44話 『余白の攻防』
突きつけられた頁は、まだ白い。
その余白の縁で、ペン先が待っている。インクの粒が乾いて鈍い皮膜を張っていく間も、ヴィクトルは微動もしなかった。書きたい男が、帳面越しに、じっと飢えている。
俺は、まだ答えない。沈黙だけが、いま手の中に残っている数少ない札だった。
開いたままの鎧戸から、外の気配が絶えず流れ込んでくる。囁き。衣擦れ。数え切れない得物の先が、所在なく地面を突く音。囲みが崩れる様子はない。むしろ時間が経つほど、じわりと厚みを増している気さえした。
斬り抜ける絵は、ない。
外は町人で埋まり、部屋の中の頭数もこちらが負けている。ミランダを解き放てば数人は床に沈むだろうが、その先が続かない。力で開けられる戸は、この蔵のどこにも残っていなかった。
だが、詰みと膠着は違う。
この部屋でいま最も値の張る品は、金でも血でもない。時間だ。一秒延びるごとに、俺の側へ転がり込んでくるものがある。盤の外に伏せたままの一枚が、この蔵へ届くまでの間――それを、この男自身に稼がせる。
どう誘うか。恫喝は効かない。命乞いは論外だ。この男がただ一つ、値札も付けずに欲しがるもの――書けなかった余白。餌にするなら、それしかない。
情報に飢えた者は、空白を前にすると必ず手を伸ばす。その性質なら、書物の上で飽きるほど見てきた。
俺は、あえて長椅子へゆったりと腰を戻す。追い詰められた者の姿勢を、まず捨てる。
「一つ、忠告をしておこう」
仮面の下から出す声は、努めて平らに。
「私を殺すのは、悪手だぞ」
ペン先が、止まったまま、それでも角度を変えた。
「私が消えれば、肝心の情報は永遠に闇の中だ。ご自慢のその帳面に、二度と埋まらない空白が一頁、綴じられることになる。この先ずっとそれを抱えて眠るのは、お前の性分が許すまい?」
「ヒ……」
笑いが、途中で潰れた。
「拷問という手もあるな。だが、やめておくことだ。私は口が堅い。そのうえ、嘘が上手い。痛みの底で並べ立てた百の言葉から、どれが真か選り分ける作業は――さぞ、頁を汚すことだろう」
丸眼鏡の奥で、目玉が小さく揺れる。
「そこの三人を締め上げるのも、無駄足だ。彼らは、私がどこの誰かも知らないまま付き合ってくれている、酔狂な連中でね。絞ったところで、出てくるものは何もない」
背後で、ガロが小さく鼻を鳴らした。マルコは動かない。隣のミランダは、成り行きを面白がる側へ、早々と回ったらしい。
「……ヒヒ。よく回る舌だ。回る、回る」
折れた背が、振り子のように揺れた。
「脅しか? 命乞いか? どちらの欄に書けばいい?」
「どちらでもない。――これは、取引だ」
俺は、卓の上へ指を一本立てた。
「遊戯をしよう、ヴィクトル・ゼイル」
「……遊戯、だと?」
ペンの尻が、こつりと帳面を叩いた。
「互いに、問いを投げ合う。投げられた問いには、必ず答える。ただし、認められる問いは一種類――肯定か否定、その二つで済むものだけとする」
俺は、立てた指をもう一本増やす。
「そしてこの席に限り、私もお前も、決して嘘をつかない。掟はそれだけの、シンプルな遊戯だ」
沈黙が落ちた。外のざわめきだけが、遠い波音のように部屋の縁を洗っている。
「……ヒヒ、ヒヒヒ。く、口では、どうとでも言える」
ヴィクトルの首が、軋むような角度で傾いだ。
「お前が肯定と言う。その舌の裏に、否定を畳んで隠している。そ、そうでないという保証が、ど、どこにある」
吃りが増えている。疑っているのではない。乗りたくてたまらないのを、自分で押さえつけている音だ。
「保証など、ない。私は自分で示した掟を破るつもりはないが、それをただ信じろ、というのも都合の良い話だな」
言って、俺はその帳面を指した。
「だが、お前は〝書く者〟なのだろう? 人ひとりを一冊の空白と見て、囁きと嘘の山から真だけを拾い、頁に落としてきた男だ。この町の隅から隅までをな。――それでもなお、私の一言二言の真偽すら見分けられないと言うのなら」
仮面の奥から、声を半音だけ落とす。
「それはもう、私には救いようがない。己の曇りきった目を呪う他あるまいよ」
保証を示す代わりに、目利きの誇りをそっくり秤に載せてやる。降りれば、書く者の目が節穴だと認めることになる。乗れば――書けなかった空白が、向こうから頁に乗ってくる。この男に、断る道は残っていない。
ヴィクトルは、しばらく動かなかった。
「ヒヒ……ヒヒヒヒヒッ」
