5話 『最初の町 リーメス』
足を踏み出した瞬間から、視線が刺さった。
油と煮炊きの匂いが混ざり、家畜の気配が近い。人の足音が重なって、町の輪郭を形作っている。
――最初の町。
そう呼ばれる町はいくつかあるが、全てに共通点がある。
それは初心者を足止めするための"親切"が溢れかえっているところだ。
視線が集まっているのも、その一つと言える。
遠巻きの輪が、俺の歩みに合わせてずれる。目が合いそうになると、さっと逸らされるが、囁き声だけは逸れない。
「……妖精憑きだってよ」
「迷いの森から……」
「ほら、ひどい匂い……」
「不吉だ。不吉だぞ……」
俺は黙って歩く。
大通りは、まっすぐ奥へ伸びている。左右に商いの札、屋台の布、職人の看板。人の流れも、同じ方向へ吸い寄せられていく。
その流れに乗った途端――声が飛んだ。
「そこのあなた!」
若い女の声。
振り向くと、革鎧の上に短いマントを羽織った冒険者風の女が立っていた。華美ではないが、目は強い。くびれた腰に下げた剣が、言葉より先に"慣れ"を語っている。
女は俺の匂いに眉をしかめ、それでも一歩だけ近づいた。
「あなたよね、妖精憑きって。だったら、まず冒険者ギルドで身元を――」
「必要ない」
言い切る。
女の口が半開きになり、次の言葉が一拍遅れた。
「……え? あなた何言って――」
「ギルドに用はないと言った。――話は終わりか? 終わりだな。よし」
冒険者は、苛立ちと呆れを混ぜた息を吐いた。
「……変なやつ。死んでも知らないから」
吐き捨てて、人波へ戻る。
あの女は、偶然声をかけてきたわけではない。
本来なら、彼女は"導き手"だ。
冒険者ギルドへ連れていき、登録を済ませ、依頼をこなし、やがて共に戦う。
状況次第では――共に未来を歩く大切な相手にもなり得る。
そういう立ち位置の女だった。
だが俺は、その入口を閉じた。
関係を築けば時間を取られる。時間を取られれば、初動が遅れる。
この世界は待ってくれない。
もう出会うことはないであろうその女から視線を切って、歩き続ける。
歩幅は変えない。
背中に刺さる視線だけが増えていく。
「……あれ、冒険者ギルド行かねぇのか?」
「死ぬぞ、ああいうの……」
「妖精憑きって、やっぱり……」
囁きが石畳を這う。噂は、足より早い。
大通りは混んでいた。荷車がゆっくり進み、屋台の客が道を塞ぎ、子どもが駆けては叱られている。
人で詰まるほどではないが、こちらの速度も勝手に調整される。
――面倒だ。
そう思ったところで、また声がかかる。
「おい、そこのにいちゃん!」
商人風の男が、道の端から手を伸ばしてきた。胸には小さな札。生産系ギルドの印だ。
「身寄りがねぇなら俺が仕事を――」
「断る」
言葉だけ落として通り過ぎる。
「……は? おいまだ話は――」
伸びた手が空を掴んでいた。
「ねぇ妖精憑きさん、良ければお祓いを――って、ちょっと待っ」
「いらん」
ひたすらに、通り過ぎる。
「祟りじゃ! おぬし、呪われ――おい、聞かぬか!?」
聞かない。
足は止めない。
「待てって言ってんだろ!」
「妖精憑き! ちょっと話だけでも――」
「無料で寝床を――」
「祝福を――」
「印を――」
断る。
断る。
断る。
視線が変わっていく。
最初は好奇。
次に警戒。
やがて不快そうな視線に変わり、最後はちょっとした恐怖へ。
足早に道を空ける者。
子どもを引き寄せる母親。
目を逸らし、舌打ちをする男。
噂は、もう町を一周しているだろう。
構わない。
俺は、大通りの先にある木の看板を見つけた。
擦れた文字。工具と布を描いた印。
雑貨と道具の店。
目的地だ。
躊躇なく、扉を押す。
鈴が鳴った。
「いらっしゃ――って、お客様!?」
店員の声が裏返るが、無視して進む。
店内をさっと見渡し、記憶と齟齬がないことを確認する。
棚の高さ。
布の質。
革の並び。
消耗品の配置。
迷う要素はない。
棚の右端から二枚。
麻布のシャツとパンツ。縫製は荒いが耐久は十分。
隣。
替えの靴。
簡易な鞄。
腰の高さの棚から保存食を二つと革製の水筒。
油紙に包まれた包帯を一束。
品物を抱えて戻り、店主の待つカウンターにぶちまけた。
俺は最後に店のバックヤードを指さす。
奥の出入口脇に掛けられた外套。
色は地味。厚手。撥水加工。
裏地は縫い直されているが、布は上等だ。
「それを」
初めて店主を見る。
「奥の外套だ。合わせていくらになる」
店主は口を開いたまま、数秒固まった。
