4話 『偽名』
石の外郭は、近づくほど古さが目についた。
継ぎ目の目立つ石積み。補修の跡。苔の染み。
森側だけを塞ぐように伸びる、防衛の名残。
中央には、石と鉄で組まれた重い門がある。
普段は閉ざされている。
俺は門前に立ち、拳を作った。
鉄と石の合わせ目を、荒く叩く。鈍い音が二度、三度。
「なんだぁ?」
門の向こうから、気の抜けた声が落ちてきた。
少しして、中央の覗き穴が横へ滑る。
鉄板が擦れる音。暗い穴の奥から、片目がこちらを覗いた。
「見ねぇ顔だな。誰だ?」
視線が肩から足元へ落ちる。
「いや、その前に。あんた、どっから来た……?」
畳みかけるように声が飛ぶ。
俺は来た道を指さし、余計なことは言わずに答えた。
「森からだ」
「……森って、お前……まさか!」
門を挟んだ向こう側に、一瞬の沈黙が流れる。
すると、覗き穴の向こうで、もう一つ足音が寄ってきた。
「どうした?」
「いや、こいつ……森から来たって」
「は? 迷いの森から? そんな馬鹿な――」
覗き穴の向こうで影が押し合う。
「森から人が来るかよ。エルフだって通る時ゃ合図――」
「いや、だって、見ろよ! 耳も長くねぇし、こりゃどう見たって――」
「おい押すな! 見えねぇだろ!」
「お前が見ろって言ったんだろうが!」
騒がしい言い合いが続いた後、片方が改めてこちらを睨みつけた。
「なぁ、あんた……もしかして……妖精憑きか?」
俺は一拍置いて、頷いた。
「そうだ」
覗き穴の向こうで、はっきりと息を呑む音がした。
妖精憑き。
迷いの森から現れた、身元不明者――つまり、持たざる者を指す呼び名だ。
稀に現れ、その年は疫病や飢饉、戦乱など、大きな災いが続くと語られている。
因果関係など誰にも証明できない、民間伝承だ。ゲームによくある、雰囲気作りのフレーバーテキスト――俺はそう認識している。
「そうだってお前ぇ……」
門衛の声が裏返る。
「いや、本人がそうだって言うなら、そうなるのか……?」
「お、おい……俺、目ぇ合わせちまったぞ」
「見るな! 今さら遅ぇけど!」
覗き穴がばたんと閉じた。
向こうで小声の押し問答が続く。
「どうする?」
「どうするもこうするも……入れねぇわけにゃいかんだろ」
「けどよぉ……」
「詰所だ。とりあえず詰所で聞く。門前に立たせとく方が怖ぇ」
やがて、重い鉄が軋んだ。
閂が外れる音。鎖の擦れる音。
門が、わずかに開く。
「……変なことすんなよ」
「変なこと、とは?」
「知らんが、なんかこう……縁起の悪いことだ」
なかなか難しいことを言う。
俺は何も言わず、その隙間をくぐった。
門のすぐ横に、小さな詰所がある。
「と、とりあえず中入れ。話、聞くだけだからな?」
門衛は距離を取りながら顎で示した。
俺は指示に従い、扉に手をかける。後ろから門衛の一人が続き、もう一人は町の中へ駆けていく。
詰所は狭かった。
壁際に机と椅子が一つ。油染みのついた記録帳。窓は小さく、光は斜めに差し込むだけだ。
「……とりあえず、座るか?」
門衛が椅子を引く。ぎこちない気遣いだ。
だが俺は腰を下ろさなかった。
「立ったままでいい」
「そ、そうか……」
門衛は視線を泳がせ、机越しに咳払いを一つ。
目が合うたび、さっと逸れる。迷信は思ったより生活に張り付いているらしい。
「……あんた、自分のことはどのくらい分かる?」
唐突な問いだった。
俺は一瞬だけ間を置き、肩をすくめる。
「何も」
「何もって……」
門衛が顔をしかめる。
「森から来たんだろ? 身元も分からねぇ、記録もねぇ……」
少しだけ、声が小さくなる。
「……名前も、分かんねぇのか?」
問われ、ほんのわずかに思考が止まった。
名乗る"偽名"を決めていなかったことに、今さら気づく。
――名前。
破り捨て、燃やした紙。
踏みつけた灰。
足裏が、無意識に視界へ入る。
口元が、わずかに歪む。
「……名前、か。そうだな」
門衛が首をかしげる。
「ん?」
俺は視線を上げた。
「灰……。そう、俺の名前はアッシュだ」
一拍。
「……アッシュ、な」
門衛は小さく復唱して、唾を飲み込んだ。
それから視線を帳面へ落とし、乱暴に頁を繰る。
ペン先が紙を引っかき、黒い線が刻まれていく。
それだけで、偽の名前はこの世界に刻まれた。
門衛は帳面を閉じ、ペン先を指で拭うようにしてから置いた。
「……で、アッシュ。あんた……自分のこと、何も分からねぇって言ったな」
「ああ」
短く返すと、門衛は口元を引き結んだ。
「じゃあ――これから、どうする気だ」
警戒と義務が半々、といった声音。
俺は軽く首を振った。
「町に寄らせてもらおう。とりあえずは、寝床と水の確保だな」
「水?」
「体を洗いたい。この匂いは目立つだろう?」
門衛の鼻がわずかにひくつく。
「あぁ……そりゃ、まぁ」
迷いの森の香草を、惜しげもなく擦り込んでいる。
虫避けとしては最適だが、人里ではただの異臭だ。
「金はあるのか?」
「ある。幸運にもな」
懐から小袋を取り出し、軽く掲げる。
中身の重みが、音で答えた。
門衛はそれを一瞥し、次いで腰の短剣、薬嚢と視線でなぞる。
「……随分、用意の良い妖精憑きだな」
小さく吐き出すように続ける。
「伝承ってのも、案外あてにならねぇもんだ」
「そのようだ」
俺は淡々と返した。
本来、持たざる者は何も持たずにこの門を叩く。
そうなれば門衛に世話を焼かれ、働き口を斡旋され、長期に渡ってこの町に足止めされる――いわゆるチュートリアルだ。
俺が最初に森を逆走したのは、それを飛ばすためだった。
門衛は腕を組み、数秒考え込む。
やがて、諦めたように息を吐いた。
「まぁいい。面倒ごとだけは起こすなよ。本当に起きると、俺らのせいにされる」
「心得ている」
門衛は眉をひそめる。
「……あと、規則だからな。初めて来る奴には一応言っとく決まりだ。正直、妖精憑きにゃあまり言いたかねぇが」
一拍。
ぎこちなく咳払いをしてから、ぶっきらぼうに告げる。
「……ようこそ。リーメスへ」
歓迎と呼ぶにはあまりにも乾いた声だった。
だが、それで十分だ。
俺は小さく口元を緩め、踵を返した。
詰所を出ると、夕暮れの光が町へ落ちている。
石畳の道。低い屋根。煙突から上がる薄い煙。
森の匂いとは違う、人の営みの匂いが鼻を打った。
――さて。
ここは"最初の町"だ。
この世界で最も、無数の選択肢が用意された場所。
だが俺には、そのどれも必要ない。
通過する――そう決めて、俺は石畳へ足を下ろした。




