3話 『迷いの森』
——迷いの森。
この空気は間違えようがない。
正面には、かすかに踏み固められた道が伸びていた。辿れば人里へ近づく。だが、近づくだけだ。
迷いの森は、通る者の都合でやさしくなったりはしない。
この廃屋は、迷いの森の中間地点にある。
装備と情報が揃っていれば、通行そのものは“不可能ではない”。問題は、そうではない場合だ。
——持たざる者。
手掛かりも道具もないまま、ここから始める。
何も知らずに踏み込めば、五分生き延びられたら上出来。ここはそういう場所だ。
正面の道は“人里へ向かうため”の道。
だが今の俺に必要なのは、“世界を救うため”の道。
最短、最速で進むのなら、とるべき選択肢は、そう――。
視線を道から外し、廃墟の裏手へ向けた。
村へ続く道の真逆。森の奥地、エルフの領域へと繋がる側だ。迷いの森が本格的に牙を剥く、難所の一つ。
周囲を見渡し、足元に視線を落とした。
廃屋の外壁沿いだけ、野草の密度が違う。
香草。それが廃屋を取り囲むように群生している。
俺は躊躇なく摘み、指先で揉んで香りを立てた。
青臭い刺激が鼻を刺す。——いや、刺すどころじゃない。
「クソッ……想像より、はるかにきついな」
思わず顔をしかめる。
ゲームでも匂いは再現されていた。
だが、現実になった途端に濃度が変わった。感じる五感の鮮明さが数段深いのだ。
不快なものは、より不快なものとして体に届く。
首筋、手首、足首。衣服の端。
皮膚に残るように、擦り込む。量は惜しまない。
廃屋の裏手へ踏み出す。
まとわりつく羽音が、ふっと遠のいた。足元の小さな気配も散る。——嫌がっている。
数歩、様子を見る。
森は相変わらず騒がしいのに、こちらへ寄ってくるものがない。
口元が僅かに緩む。
「効果は覿面だな」
この香草と、ここに残っている廃屋。——どちらも、この森がくれる最大のヒントだ。
飢えた獣や虫が本気で徘徊している場所なら、建物はとっくに“巣”にされる。そうならずに、こうして形が残っている。
理由は単純で、ここが嫌われているからだ。
外壁沿いにだけ群生しているのも、偶然じゃない。生え方が揃いすぎている。
誰かが意図して植え、定期的に手入れしている。——匂いの帯を維持するために。
この世界は、難易度の高さから“無理ゲー”だと言われていた。
だがゲームである以上、どんな無理難題にも必ずどこかに答えが転がっている。
見るべきものを見て、拾うべきものを拾った者だけが先へ進む。そして、見落とした者から順に消えていく。
香草に目もくれずに踏み込めば、俺も今ごろは毒虫か、獣の餌になっていたことだろう。
匂いを纏い、風上を取って、こちらの導線に香りを満たす。
そのうえで、迷いの森の本領へ踏み込む。
――これが、最初の一手だ。
背中の廃屋が見えなくなった頃、周囲に霧が立ち込めはじめた。
進めば進むほど濃度を増していく。木々の輪郭が薄れ、足元の道だけが辛うじて残る。
すぐに視界は白一色になった。音も距離を失い、森の気配だけが曖昧に張り付く。
そうして進むうち、霧の中でふっと道が開けた。
足が止まる。
そこは小さな広場みたいに見えた。道がいったん途切れ、円形に踏み固められた地面が現れている。
中央に、巨木が一本。
太い根が地面を掴み、根元には石がいくつも転がっていた。花——この季節に咲くはずのない色まで混じっている。
霧の白の中で、そこだけが妙に“中心”を主張していた。
そして道が四方に伸びている。
正面。右。左。——来た道の反対側にも、いつの間にか同じ幅の獣道が口を開けていた。
森の獣道が、こんな都合よく等間隔に四本も揃うはずがない。
四辻の迷路。
迷いの森の本領が、ようやく形になって現れた。
その正体を、俺は知っている。
幻惑の霧による結界。エルフ達が森に仕掛けた防衛手段であり、ここが“迷いの森”と呼ばれる所以。
仕掛けは単純で、悪趣味だ。
四つの道のうち、正解は一本。当たれば用意された、次の四辻に進める。外れは二本。選べば霧の外へ弾き出され、入口側へ戻される。
