0話 『FATAL FATE』
この世界で、いちばん売れたフルダイブVRゲームの名前を挙げろと言われれば――
十人中八人は、きっと同じタイトルを口にする。
『FATAL FATE』。
五つの国が覇権を争い、戦火と魔物が国境を塗り替える中世風ファンタジー世界。
その過酷さごと作り込まれた舞台に“入り込める”一人用フルダイブRPGだ。
プレイヤーはその世界で「一人の人間」として生き、選択し、歳を重ね、日々を過ごす。
農民として畑を耕し、ささやかな家族を持って静かに一生を終えるもよし。
冒険者として名声を求め、将軍として大戦争の英雄になるもよし。
圧倒的な没入感を生むグラフィック。
完全に再現された五感。
専用AIによる緻密なシナリオ制御と、NPC一人ひとりのリアルな生活。
現実に等しい物理演算が可能にした、「ゲームの世界に入る」という新体験。
どんな生き方もできる――そう思わせる自由度と密度が、爆発的な人気を生み出した。
物語の中に幾度となく登場するテーマ。“異世界転生”を追体験できるのだ。
多くのプレイヤーが物語に飛び込み、思い思いの生活を謳歌した。
だが、この世界が永遠に続くと信じている者はいない。
この世界には「寿命」があるのだ。
各ワールドには、ゲーム内時間で最長十年ほどの上限が設定されている。
それを過ぎるか、条件を満たした場合、北方より魔王軍が侵攻を開始し、人類は必ず敗北する。
どれだけ足掻いても、最後には世界が滅びる。
そんな仕様のせいで、このゲームは「どうやってもクリアできない無理ゲー」としても有名だった。
これまで魔王の討伐に辿り着いたプレイヤーは一人もおらず、ましてや世界を救ったプレイヤーなど存在しない。
限られた時間、限られた命の中で、この世界をどう楽しむか。
それがこのゲーム『|FATAL FATE』の内容であり、テーマであると誰しもが考えた。
それでも、この世界に人生ごと魅了され、「寿命」と割り切れずに挑み続ける者たちがいる。
だが、その挑戦が“結末”を変えた例は、まだ一つもない。
――そう、今までは。
◇ ◇ ◇
「……っ、まだ立つか」
俺は、握りしめた剣を支えにしながら、膝をついたまま顔を上げた。
視界一面に広がるのは、崩れ落ちる城壁と、溶けかけた黒い空。
魔王城の最奥――玉座の間は、抉れ、焼け、瓦礫が散り、戦いの跡が生々しく残っている。
目の前で、巨大な影がぐらりと揺れた。
山のような巨躯に、焼け焦げた漆黒の翼。血のように赤く輝く両目が、なおもこちらを睨みつけている。
魔王――この世界のラスボス。
勇者アルスが剣を構え、仲間をかばうように一歩前へと進み出る。
翼の影が揺れ、赤い双眸がその動きに食いついた。
俺は膝をついたまま、一度だけ深く息を吸う。
剣を床に突き立て、体重を預けるようにして立ち上がった。足が笑う。視界がぶれる。それでも、倒れない。
アルスの右へ回り込む。――ここからは、俺の仕事だ。
剣闘士として、隙をこじ開けて最後の一撃を通す。
何十回もここまで来て、何十回も全滅して、そのたびに周回し直して。
ようやく、初めてこの体力ゲージを「赤」まで削った。
「ア、アルス様……!」
背中で、聖女リィナの掠れた声が震える。
振り返らなくても分かる。リィナのHPバーはほぼゼロ。回復魔法のアイコンも、クールタイムの灰色から戻ってこない。
右前方では守護騎士ガルドが、砕けた盾の残骸をまだ構えていた。
左後方では賢者エルミナが、途切れかけた詠唱を必死に繋いでいる。
誰も、次の直撃は耐えられない。
「……分かってる」
俺は、震える呼吸を一度だけ整えた。
視界の上隅で、魔王のHPバーが微かに点滅している。残り、ほんの削り一発分。
思考が、最適解の手順を迷いなく辿る。
十年かけて身体に染み込ませた、最終局面の解法。
「ガルド、右前で囮。三秒だけでいい。エルミナ、詠唱続行。リィナは祝福を。アルス、合わせろ。――行くぞ」
仲間が動く。
迷いはない。
魔王の口元が、灼熱の赤に輝く。
来る。
大技の予備動作――咆哮からの、前方薙ぎ払いブレス。
俺は前に飛び出しながら、地面を蹴った。
赤い炎が、ほんの少しだけ俺の足元を舐めていく。
遅れて熱が追いかけてきて、皮膚がひりつく。現実ほどの痛みじゃない。それでも、十分に嫌な熱さだ。
視界の端で、ガルドのHPバーが白く点滅する。瀕死ギリギリ。落ちてはいない。
盾の縁が焼け、火の粉が散るのが見えた。
着地と同時に、俺は最後の発動を確定する。
