6話 『状況整理』
石壁の冷たさが背中に貼りついたまま、しばらく動けなかった。
息を整える。
四つ数えて吸い、六つで吐く。もう一度。鼓動はまだ速いが、思考が戻る。
――立て。
壁から背を剥がし、足裏で石畳を確かめる。痛みも痺れもない。動ける。なら、動くべきだ。
膝の震えを押し込み、ゆっくりと歩き出す。大通りへは戻らない。
視線は集まる。噂は増える。今日はもう十分だ。
俺はその足で、町の外れへ向かった。
石畳の道幅が広がり、家屋の密度が疎らになっていく。壁の漆喰は剥げ、軒先の灯りもまばら。商人や旅人が好む区画ではないが、だからこそ都合がいい。
軒先に、控えめな看板。
素朴な木彫りの鶏。宿だ。
扉を押すと、控えめな鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
迎えたのは、白髪混じりの男だった。背は高くないが、腕は太い。長年、重い樽でも運んできたのだろう。奥では年老いた女が帳面を繰り、台所の方からは若い娘が小走りで駆けてくる。
「一泊と食事。湯を頼みたい」
男は頷く。
「風呂は高くてここじゃ張れん。手洗い桶に湯なら用意できるが、それでいいか」
「それでいい」
この世界での風呂は、まだまだ贅沢品だ。上下水道を完備した場所は大抵が大都市で、薪も水も、魔法を使うにしたって手間はいる。いまの俺に払える余裕はない。
男が告げた料金は、値段相応。法外ではない。安くもない。
銅貨を数えて渡す。
「二階、端の部屋だ。静かだぞ」
鍵を受け取り、軋む階段を上る。足音を一定にする。古い床板は、踏み方ひとつで鳴り方が変わる。鳴らさずに歩けるなら、そのほうがいい。
部屋は簡素だった。
小さな窓。粗末な机。椅子が一脚。藁を詰めた寝台。壁は薄い。隣室の気配があれば分かる程度。
これだけ揃えば十分だ。
扉を閉め、鍵を回す。
金属が噛み合う音が、妙に大きく聞こえた。
その瞬間、膝から力が抜けそうになった。堪え、寝台に腰を下ろす。
しばらくして、控えめに扉が叩かれた。
「湯をお持ちしました」
娘が、大きな手洗い桶と布を運び込んでくる。湯気が立ち、部屋の空気がわずかに柔らかくなる。
礼だけ述べ、扉が閉まるのを待つ。
上着を脱ぎ、湯に浸した布で首筋を拭う。温かさが皮膚を撫で、遅れて筋肉がほどける。腕、胸、背。森の埃と汗が布に移っていく。
それでも、匂いだけは落ちない気がした。
強烈な匂いは、なかなかに手ごわい。薄まりはするが、完全に消すにはまだ何日もかかるだろう。
拭き終え、昼に買った服に袖を通す。布はまだ硬いが、清潔だ。
続いて食事が届く。硬いパンと塩気の強いスープ。肉は少ない。
正直、お世辞にも美味いとは言えない味だ。
ゲーム『FATAL FATE』の中でも味覚はしっかりあったが、やはりというか、現実となったいま味覚も格段に深みを増している。
だが、いまはこれでいい。味を楽しむ余裕はない。
黙って食べ、器を返す。
扉の外の足音が遠ざかるのを待って鍵をかけた。
窓を確かめる。外から侵入できる高さではない。
椅子を扉の前へ少し寄せる。無駄かもしれない。だが、無駄を削って命が助かる保証はない。
静寂が部屋を満たす。
ようやく、思考が置き場所を得た。
俺は寝台の軋みを確かめるように、もう一度だけ腰を据える。
――まずは状況整理からだ。
袖の内側に隠すようにして携行していた薄い冊子を取り出す。
魂籍の写本。紙の手触りは、相変わらず現実のそれだ。頁を開くと、淡い文字が浮かび上がる。
この世界――『FATAL FATE』の世界は自由度が高い。
それゆえに、明確な天井というものが存在する。
際限のない自由に、ゲームという法則性を持たせるための縛り、といってもいいだろう。
ひとつ。
魔王侵攻タイマー。
この世界の北の果てにある魔王軍という勢力。それが人類に総攻撃を開始する。
俺たちがどれだけ足掻こうと、侵攻そのものを止める術はない。
世界の寿命はおよそ八年から十年。最後には人類が負ける――そういう仕様だ。
俺は今も、その"仕様"に挑み続けている。
ふたつ。
シナリオトリガー。
この世界では今、五つの国が覇権をめぐり競い合っている。
魔王軍や魔族という存在は北の果てに封印された伝説とされ、まだ誰も本格的な脅威とは認識していない。だから、人類で団結するという発想そのものがない。
だが、これ自体は単純な解決法がある。
一つの国に肩入れし、勝たせ続ければ良い。
人類に国家が一つしかなければ、当然人類の力は集約されるのだから。
そんな覇道を成立させないために設けられているのが、このシナリオトリガーだ。
