1話 『生まれを決める』
暗闇の中で、俺は目を開けた。
――いや。目を開けた、という感覚だけが、遅れて追いついてきた。
上下も左右もない。壁も床もない。風も匂いも、温度さえ曖昧だ。
真っ黒な空間に、ただ「認識」だけが浮かんでいる。
その黒の中心に、ひとつだけ光が灯った。
『FATAL FATE』
見慣れたロゴ。見飽きるほど見たはずの文字列が、やけに鮮明に刺さる。
ロゴの下に、半透明のウィンドウが一枚、静かに浮かんでいた。
【生まれを決める】
文字が揺れているように見えるのは、俺の目がまだ焦点を結べていないせいだ。
……おかしい。
この画面は、確かにいつものだ。
だが、いつもならその前に、現実の椅子の感触があった。起動音があった。ヘッドセットの締め付けがあった。
いまは何もない。
俺の身体がどこにもない。
そう気づいた瞬間、胸の奥がきり、と縮んだ――気がした。
「……っ」
息が詰まる錯覚。喉の奥がひゅっと鳴った"気がする"。
胸を押さえようとして、そこで初めて気づく。
手がない。
肺も心臓も、痛みを受け止める器そのものが、ここにはない。
それでも、痛いと「思った」。
痛みそのものじゃない。
痛みの記憶が、輪郭だけを持って立ち上がったのだ。
思い出した。
(……死んだ、よな)
六畳の暗がり。
モニターの光が滲んで、実績欄の金色だけがやけに鮮明だった。
「まだやりようはある」――そう思った瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる感覚が走って、息が吸えなくなった。
床が近づく。視界が傾く。
最後に見えたのは、伸びたロゴと、止まったままの画面。
そして――
終わった。あれで、終わったはずだ。
(最後に見る夢か。それとも走馬灯ってやつか……?)
そうだとしても、納得できる部分はある。
奇しくも、ワールドの寿命と同じ十年をこのゲームの世界に注ぎ続けた。
現実ですり減っていく日々の中、フェイタル・フェイトの世界だけが俺を本気にさせてくれた。
どれだけ手を尽くしても思い通りにいかない高い壁が。
冒険の中ふとした瞬間に現れる、幻想的な風景が。
何げない一幕の中で起こる、仲間たちとの掛け合いが。
俺の毎日をどれだけ支えてくれていたことだろう。
俺にとって、この世界はゲームの枠を越えた"何か"だった。
だから、世界が滅んでいくたびに絶望した。
終わりの来ない世界を、見たかった。
誰かを守るために立ち上がった者たちが、その誰かの傍で安らぎを得る景色を。
十年後も、二十年後も、笑いあって暮らす景色を。
剣を置いた後も、続いていく世界の景色を。
そういう「先」を、この世界に届けたかった。
それが叶わないまま、俺は死んだ。
これは、未練だ。
なら、死ぬ間際に思い浮かぶのがこの画面でも、不思議じゃない。
……でも。
ロゴの輪郭が、あまりにも正確だ。
ウィンドウの透明度。文字の間隔。微かな発光の強さ。
ただの夢だと片づけるには、あまりに整いすぎている。
そして何より、この暗闇は"都合よく"ぼやけてくれない。
夢なら、もっとふわふわしていて、逃げ道がある。
だがここには、逃げ道がない。選べ、とだけ言っている。
もし――。
もしこれが夢じゃないなら。
もし、死んだ俺に、もう一度だけ「始めろ」と言っているのなら。
胸の奥の喪失とは別の熱が、腹の底に灯った。
悔しさだ。怒りだ。執着だ。
まだ見ていない。
まだ届けていない。
「……それなら」
声が黒に吸い込まれて消えた。
返事はない。反応もない。
それでも俺は続ける。
「それなら……俺は、選ぶ」
カーソルが淡く揺れ、ウィンドウが静かに展開した。
いくつもの項目が並ぶ。
名家の庇護。教会の加護。騎士の家系。学者の家系。職人の家系。商家。孤児院。辺境の村。
生まれの背景、育ちの方向、適性の傾向。――人生の"最初から持っているもの"の一覧。
どれも魅力的に見える。
どれも、攻略の近道に見える。
だが同時に、どれも「鎖」に見えた。
家がある。血縁がある。守るべきものが最初からある。
誰かが俺を知る。誰かが俺を呼ぶ。
名前が、当たり前に流通する。
――二度と、あれは御免だ。
視線を落とす。
ウィンドウの下の方に、ひとつだけ色の薄い項目がある。
【持たざる者】
説明文は短い。補正なし。適性なし。保証なし。
最弱。空っぽ。何も持たない。
普通は選ばない。
まともにクリアを目指すなら、真っ先に切り捨てる選択肢だ。
なのに、俺の中では最初から決まっていたみたいに、その文字が大きく見える。
持たない。
繋がらない。
最初から、誰のものでもない。
――誰にも、俺を呼ばせない。
(ここから始める)
俺はカーソルを【持たざる者】へ合わせる。
そして、確定の意志を送った。
ウィンドウが一瞬だけ強く光り、選択肢の文字が沈む。
――選択が確定した。
次の瞬間、世界が光に包まれた。