そして残る一本は——谷底へ繋がる死の道。
霧は“道の続き”を見せる。だが床はない。踏み込んだ瞬間に足元が消え、完全に落ちる。
落ちる瞬間まで、谷も崖も見えない。視界が切り替わるのは、落下が始まってからだ。
霧の中にいる限り、今がどの四辻なのか判別できない。
戻されたのか、進めたのかも分からない。
霧が晴れて初めて、結果だけが分かる。
先に進むには、この賭けを六連続で成功させなければならない。
目印なら置ける。石を積むことも、枝を折ることもできる。
だが、ここでは意味をなさない。
景色は複製され、切り貼りされ、戻される。痕跡は残らない。——残せたと思った瞬間に、別の“同じ場所”に放り込まれる。
そしてこの迷路の正解は、定期的に入れ替わり続ける。
つまり、本来ここを抜けるには、霧の結界を解除する高度な魔法を習得するか、エルフ達の持つ結界を無効化する通行証を入手する必要があるのだ。
四辻の中央、巨木の根元まで進み、掌で樹皮に触れる。冷たい。硬い。
それから振り返る。道を選ぶのは、必ずここまで来てから。継ぎ目で誤って踏み外すミスを潰すための癖だ。
この木には、何度も触れることになる。
本来なら、ここで迷う要素はない。
ゲームのスタート日、初日の配列は固定されているからだ。
……そのはずだ。
だが、これはもうゲームじゃない。
現実になった瞬間、五感の全てが鮮明になった。そう、変化はあったのだ。
スタート日の日付を確認する手段もない今、それでも本当に“順路”だけが、都合よく同じだと言い切れるか?
喉の奥が、わずかに乾く。
もし配列が変わっていたら。
六回分の賭けを、最初の一歩で落とす。
足が止まりかけた。
——いや。
ここが変わっているのなら……俺が蓄えた十年の知識が通用しないのなら、どうせ世界は救えない。
救えないのなら、この生に何の価値があるというのだ……!
俺は息を吐いて、正面の道へ踏み出した。
直進。
霧が濃い。足元の道だけをなぞる。
四辻が開ける。巨木へ触れる。振り返る。
右。
次の四辻。巨木。触れる。振り返る。
右。
次。触れる。
左。
次。触れる。
直進。
最後の四辻。巨木に触れ、呼吸を整える。
——そして、後退。
来た道を引き返す。物理的に前進していないはずの動作が、最後は“前進”になる。
魔法は乱暴だ。こちらの常識を、ためらいなく踏み潰す。
白い幕が裂けるように薄れ、視界が広がった。
霧の外だ。空気が違う。静けさの質が違う。
喉の乾きが、わずかにほどけた。
エルフ領へ繋がる森。
少し進んだところで、倒れている人影が見えた。
土が抉れている。木肌に新しい傷。血の匂いが薄く残る。——時間は経っていない。
近づくと、耳が尖っていた。エルフの女だ。深手を負い、気絶している。
そして森の影が動いた。
黒い毛並み。背は低いのに、山みたいに盛り上がっている。白く突き出た牙の先端には、鮮血がギラつく。
巨大な猪型の魔物。魔猪と呼ばれる、深い森固有の獣だ。
「やはりいたか」
腰を落として、半歩ずつ後ずさる。
視線は外さない。
香草は効く——だが、すでに見つかってしまっている以上、効果は薄い。
『グルゥ……ブォッ!』
血走った眼が、完全にこちらを捉えた。
魔猪が頭を下げ、牙を突き出し、足で地面を掻く。
四つ足の獣によくある、威嚇行動。そして、この魔物に限って言えば――
「突進……!」
倒れている女を一瞥する。
——死体にしてやる趣味はない。だが、抱えて逃げる力も時間もない。
俺は急ぎ霧の境界へ走った。
白が視界を塗り潰す。だが足は止めない。すぐに四辻が現れた。
中央の巨木へ触れ、振り返る。
霧の向こうで足音が膨れ上がっていく。
この地域の獣は、普段ならこの霧を恐れて近づかない。
だがこうして鼻先を獲物が走り回っているなら話は別だ。
野生の獣に考えて立ち止まるなどという知性はない。
そうして俺は、左へ間合いを取って“獲物”を待ち構えた。
霧が爆ぜ、巨大な塊がその姿を現す。
『ブオォ……!』
雄たけびと同時、その速度が加速した。
俺は全力で横の草むらに飛び込む。
――頼むぞっ!