剣に、淡い光が集まる。
何千回と失敗し、ようやく身体に叩き込んだ最終コンボ。
「――終幕だ」
叫びと同時に、視界が一瞬だけ白く弾けた。
次の瞬間、魔王のHPバーがゼロになる。
巨体が、ゆっくりと後ろに倒れ込む。
砂煙が視界を覆い、耳鳴りみたいな轟音が響く。
その中で、システムメッセージの音だけが、妙に澄んで聞こえた。
【SYSTEM:魔王が討伐されました】
【実績解除:《魔王討伐者》 World First】
「……や、った」
思わず、笑いが漏れた。
視界の端で、灰色だった実績アイコンのひとつが金色に光っている。
サービス初期から誰一人開けなかった実績。魔王討伐者。World First。
「やった……はは、ついにやったぞ」
アルスの肩から、張り詰めていた力が抜けた。
ガルドが、信じられないというように笑い、リィナがその場にへたり込む。
エルミナは杖を抱きしめたまま、その場で泣き出していた。
俺も剣先を下げ、肺の奥に溜めていた息を吐く。
勝った――そう思った瞬間だった。
視界の隅で、実績一覧のウィンドウがまだ開いたままになっている。
そして、ひとつだけ。
「????」のまま点滅している枠が残っていた。
未解放実績。条件不明。
長年話題にされ続けてきた、最後の一枠。
そのアイコンが、じわりと赤く滲むように点滅を強めた時だった。
崩れかけた玉座の間の天井が、さらに深く裂けた。
赤く濁った空の向こうで、何かが、こちらを覗き込んでいる。
「……演出、か?」
思わず呟いた俺の耳に、聞き慣れない声が落ちてきた。
『――よくぞ、ここまで辿り着いた』
それは、どんなボイスアクターの声とも違っていた。
男とも女ともつかない、機械みたいに滑らかで、しかしどこか人間臭い響きを持った声。
崩れた天井の裂け目から、巨大な“目”が覗き込む。
光と黒いノイズが混ざり合ったような、形容しがたい光球。
視界の中央に、システムメッセージが浮かび上がった。
【SYSTEM:最終フェーズに移行します】
「最終……フェーズ?」
そんな言葉、このゲームの公式にも、解析情報にも、一度も出てこなかった。
『汝ら、人の子らよ。
幾千の死を超え、ついにここまで至ったか』
玉座の間の床に、光の紋様が広がっていく。
まるで巨大な魔法陣だ。
その中心に、白い人影が形をとる。
白いローブ、無数の光の輪。顔は淡い光に包まれて見えない。
――神。
そう感じさせるだけの存在感を纏った何かが、今、目の前にいる。
神の声が、穏やかに、しかし逃げ場のない響きで玉座の間に満ちる。
『汝らの名を、確かに記録した。
勇者――アルス・ヴァン・レグナード』
勇者のフルネームが、はっきりと読み上げられた。
その瞬間、勇者アルスの頭上に、見慣れないアイコンが点灯する。
黒い鍵穴のようなマーク。その隣に、小さなテキストが浮かぶ。
【状態異常:???】
「……アルス?」
ガルドが呼びかける。
だが勇者は一切動かない。剣を構えたまま、ぴたりと固まっている。
――バグじゃない。
勇者の身体そのものが、システムに固定されたみたいに、一歩も動けなくなっていた。
『聖女、リィナ・フローレンス』
神が名を呼んだ瞬間、聖女リィナの頭上にも黒い鍵穴のアイコンが灯る。
そして、身体が止まった。指一本、動かない。
『守護騎士、ガルド・ハイネマン』
守護騎士ガルドも同じだ。盾を構えたまま、凍りつく。
『賢者、エルミナ・ローゼン』
賢者エルミナの唇が、詠唱の途中で止まる。
吐きかけた息さえ、戻らないみたいに。
「……名前、か?」
乾いた声が漏れた。
呼ばれた瞬間に【状態異常:???】。完全拘束。
バグじゃない。仕様だ。――そんな確信だけが、背筋を冷やす。
俺は一歩、踏み出そうとする。
リィナを引きずり、ガルドの体勢を崩し、せめて――。
『そして』
神の声が、俺を指名した。
『剣闘士――■■■■■■■■』
自分の名が呼ばれた――そう理解した瞬間、視界の隅にステータスウィンドウが自動で開く。
【名前】の欄が淡く光り、文字列は黒いノイズに塗りつぶされている。
【状態異常:???】
俺の頭上にも、同じ鍵穴のアイコンが灯る。
「……っ」
足に力を込める。腕を動かす。息を整え、跳べ、と命じる。
だが、身体は一歩も動かない。
指は動くのに、身体が反応しない。
さっきまで確かに“ここ”を生きていた感覚が、一瞬で奪われた。
(どうすれば――)
名前を呼ばれる前に、遮る?
隠す? 偽る?