乾いた笑いが、今度は止まらなかった。帳面を胸へ掻き抱き、長い上体を二つに折って、ヴィクトルは笑った。壁際の男たちが、戸惑いがちに顔を見合わせる。
「言うではないか。言うでは、ないか……! この私に、書けん書けんと吠えさせた空白が、自分から頁の上へ乗ると言うのだ。断る理由が、どこにある」
食いついた。あとは、条件で釣り針を深く沈めるだけだ。
「手番の話をしておこう。まず、お前が続けて二つ問い、私が答える。次に私が一つ問い、お前が答える。以後、この繰り返しだ」
「ほう? ほう、ほう……?」
丸眼鏡が、きらりと光を拾った。
「二対一。ずいぶんと気前がいい。き、気前がよすぎるな? どういう風の吹き回しだ」
「見ての通り、状況はお前が有利だ。数も、地の利も、この包囲網もな」
俺は、開け放たれた鎧戸へ軽く顎を振ってみせた。
「ならば問いの数くらい、多く積んでやらねば釣り合うまい。――それとも、この期に及んで、まだ何か恐いかね」
ヴィクトルの笑いが、ぴたりと止んだ。
数百の凶器で囲ませた側が、椅子に座った丸腰の男から「恐いか」と問われている。その逆立ちした絵面を部屋の全員が呑み込むまで、たっぷりと間が要った。
ミランダが、隣で小さく喉を鳴らす。笑いを噛み殺した音だった。
「……ヒヒ。恐い? この、私が?」
ヴィクトルは執務机の縁に腰だけを引っかけ、長すぎる脚を床へ余らせたまま、帳面を開き直した。真新しい頁が、こちらへ向けられる。
「乗った。乗ったとも、仮面の男。――さあ、始めよう。私の、一つ目だ」
差し出された余白が、獲物を待つ白い網のように広がっている。
だが、ヴィクトルは、すぐには問わなかった。
開いた頁の上でペンを遊ばせ、最初の問いを選んでいる。急かす理由は、こちらにはない。この間すら、俺には稼ぎのうちだ。
「決めた。き、決めたぞ」
ペン先が、こちらへ向いた。
「大監獄の脱獄。あれを仕掛けたのは、お前か?」
部屋が、静まった。壁際の男たちまでもが、息を詰めて答えを待っている。
「肯定。――私の筋書だ」
即答する。声色は、変えない。
遅れて、ペンが紙へ落ちた。
「ヒ……ヒヒ、ヒヒヒッ! 書ける……書けるぞ、ようやく、お前のことが書ける……!」
インクが撥ねるのも構わず、ペンが余白を走る。渇ききった男が、ようやく水にありついた飲みっぷりだった。
マルコが、かすかに身じろぎをした。当事者としては、胸中穏やかではないだろう。だが、口は挟まない。
「では、二つ目だ」
顔を上げたヴィクトルの目に、もう笑いの緩みはなかった。
「お前は、誰かの命令で動いているのか? か、飼い主は、いるのか?」
問いの狙いは、透けている。俺という男の、糸の出所を探っている。縛るなら、どこを握ればいいのか、と。
「否定。首輪は、性に合わなくてね」
ペンが、今度はすぐに動かなかった。
「……野良、か」
呟きが、落ちる。
「首輪のない男が、あれだけの筋書を、じ、自分の勘定だけで引いた、と……。いよいよ、書き甲斐がある」
言葉とは裏腹に、眼鏡の奥の目は笑っていない。命令主がいないという答えは、この男にとって喜びであると同時に、厄介の種でもあるはずだ。金で釣れず、主を人質に取れず、糸の結び目がどこにもない。
書けない男は、縛れない男でもある。
「では、私の番だな」
俺は、足元――階下の倉庫のほうを、軽く目で示した。
「一階の商いを見せてもらった。見事な手際だが、あれだけの量の密輸、独力で回せるはずがない。関所も、港の役人も、どこかで必ず目をつぶっている」
ヴィクトルの指が、帳面の上で止まった。
「お前には、貴族の後ろ盾がいるな?」
壁際の男たちが、初めて明確にざわついた。触れてはならない柱に、客が手をかけた――そういう空気だった。
ヴィクトルは、部下たちを一瞥もしない。ただ、長い指の先で、こつ、こつ、と帳面を叩いている。
「……ヒヒ。乗った以上は、私も掟に従おう」
声から、遊びの色が消えていた。
「イ、肯定……だ」
まず一本、糸の根元を確かめた。
この町の上に、蜘蛛より大きな影がいる。名前までは、まだ遠い。だが「いるかどうか」を本人の口から確定させたことで、狙う的は「誰か」へ変わった。的が変われば、問いの研ぎ方も変わる。
ヴィクトルは、気を取り直すように、ぐるりと首を回した。
「さて、私の番が、また回ってきたわけだ。み、三つ目……三つ目は、そうだな」
ペンの軸が、こめかみの辺りを掻く。
「同じ規模の脱獄を、もう一度――や、やれるか?」
品定めの問いだ。一度きりのまぐれか、それとも何度でも引ける筋書か。この男は、俺の使い道を測り始めている。
