2話 『持たざる者』
光がほどけた。
次の瞬間、俺は硬い床の感触で目を覚ました。
冷たい。湿っている。木の匂いに、土と煤が混じって鼻の奥に刺さる。
視界の端で、薄暗い天井板が滲んだ。揺れているように見えるのは、俺の呼吸で埃が舞っているせいだ。
「……っ」
息を吸うと、胸の奥が重い。喉が乾いている。
手を動かす。指が曲がる。関節が軋む。膝を立てると、太腿の筋が引きつった。
痛みがある。重さがある。寒さがある。
フルダイブの"再現"じゃない。
あのゲームの中で何百回も死に、何百回も起き上がった感覚とは、決定的に違う。
身体が、ここにある。
胸の奥が、熱くなった。
笑いが漏れる。堪えきれず、喉の奥で小さく震えた。
……来た。
――本当に、来た。
あの世界。
十年追いかけ続けた景色の中に、今、俺は立っている。
救えるかもしれない。
今度こそ、終わりをひっくり返せるかもしれない。
喜びが、危うく全身に広がりかけて――俺は、唇を噛んだ。
違う。
感動している暇はない。
この世界は待ってくれない。
最初の一分一秒は、文字通り、世界の明暗を分けかねない。
俺がここで手順を誤れば、命だけじゃない。時間も、人も、全て失う。
俺は上体を起こし、周囲を見回した。
崩れかけた小屋だ。壁板はひび割れ、隙間風が入り込む。
床には藁と埃。隅に煤けた暖炉。梁は黒く、低い天井が圧迫してくる。
――迷いの森の廃屋。
記憶と一致する。最悪のスタート地点。持たざる者に与えられる、最初の地獄。
小屋の隅に、ひび割れた姿見が立てかけてある。
俺はそこまで歩き、映った自分の姿を確かめた。
顔だちは悪くない。だが痩せている。血の気が薄い。
黒い髪は乱れ、目の下に影が落ちている。――戦える体じゃない。一般人のそれだ。
服はボロ布一枚。擦り切れ、ところどころ穴が空き、泥で汚れている。
靴はないに等しい。足裏が痛むのも当然だった。
「……よし」
確認は終わり。次。
俺は胸元に手を当てた。
……ある。
拾った記憶はない。なのに懐に、紙束の硬い感触がある。
引き出してみると、一冊の薄い写本だった。革で綴じられ、角が擦り切れている。
魂籍の写本。
自分の情報が書かれた、"この世界の俺"の証明書みたいなものだ。
俺は迷いなく、ページをめくった。
年齢。体格。病歴。――そして、基礎能力。
この世界には、ゲームによくある"レベル"のような概念は存在しない。
経験値を稼いで数字が跳ね上がる都合のいい成長もない。
あるのは、日々の鍛錬と生活で積み上げた分だけ増えるステータス。
剣を振った分だけ腕が重くなり、走った分だけ肺が焼け、明日も同じだけやれるようになる――現実と同じだ。
そのリアルさもまた、『FATAL FATE』の魅力の一つだった。
そして今、その"現実"が、俺の喉元に刃を突きつけてくる。
数字を見て、思わず息が止まった。
【基礎能力:すべて1】
筋力も、技量も、耐久も、敏捷も。
――全部、1。
笑うしかない。いや、笑えない。
「鍛えれば伸びる」こと自体は救いだ。
だが、今の俺は"最低ライン"にすら届いていない。
剣を振るう以前に、薪を割れば手首をやる。
走れば息が上がり、転べば骨が折れる。
"戦える体"にするだけで、数か月はかかるだろう。
今の俺は――虚弱体質の少年みたいな力しかない。
次のページへ目を滑らせる。
【適性:なし】
【補正値:筋力E/技量E/耐久E/敏捷E/神秘E/精神E】
基礎能力が"今の実力"なら、補正値は"才能の伸びしろ"だ。
鍛えたとき、どこまで積み上がるか。どの方向に伸びやすいか。
生まれつき与えられた、成長の天井そのものと言っていい。
だが、全てE。最低ランク。
方向性もなければ、伸びも最底辺。
この体には、何の才能も宿っていない。
さらにめくる。
【技能:なし】
【加護:なし】
当然だ。持たざる者は、そういう選択肢だ。
スキルと呼ばれるようなものも、加護のように持って生まれた天恵も、ひとつもない。
俺の喉が、ひりつくように乾いた。
ここにある俺の体は、歳が若いという一点を除けば――
ほとんど現実世界の、死んだ時の自分と変わらない。
いや、下手をすると、それ以下だ。
……だからこそ、だ。
余計なものがない。
最初から誰にも繋がっていない。
俺はページを先へ送った。
【名前】
その欄を見た瞬間、口角が勝手に歪んだ。
「……っ、はは……はははっ」
声にならないはずの笑いが、喉の奥からこぼれ落ちる。
俺は躊躇なく、そのページの端をつまんだ。
びり、と紙が裂ける音が、妙に大きく響いた。
引き裂いた一枚を、暖炉の中へ放り込む。
灰の奥に、かすかな赤がまだ残っていた。俺は周囲の乾いた木屑を寄せ、息を吹きかける。
小さな炎が立った。
紙の端が黒く焦げ、すぐに火が走る。
文字が熱で波打ち、インクが滲み、名前が形を失っていく。
――燃えろ。
燃えてしまえ。
俺は写本の残りを閉じ、膝の上で押さえたまま、炎が紙を喰うのを見届けた。
完全に燃え落ちるまで待つ。
灰になったところで、俺はそれを暖炉から掻き出し、床に落とす。
そして、靴代わりのボロ布を巻いた足で踏みつけた。
ぐり、と。
何度も。
「……これでいい」
誰にも言わない。
誰にも見せない。
誰にも――呼ばせない。
俺は立ち上がり、小屋の中を手早く漁った。
棚は空。布切れが数枚。錆びた釘。水差しは割れている。
食料はない。刃物もない。ロープもない。――知っていた通りだ。
記憶との大きな差異は、いまのところ見当たらない。
なら、やることは一つ。
迷いの森は、入るより出るほうが難しい。
だが"入った道"は必ず存在する。俺はそれを知っている。
俺は小屋の扉に手をかけた。
木が湿っている。重い。
体重をかけて押すと、軋む音を立てて開いた。
森の匂いが流れ込む。湿った葉。土。腐葉土。獣の気配。
薄暗い緑の向こうに、無数の影が揺れている。
俺は一度だけ息を吸い、外へ踏み出した。
その直前、視線が足元に落ちる。
暖炉から掻き出した灰が、床板の上に散っていた。
――灰はもう、文字の形すら残していなかった。