「…………え? あ、いや、それは……三銀と、銅が――」
言い終わる前に、硬貨を数えて置く。
銀。銀。銀。
銅を三枚。
乾いた音が机を叩く。
「足りるな?」
店主は無意識に数え直す。
「……足りて、ます」
鞄に荷物を詰め込み、呆けた店主の手から外套を受け取って羽織る。
重さを確かめる。
動きを阻害しない。
問題はない。
踵を返す。
店内は静まり返っていた。
客も、店員も、ぽかんと口を開けたまま。
「……あいつ、値段見たか?」
「見てねぇ……」
「初めて来た顔だろ?」
「なんで在庫の場所、分かってんだ……?」
扉が閉まる。
鈴が、もう一度鳴った。
外套の裾を整えながら、俺は大通りを外れる。
人の流れが濃い中央を避け、店の軒下沿いへ寄った。
そのまま、脇道へ滑り込む。
裏路地へ曲がると、喧騒が一段落ちた。
石壁が両側から迫り、洗濯紐が頭上を渡っている。湿った土の匂い。どこかの家の煮炊きが、薄く漂ってくる。
石畳は細く、曲がりくねっていた。二、三度角を折るたびに、背後のざわめきが遠ざかっていく。
人の気配が完全にほどけ、ようやく肩の力が抜けてきた頃。
「……ちょっと、あなた」
背後から、不意に声がかかった。
妙に艶のある、女の声。
――こんなイベント、あったか?
記憶をなぞる。
大通りでの勧誘。
ギルド。
教会。
商人。
宿の客引き。
だが、今は裏路地。
しかも、スタート初日でこの時間帯。
――ない。
ゆっくりと振り向く。
影が溜まる位置に、一人。
壁にもたれかかるように、フードを目深に被った女が立っていた。
重なった影で、顔はまったく見えない。わずかに覗くのは、薄く弧を描く唇だけ。
首の線が細い。腰の位置が高い。外套の下で、体の曲線が静かに主張している。立っているだけで、路地の空気が少し濃くなる。
そして――匂い。
森の香草とは違う。虫避けの青臭さでもない。
甘く、冷たく、夜の底に沈むような香り。
女は、俺の外套をひと撫で見るように視線を寄越した。フードの影の奥で、笑った気配だけがした。
「随分と、冷たいじゃない。あんなに次々と断って」
「……何の用だ」
距離を測る。
近すぎない。遠すぎない。逃げるにも、詰めるにも中途半端な位置。――慣れている。
「妖精憑きって本当?」
「答える義理はない」
「ふぅん、そう。でも町中があなたをそう呼んでたわ」
肩をすくめる仕草。外套の布が、僅かに擦れた。
その動きすら、やたらと女を強く見せる。
「……ねぇ」
女は、どこか楽しげに言った。
「知ってる? 妖精憑きは凶兆なんですって。現れた年は、必ず大きな不幸が起こるらしいの」
声が軽い。
「ふふ……楽しみね。どうせ起きるなら、盛大なほうがいいわ」
笑ったのは、たしかに女だった。
だが、笑いの温度に人の温かみを微塵も感じない。
俺は短く息を吐いた。
「不幸を見物しに来たのか」
「見物?」
女は首を傾げた気配を作る。
「そうね。見物に来たの、不幸を。珍しいものは近くでよ~く見ておきたい性分なの」
ふざけているようで、底がみえない。
厄介な手合いに絡まれたようだ。
「それで、わざわざ裏路地まで」
「だって」
女は、ほんの少しだけ声を甘くした。
「大通りだと、人が多すぎるもの。あなた、とっても急いでいるみたいだったし……それじゃあ――逃げられちゃうでしょ?」
背筋に冷たい汗が、滴る。
つまり、今は逃がす気がない、ということか。
俺は一瞬、女から視線を外した。路地の奥を確認する。逃げ道。壁の凹凸。足場。
どれも、あまり良い状況とは言い難い。
そもそもステータス最低値の俺では、この状況で打てる手がない。
ここは、相手の出方に合わせるしかないか。
そんな考えを巡らせていた時――唐突に、笑い声が響いた。
「ぷっ、ふふ、あははは。そんなに怖がらないで? 別にとって食おうってわけじゃないわ」
こちらの反応が面白かったのか、女はけらけらと声を弾ませる。
ひとしきり笑った後、女が言った。
「ただ興味があっただけ。噂の妖精憑きが、わたしと同じ匂いをさせていたから」
「……匂い?」
女の影が、鼻先をわずかに動かした。
「夜香よ。知らない?」
ゲームのテキストに、そんな言葉を見た気はしたが――正直、あまり記憶にない。
「あなたが全身から漂わせている匂いの名前。迷いの森でしか採れない、星の見える夜にだけ咲く、珍しい花を――」
女の袖先がゆらりと舞う。
距離は変わっていないはずなのに、女が一歩近づいた錯覚がした。
香りだけが触れてくる。