そもそも、「呼ばれる」という行為そのものを――。
答えが形になる前に、神が静かに片手を掲げた。
『では、終わりの儀を始めよう』
床一面の紋様が、まるで血管のように赤く脈打つ。
勇者アルス、聖女リィナ、守護騎士ガルド、賢者エルミナ――四人の足元に、それぞれ小さな魔法陣が浮かび上がった。
次の瞬間。
白い光柱が、四人を貫いた。
HPバーが一斉に点滅し、半分まで落ちる。
本来なら回避も、防御も、回復もできたはずだ。――だが、誰も動けない。
『一撃目』
神が、数を数えるように呟く。
第二撃。第三撃。
光柱が降り注ぐたびに、HPバーが削られていく。
リィナは祈ることすらできず、ガルドは盾を上げ直すことすらできない。
エルミナの詠唱も、途中で途切れたまま凍りついている。
「やめろ……!」
叫んでも届かない。
意識だけが暴れる。助けろ、動け、抜け出せ――何度も。
だが命令は、空振りするだけだった。
やがて、第四撃で、勇者アルスのHPバーがゼロになる。
少し遅れて、リィナが、ガルドが、エルミナが、それぞれHPを失っていく。
光となって砕ける瞬間まで、四人の身体はぴくりとも動かなかった。
『よく戦った。
だが、汝らにこの世界を救うことは、許されていない』
神の声は、あくまでも穏やかだった。
残虐さも、怒りもない。ただ淡々と「結果」を告げるだけの裁き。
玉座の間に残っているのは、俺ひとり。
――いや、ひとり“残された”。
動けないまま、思考だけが回り出す。
名前を呼ばれた瞬間に拘束。
そのあと、削り切られるまで何もできない。
――そもそも、「名前を呼ばれる」という行為を、どうやって防ぐ?
答えが出る前に、神の視線がこちらに向いた。
『これにて、汝の物語は終了だ』
俺の足元に、新たな魔法陣が浮かび上がる。
次の瞬間、白い光柱が俺を飲み込んだ。
HPバーが、一気にゼロまで落ちていく。
多段ヒットのダメージ表示が、これでもかというほど視界に重なった。
何の猶予も、回避も、反撃もなく。
白い光の中、最後に見たのは、視界の中央に浮かぶ文字だった。
【GAME OVER】
【実績解除:《魔王討伐者》 World First】
【実績解除:《????》 World First】
そこまで表示されたところで、視界が暗転する。
音も、光も、すべてが、ぷつりと切れた。
◇ ◇ ◇
次に戻ってきたのは、現実の暗がりだった。
さっきまで全身を満たしていた熱と重さが、急に剥ぎ取られる。
耳鳴りのような轟音も、血の匂いも、砂煙のざらつきも、一瞬で消えた。
代わりにVR機器の締め付けが残ったまま、頭の奥だけが妙に軽い。
冷たい空気が首筋を撫で、肌が現実の温度を思い出していく。
ゆっくりと目を開けると、薄暗い六畳間の天井があった。
「……負けた、か」
掠れた声が漏れる。
視線を動かすと、横のモニターに【GAME OVER】の表示。
もう一枚には、実績一覧が開きっぱなしになっていた。
灰色だったアイコンが、いくつか金色に変わっている。
《魔王討伐者》
《????》
どちらにも、小さく「World First」のタグが付いていた。
「……マジかよ」
乾いた笑いがこぼれた。
結局、世界は救えなかった。クリアはできなかった。
――なのに。
胸の奥のどこかが、もう次の周回を探している。
(まだ、やりようはあるはずだ)
どうすれば、あの“終わり”を回避できるのか。
どこで仕込みを変えれば、名前を呼ばれる前に手を打てるのか。
(次は――)
そこで、胸の奥が強く引きつった。
鋭い痛みが走り、息が詰まる。
喉の奥がひゅっと鳴って、空気が入らない。
「……っ」
立ち上がろうとして、足から力が抜けた。
視界が傾き、モニターの光がぐにゃりと伸びる。
(まだだ。次こそ――)
その続きを考える前に、意識がふっと途切れた。
床に倒れ込む直前、モニターに揺れる『FATAL FATE』のロゴだけが、やけに鮮明に目に焼きついていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
いくつかのゲーム系ニュースサイトの片隅に、小さな記事が載った。
『フルダイブVRゲーム「FATAL FATE」で、初の魔王討伐者が現れる』
人気フルダイブRPG『FATAL FATE』において、
サービス開始以来初となる「魔王討伐」および隠し実績の一つが解放されたことが分かった――という内容だ。
続けて、数行。
それらの実績を解放したプレイヤーは、
同日未明、自宅で心不全により死亡していたこと。
ネット上では、
「命かけすぎ」
「ゲームに殺された男」
「タイトル回収してて草(FATAL FATE)」
などと、一時的に書き込みが盛り上がった。
そして。
数日も経たないうちに、そのニュースを覚えている者は、ほとんどいなくなった。
記事は更新され、タイムラインは流れ、
「世界初の魔王討伐者」は過去形になっていく。
けれど。
あのゲームの実績欄には、今も金色のタグが残っている。
《????》 World First。
――彼の物語。その本当の結末は、ここから始まる。