圧倒的質量が足元をかすめて通り過ぎていく。
そして次の瞬間――
『ブギィィィィッィッ!?』
断末魔が、四辻に響き渡った。
叫びは遠ざかり、やがて鈍い衝撃音だけが届く。
そう、ヤツが踏み込んだのは四辻の迷路のはずれ。谷底へ繋がる死の一本道だった。
魔猪の突進は高威力。障害物などなぎ倒して進んでいく。だが、弱点も多い。
突進は曲がれない。突進は止まれない。全力で加速した後なら、なおさらだ。
そして俺は、初日に限りはずれの道がどこにあるのかも、全て把握している。
唯一の勝機が、ここにあった。
高鳴る心臓の鼓動を抑えるように、胸を撫で下ろす。
たった数十メートルの疾走、たった一度の横っ飛びで、俺の体は限界を迎えたように悲鳴をあげていた。
だが、ゆっくりとしている時間はない。
痛む体を無視して立ち上がると、俺は霧の外へと歩き出した。
倒れていた女のところへ戻り、膝をつく。
呼吸は浅い。――まだ生きている。
視線が腹へ落ちた。
横っ腹が抉れている。猪の牙――いや、角みたいにねじ曲がったそれで、えぐり取られた跡だ。
裂けた布の隙間から赤が滲み、土へ落ちていく。止まっていない。
外套をめくる。
血の温度が指に移る。滑る。嫌な現実感だ。
女の脇に転がっていた薬嚢へ手を伸ばす。
留め具を外すと、細い瓶が何本か並んでいた。淡い光を宿した水薬――ポーション類。
今は選り好みしている時間はない。
一本、抜く。
栓を飛ばし、まず傷へ。
水薬をふりかけると、淡い光が滲むように広がった。
血の勢いが、目に見えて落ちる。塞がりきりはしないが、これで“流れ続ける”状態は止まる。
残りは口へ回す。
顎を支え、喉へ落ちる角度を作る。いきなり流し込まない。少しずつ。
飲め。――咳き込むな。
喉が一度、小さく動いた。
反射が残っている。なら、まだ舞台から降ろすわけにはいかない。
薬嚢に包帯がある。
当て布を噛ませ、傷口を押さえ、巻く。圧をかけて、ずれないように締める。
結び目は固く。ほどけない位置に。
応急処置は、ここまでだ。
薬嚢を閉じ、女の腰のベルトごと外して拾い上げる。
ついでに、胸元の通行証。小袋の路銀。鞘に収まった短剣も。
女の耳元へ、低く告げる。
「世界を救うためだ、借りていくぞ。――返して欲しければ、生き残れ」
返事がないことはわかっている。
生きていれば交渉すればいい。死んでいれば——交渉相手はいない。
小袋は懐へ。
通行証は紐ごと首の内側へ落とす。
ナイフは腰に差し、薬嚢はベルトごと自分の腰へ回した。
——よし。目的は達成した。
霧の境界へ向き直る。
白が、森の奥でじっと息をしている。舞台袖の幕みたいに、こちらを待っている。
足を踏み込んだ瞬間、世界が白に沈んだ。
視界が埋まり、音が遠のく。距離感が剥がれる。——四辻の迷路、その入口だ。
だが、今は違う。
胸元の通行証が、微かに熱を持った。
淡い光が布越しに滲み、次の瞬間、白がほどけるように薄れていく。
気づけば、視界の奥に廃屋があった。
位置も、距離も、さっきまでと違う。——まるで投げ戻されたようだ。
俺は歩調を崩さずに近づき、外壁沿いへ回り込んだ。
香草を摘み、擦り込む。汗で薄れた分だけ、念入りに。
「……やはり慣れんな」
青臭さが鼻の奥に残るのを無視して、正面の道へ出た。
踏み固められた線が、森を外へ引っ張っている。
歩く。
足元の凹み、寝た草、道の“癖”——拾える情報は拾う。だが、無理はしない。
今日は、生きて人里へ着く。それだけで十分だ。
木立の隙間に、石の防壁が見えた。
森側だけを塞ぐように伸びる、古い外郭。
継ぎ目だらけで、ところどころ崩れを繕った跡がある。
壁の上には、古い見張り台が点々と突き出ていた。
人里が見える頃には、日も傾きかけていた。
ようやく、森が終わる。