甘くて冷たい。――肌ではなく、思考に絡みつく。
「こうして精製すると……ね? 素敵な香りになるの。わたしのお気に入り」
なるほど。確かに香りは良い。
特有の青臭さもない。
女の色香も相まってか、自然と意識が揺らぐのを感じた。
気を抜けば、相手に好意を抱いてしまうような感覚。
つまりこれは、
「……毒、か」
「へぇ」
声のトーンが一段落ちた。
「あなたはこれ、魔物除けに使ったのよね……? 町の歩き方も、手慣れていてすっごく不自然」
カツン、カツンと石畳が鳴る。
無造作に近づく女に、鈍った思考が追いつかない。
まずいと思った時には、女はすでに手の届く距離にいた。
「……この町、初めてじゃないわよね? あなたは、何者?」
女の腕が、すっと伸びた。
速くはない。
むしろ、確かめるような動き。
俺は反射的に身をよじる。
肩を引き、軸をずらし、接触の線を外す。
外した、はずだった。
次の瞬間。
指先が、胸に触れた。
押す、というほどの力でもない。
むしろ優しく、指の腹で撫でるように。
足が半歩、勝手に下がった。
重心を崩されるでもなく、
力で弾かれるでもなく、
ただ進路だけを奪われる。
鈍い感触。
「…………ッ」
気づけば、石壁に追いやられていた。
女の手のひらは、今も俺の胸――心臓のうえにある。
「ほら、答えて?」
楽しげな声が、近づく。
フード越しから覗く二つの闇が、こちらを見上げていた。
「っ……何者、か」
女の問いに、俺は答えを持ち合わせない。
この世界に似たゲームを、遊びつくしたと言って誰が理解できる。
誰が信じる。
「悪いが、お前が望むような答えはないぞ。俺はまだ何者でもない」
「…………」
当然、そんな答えで納得しない。
女の手に、力と冷たさが宿る。
「だが」
こんなところでは死ねない。止まっていいわけがない。
「成すべきことだけは、もう決めてある」
「……それは、何?」
温度を感じない声色が、無機質に聞き返す。
俺はそこに、全身全霊の熱を込めて答えた。
「討たねば、ならない、ヤツがいる!……俺が、この手で!!」
――だから、邪魔をするな。
決意に滲む眼差しを、俺を見上げる暗闘に叩きつける。
女は、一瞬だけ息を止めた。
掌越しに伝わる心臓の鼓動を確かめるように、わずかに指先が静止する。
次の瞬間。
「……ふふ」
低く、小さく笑った。
そして、にやりと唇の端が吊り上がる気配だけがした。
すっと、手が離れる。
胸の上から消えた重みと同時に、路地の空気がわずかに緩んだ。
「……やっぱり、同じ匂い」
独り言のように、ぽつりと零す。
夜に沈む甘い香りが、まだ薄く残っていた。
「いいわ」
女は一歩だけ距離を取る。
だが、去る気配はない。
「じゃあ、これだけ教えて」
声色が軽くなる。
先ほどまでの圧が嘘のように、あくまで興味本位の響き。
「あなたの名前は?」
短い沈黙。
ここで黙り続ける意味は、もうない。
俺は、息を整えてから答えた。
「……アッシュだ」
「アッシュ」
女がゆっくりと、その音を転がす。
「灰、ね」
くす、と笑う気配。
「燃えカスってことかしら」
一拍。
そして、少しだけ声が低くなった。
「それとも――炎に焼かれてなお、消えなかったもの、かしら」
返事はしない。
必要もない。
女はそれ以上追及せず、満足したように肩を揺らした。
「さようなら、アッシュ」
くるり、と外套が翻る。
「予想より、面白かったわ」
背を向ける気配。
去る。
そう判断して、俺は口を開いた。
「待て」
足音が止まる。
「俺にも聞かせろ」
振り返らないまま、女は小さく首を傾げた気配を作る。
「お前は誰だ」
沈黙。
ほんの一瞬の間。
そして。
「……言うと思う?」
愉しげな声。
「いいや」
即答する。
それを聞いた女は、満足したようにくすりと笑った。
「正解」
次の瞬間には、気配が薄れる。
足音はほとんどしない。
影だけが路地の奥へと溶けていく。
残ったのは、わずかな夜の香りだけだった。
「…………はぁ」
全身から力が抜ける。
膝が笑い、そのまま石壁に背を預けるようにして崩れ落ちた。
遅れて、心臓が激しく脈を打ち始める。
呼吸が浅い。
指先が、わずかに震えていた。
生きている。
ただそれだけの事実に、今さら実感が追いつく。
しばらくしてから、ようやく絞り出すように呟いた。
「……なぜ、こんな場所にいる」
視線を落としたまま、低く。
女の正体を口にした。
「ミランダ」
路地には、もう誰の気配も残っていなかった。