各々の国で設定されている、物語上の重要なイベント。それを踏みそこなうと、トリガーが発動する。
発動すると、どうなるか。
答えは、時計の針が極端に進む、だ。
あの北で待つ「終幕」が、こちらの失点に合わせて走り出す。世界の寿命が、縮む。
つまり、攻略とは、ただ強くなることではない。
国を生かし、時間を稼ぎ、盤面を維持する――その上で、勝ち筋を拾う必要がある。
みっつ。
技術的ブレイクスルー封じ。通称"ちゃぶ台返し"。
ゲーム『FATAL FATE』は、現実で可能なことのほとんどは再現可能だった。
やろうと思えば近代兵器を作り出し、核武装だってできる。――理論上は。
しかし、発明無双で魔王軍を焼き払う、という甘い夢は最初から塞がれている。
この世界にない技術体系を成立させた瞬間、あるいは人類側が「やりすぎた」と判断された瞬間、魔王がこちら目掛けて全力で攻め込んでくる。
これが界隈でいう"ちゃぶ台返し"と呼ばれる現象だ。
そして最後に――最も厄介な縛り。
真名の封印。
俺が初めて挑戦する新しい縛りだ。
魔王を討った直後に現れた、あの存在。
その神々しい姿から、俺は最初伝承に出てくる神を想像した。
だが、もたらされたものは奇跡でもなければ、祝福でもなく、この世界の終幕だった。
名前を呼ばれた瞬間、体は一切動かなくなった。それは俺も、勇者たちも同じ。
つまり、ステータスに寄らない拘束。"仕様"だ。
耳を塞ぐ、大声でかき消す程度の対策でどうにかなる代物ではないはず。
まるで世界そのものが、呼称を鍵にして、個を固定しに来るような強制力があった。
――なら、隠すべきは明白。
俺を拘束する"鍵"を、誰にも渡さない。
終幕の先。俺の望むエンディングを見るために、この条件は絶対だ。
だが実際、考えれば考えるほどこの縛りはきつい。
真名を隠す、というのはこの世界においてかなりの重りになる。
ギルドや公的機関を利用するには、身分証明が必要だ。
そして身分証を作るには、魂籍の写本のような魔道具を用いられる。
もちろん使えば真名は晒され、公的機関に記されることとなるだろう。
よって俺は、身分証が必要なあらゆる行為が禁止される。
次に危険なものとして、魔法やスキルによる識別がある。
特に厄介なのは、本人にその気がなくとも情報を得てしまうような、強烈な効果を持った存在だ。
代表的なもので言えば、そう。聖女の持つ《真眼》などが挙げられる。
簡単なものなら防ぐ手段は思いつくが、あのレベルの効果を防ぐ手段を、俺は知らない。
つまり、相手に識別されない対抗策の用意と、それでも顔を合わせるわけにはいかない人物の存在。しかもそれが、世界を救うために必須の勇者パーティにいる。
そして、もうひとつ。
重要な要素が、"生まれ"だ。
どんな生まれを選択したとしても、自分を名付けた親はいる。
幼少期から始まるわけではない以上、開始時点で名前を知る者はいるし、身分証も所持している場合がほとんどなのだ。――"持たざる者"を除けば。
全ステータスが最低値。人との繋がりもなく素性も不明である"持たざる者"を選んだただ一つの理由。それが、本人以外真名を知るものがいないという利点だった。
つまり、まとめると。
俺は最低ステータスで、誰にも名前を知られることなく、一国も滅ぼさず全ての重大イベントを発生させ、勇者パーティに会うことなく彼らを育て、来るべき魔王軍との戦いに備えなければならない……と。
「……っ、はは……はははっ、はははハハハ!」
あまりにも、馬鹿げている。笑いがこぼれるほどに。
だが、俺の中に蓄えられたバラバラのピースたちが、訴えかけてくる。
――不可能ではない、と。
「ふぅ」
乾いた息を吐き出し、心を落ち着かせる。
考えるべきことは山積みだ。
ひとつひとつ、整理していくしかない。
次のことがらに、意識を向ける。
心の片隅で、ずっとひっかかっていた。
神々しさをまとった"あの存在"が何者か、だ。
俺はずっと、魔王軍侵攻やシナリオトリガー、ちゃぶ台返しの判断を下しているのは、魔王自身だと思っていた。
だが、魔王を討伐して初めてわかった。"あの存在"こそが、真の黒幕だと。
魔王の能力では説明できない"縛り"の判断。システムとの連動が見て取れる言動。
実際にこの世界で信仰され、恩恵を与える神々と明らかに違った何か。
あの見た目とは裏腹に、人々を助け導くようなものとは一線を画す"仕様"上の壁。
"神"は、伝承の名だ。
人が恐れ、祈り、物語に収めるための呼び名にすぎない。
だが、俺が見たものは、祈りを受け取らなかった。
戦いを褒めもせず、怒りもせず、ただ淡々と名を読み上げ、拘束し、終わりを進行させた。
