。
「……何だよ」
「今日いらっしゃる司祭様の、お名前は分かるか」
修道士の眉が上がる。
「司祭様? あぁ、監督司祭のベルナール様だ。修繕の確認で来る」
ベルナール。
面識はない。だが、耳に残っている。
周回の途中――教会で起きた惨劇のあとに流れた噂。
「監督司祭が死亡」。短く、そういう形で消えた名だ。
獲物は、この司祭で間違いない。
「ベルナール……」
俺は一度だけ、その名を口の中で転がした。
修道士は不思議そうに眉を寄せる。
「知り合いか?」
「いいや。――“偉い司祭様”が来るって聞いてな。名くらいは、と思っただけさ」
余計なことは言わない。
「到着はいつ頃だ」
「日暮れだ。歓迎の段取りもあるし、昼のうちに形にしないと怒られる」
修道士は疲れた顔で笑った。笑いきれていない。
「責任者はどこだ。俺にできることがあるなら、手伝おう」
言葉は丁寧に、理由は薄く。
「……奥。あの人。指示してるだろ」
顎で示された先に、年配の男がいた。
作業着の職人たちに短く指を飛ばし、修道士には低い声で段取りを言い含めている。怒鳴らない。なのに、周囲の手が止まらない。そういう声だ。
俺は距離を詰め、用件だけを切り出す。
「人手が足りないと聞いた。日雇いでいい。仕事はないか」
年配の男がこちらを見た。目が一度だけ細くなる。
「見ない顔だな……お前さんか? 噂の妖精憑きってのは」
「そうだ」
男は、俺の肩から腕へ、最後に脚へと視線を落とした。値踏みというより、怪我人を見分ける目だ。
「……その細い身体で、働けるのか?」
正しい。今の俺は最低ステータス。さぞ貧弱そうに映るだろう。
だが、ここは神の家だ。身よりのない男を門前払いにすれば、角が立つはず。
年配の男が、ふっと鼻を鳴らす。
「まぁいい」
言いながら周りを見る。職人と修道士の手は、どれも足りていない。
「運べ。口は出すな。勝手に入るな。……それが守れるなら使ってやる」
「助かる」
それだけ言って、俺は資材の山へ向かった。
板束、縄束、木枠、釘箱。
教会の修繕は、祈りの場を整えるというより土木の現場に近い。何かを運んでいれば、そこにいる理由になる。
そして、理由があれば――中を歩ける。
礼拝堂へ足を踏み入れた瞬間、まず目に入ったのは“床”だった。
中央が、丸々抜けている。
穴を跨ぐように長い板が何枚も敷き詰められ、疑似的な床が作られていた。色が新しい。削り跡も荒い。床材が違うだけで、場の空気まで変わる。
試しに端を踏むと、音が違った。
石の上の重い響きじゃない。腹の底で揺れるような軋み。板がわずかに沈み、どこかで縄が張る気配がする。下から支える仮支が見え隠れし、隙間の奥は暗い。
支えるためのものを支えている。つまり、いま一番弱い場所でもある。
続いて目に入ったのは太い柱。その根元に資材が寄せられ、縄が張られている。
作業の邪魔になるのだろう。
視線が、自然と天井へ向く。
梁は古く、乾いている。乾いてひび割れた薪のようだ。
奥には階段口があった。冷たい空気が漏れている。地下だ。
扉は半開きで、人の出入りがある。倉庫だろう。袋と木箱が積まれているのがちらりと見えた。
俺は運ぶふりをしながら、礼拝堂内を歩き回った。
礼拝堂の中心。
地下室。
正面扉。
塞がりかけた脇扉と搬入口。
崩れかけ、補修中の梁。
――ピースをひとつひとつ、拾い集めていく。
しばらくして、重そうな壺が運び込まれてきた。
蓋の隙間から、乾いた刺激が漏れてくる。油壺だ。
灯りか、防腐か。用途はどうでもいい。
「そいつは落とすなよ」
年配の男が言う。
「床が汚れると面倒だ。司祭様がお怒りになる」
「手伝おう」
駆けよって、油壺を抱えた。
重い。だが一人で運べないほどではない。
「おう、とりあえずそこの資材置き場にでも置いてくれ」
「わかった」
俺は壺を抱え直し、慎重に歩いた。
鼻の奥に嫌な感触が残る。
壺は礼拝堂の脇、資材の陰へ置いた。
誰も気にしない。
気にする必要がないと思っているからだ。
俺は縄束を一つ抱え、作業の陰へ回った。
目がある時は作業のふりを。
目がない時は、仕込みを進める。
仕込みを進める、といっても派手なことはしない。
運ぶ。結ぶ。戻す。拾う。
手を動かしながら、目だけが次の一手を数えていく。
板束が減り、縄が張り替わり、足場の木枠が組み上がっていく。
礼拝堂は、朝よりずっと“仕事場”になっていた。
誰かが咳き込む。木屑の粉が光の筋に舞う。
どこかで金具が鳴り、職人の短い怒鳴り声が飛ぶ。
それでも手は止まらない。止められない。期限が近づいている。
気づけば、窓の外の明るさが変わっていた。
光が斜めになり、床の影が長く伸びる。背中の汗が冷え始めて、ようやく時間の経過を実感する。
「おい、そこまでだ!」
声を張り上げたのは、朝方の若い修道士だった。
青い目の下のまま、今度は妙に張り切った顔をしている。
「片付けろ! 司祭様のお出迎えに出るぞ! ……道具、置きっぱなしにするなよ!」
周囲が一斉に動き出す。
板が引かれ、縄が緩められ、仮置きの荷が寄せ直される。
空気が、慌ただしさから体裁の方へ切り替わる。歓迎の準備。見られる準備。
年配の男が俺の方へ目線を飛ばした。
「お前さんもだ。ここで突っ立ってると目立つ。出るぞ」
「わかった」
俺は頷き、最後に礼拝堂を一度だけ見回した。
中央の仮床。柱。天井の梁。地下への口。
――条件は整った。
人が流れ、手伝いも職人も外へ散っていく。
礼拝堂の中に残るのは、片付けの途中の静けさだけだ。
俺は皆の背を追わず、逆に足を止めた。
視線を落とし、地下への階段口へ向き直る。
今なら、誰の目も薄い。
扉の隙間から冷気が押し返してくる。
下へ降りると、音が変わった。礼拝堂の響きが遠のき、足音が吸われていく。
積まれた袋と木箱。乾いた紙の匂い。湿った石の肌。
俺はそこで、ほんの短い時間だけ“仕上げ”を済ませた。
確認するべき箇所は、もう頭に入っている。
手を入れるべきところも、残っていない。
最後に、息をひとつ吐く。
上では、司祭を迎える声が上がり始めていた。
笑い声。足音。衣擦れ。
町が、今日という一日を儀式に塗り替えていく。
俺は暗い地下で、目を細める。
――もうすぐ、舞台の幕が上がる。