世界の寿命を用意し、失点に応じて針を進め、越えてはならない線を引き、踏み越えた者には"帳尻"を落とす。
あれは神というより、盤面の管理AIに近い。
――世界の帳尻を合わせる監視者。
そう位置づけるほうが、辻褄が合う。
そして、敵として見るなら、呼び名は必要だ。
曖昧な畏れは思考を濁らせる。こちらが狙うべき"相手"を、言葉で固定する。
だから俺は、心の中で名を付けた。
監視者。
神の顔をした、世界の敵。
俺が最後に倒すべき相手。
これから先、ヤツの情報は集め続けなければならない。
頁を閉じたはずの写本を、俺はもう一度だけ開いた。
手癖だ。
周回のたびに、宿の寝台に腰を下ろしてから、確認する。呼吸が戻ったあと、指先だけが勝手に動く。
淡い文字が浮かび上がる。
基礎能力。最低値。適性なし。技能なし。加護なし。
――持たざる者。
そこまでは、予定通りだ。
だが、指が止まった。
称号欄。
見慣れない一行が、増えている。
妖精憑き。
「……やはり、更新されるのか」
声が乾く。
ゲームだったころ、称号は"行動"で増えた。ここでも同じらしい。世界が現実じみたところで、仕組みだけは律儀にゲームのままだ。
俺は眉間を押さえ、ため息をひとつ吐く。
このゲームに「運」や「不幸」といった曖昧なパラメータはない。
だから称号も、数値に直結するものばかりじゃない――そう信じたい。
フレーバー。飾り文句。
そうであってくれ、と願う。
……だが。
今日一日を思い返すと、その願いが喉の奥で引っかかった。
裏路地。
影。
甘く冷たい香り。
そして、あの女。
まさかな。
俺は写本を閉じ、視線を落とす。
次に考えるべきは、もっと手前――"起きた不幸"そのものだ。
本来なら、この町に用はなかった。
宿を取って、最低限の補給を済ませ、明日には出立する。
この町はチュートリアルの入口に過ぎない。俺の盤面作りに必要なのは、もっと外側の土地で、もっと大きい駒だ。
だが、それが崩れた。
今日、路地で引いたカードが最悪だったからだ。
ミランダ・ノクターナ。
あの女は、ただの強敵じゃない。
ランダムイベントと呼ばれる類の存在だ。
いつ、どこで、誰の前に現れるか。行動原理すら、一定の法則に収まらない。
攻略の手順を、こちらの理解の外側から崩しに来る。世界を混沌に寄せるために置かれた装置。
そして厄介なことに――見た目が良すぎる。
フードの影に隠れてなお、輪郭だけで分かる造形。
あの手の女は、プレイヤーの心を掴む。掴んだまま、平然と盤面を壊す。
結果、ゲーム内では屈指の人気キャラクターだった。
遭遇報告が上がるたびに話題になり、コスプレをする者さえ出た。あれは"悪役"として完成している。人の悪意と好奇心を、同時にくすぐる。
――だが、攻略を目指す者たちにとっては笑えない。
放置すれば、必ず盤面が腐る。
王族が死ぬ。都市が崩れる。治安が壊れ、隣国が「理由」を得る。
そうして国が傾き、いずれ滅びる。――そして、その瞬間に時計の針が跳ねる。
たったひとつの"混沌"が、世界の寿命を削り取る。
だから、対処が強制される。
見て見ぬふりをしたプレイヤーから、先に沈んでいった。
そのせいで、攻略勢の界隈では別の呼び名で呼ばれていた。
――無理ゲー女。
序盤で出会ったら終わり。
放置しても終わり。
手を出せば、なお面倒が増える。
そして今日、俺は初日に引いた。
見つけた以上、対処が必要だ。
次の機会がある保証など、どこにもないからだ。
ただし、いまの俺は最弱。
力もない。権威もない。身分証もない。
正面から押し潰す手段は取れない。まして相手は、こちらの都合に合わせて出現してくれる類じゃない。
――だから、情報が要る。
あの女が今どこにいるのか。何を狙っているのか。次にどこへ移るのか。
ここを明日出てしまえば、手が届かなくなる可能性がある。
逆に、いまこの町にいるなら、いまが最も捕まえやすい。人の目も、導線も、限られている。
俺は写本を閉じ、袖の内側へ滑らせる。
紙の重みが、奇妙に心を落ち着かせた。
椅子をもう少しだけ扉へ寄せる。
鍵を確かめる。指先で金具を押し、噛み合わせを確認してから、もう一度だけ回す。
窓にも視線をやる。夜の外気が冷たく、どこか遠くで犬の鳴き声がした。
町は眠りに向かっている。――俺だけが置いて行かれている気がした。
寝台へ腰を下ろすと、ようやく疲労が形になって落ちてきた。
瞼が重い。
布を引き寄せ、肩まで掛ける。
鼻の奥に残る香りに小さく眉をひそめ、それでも息を吐いた。
――明日から動く。
そう決めて、俺は目を閉じた。