「肯定」
誇張ではない。条件と時間さえ揃えば、段取りは組める。それが事実である以上、隠す理由もない。むしろ、俺の値が吊り上がるほど、この遊戯は長引いてくれる。
ヴィクトルの喉が、ひくりと鳴った。
「素晴らしい。素晴らしいぞ。監獄を開ける男が、いま、私の目の前に座っている……」
ペンが走る。頁の余白が、みるみる黒く埋まっていく。あれほど固く強張っていた男の顔が、いまは緩みきっていた。
「では、四つ目だ」
不意に、ペンが止まった。
「お前を動かすのに効くのは、カネか? ……いや、違うな。き、訊き方を変えよう」
丸眼鏡が、光を殺した角度で俺を見た。
「お前には、利より――脅しのほうが、効くか?」
嫌な所を突いてくる。
この問いに肯定と答えることは、急所の在り処を自分から教えることに等しい。守りたいものがある、と認めることだ。金で動かない男の、動く理由を差し出すことだ。
だが、嘘はこの遊戯の土台ごと崩す。それに――答えの一つひとつが本物であるほど、この男は深く食いつき、針は抜けなくなる。
俺は、口を開いた。
「――肯定」
答えるまでに、間が要ったのは認める。
ヴィクトルは、その間を、聞き逃さなかった。
「ヒヒ、ヒヒヒ……いま、いまのは良かった。答えそのものより、その間のほうが、よほど雄弁だ」
背後で、ガロの足が床を鳴らしかけて、堪えた。マルコの気配が硬くなる。二人とも、いまの一問の意味は分かっている。ミランダだけが、涼しい顔のまま、卓の上の一点を眺めていた。
構わない。この程度の持ち出しは、最初から勘定に入れてある。
「私の番だ」
こちらの傷口を眺めて楽しむ時間を、長々とくれてやる義理はない。
「お前の後ろ盾は――ダミアン・カレル伯爵か?」
名指し。
部屋の空気が、また一段沈んだ。壁際で、誰かが唾を呑む音までも聞こえる。
「……ヒ。だ、大胆なことを、訊く」
ヴィクトルの指が、帳面の縁を神経質に二度、三度と叩いた。誤魔化しの利かない形で問われた苛立ちと、掟への執着が、その指先でせめぎ合っている。
やがて、吐き出すように。
「ノ、否定……否定、だ」
嘘の色は、ない。
一人、消えた。
穏やかな調停者の顔が、頭の中の候補の列で一歩、後ろへ下がる。消すのはまだ早い。後ろへ回すだけだ。それでも、この一語で、席料の元は取れている。
ヴィクトルは、しばらく無言で俺を眺めている。
と――その目が、初めて帳面から完全に離れた。
俺の顔でも、仮面でもない。俺の背後――マルコ、ガロ、そしてミランダの上を、値踏みの目が、ぬるりと一往復する。
嫌な流れだ、と思った時には、もう遅い。
「ヒヒ。……五つ目の問いが、決まった」
その視線は、俺の背後に据えられたままだった。
「今ここにいる、お前の連れ。この三人を人質に取れば――お前は、私の言いなりになるか?」
空気が、変わった。
マルコは、表情を動かさない。ただ、肩の線だけが硬くなる。ガロの拳が固まり、太い息がひとつ、鼻から抜けた。ミランダは軽く小首を傾げただけ――だが袖口の指が、するりと位置を変えたのを、俺は視界の端で捉えていた。
俺は、三人を見ない。見れば、答えに色がつく。
「否定」
嘘では、ない。
仲間を取られて素直に頷く質なら、そもそもこんな席には座っていない。縄を握られたなら、言いなりになる前に、縄ごと外す段取りを組む。それが俺のやり方だ。……それに、あの三人を人質に選ぶのは、獲る側にとって割の悪い賭けだ。牙の数を、この男はまだ数え違えている。
ヴィクトルは、答えなど半分も聞いていなかった。その目は、俺の後ろの三人の反応だけを、じっくりと舐めていた。
「……なるほど、なるほど。口は否定と言う。だが、後ろの空気は、そ、そうは言っていないぞ?」
返事はしない。この問いは、もう終わっている。
「では、六つ目だ」
ペンが、帳面の上で待機の形を取った。
「逆は、どうだ。お前を人質に取れば――この三人は、止まるか?」
部屋が、また一段静かになった。
背後の気配が、三つとも強張るのが分かる。答えを聞くまでもなく、当人たちがいちばんよく知っている問いだった。
「――肯定」
言葉は、それ以上足さない。足せば足すだけ、傷口が広がる類の問いだ。
「ヒヒ……ヒヒヒ。いい。実に、いい」
ペンが走り、また余白がひとつ潰れた。
「私の番だ」
流れを断ち切るように、俺は言った。
「お前の後ろ盾は、ベルトラン・ヴァイス子爵か?」
「否定だ。……ほ、掘り方が、ぬるいなぁ?」
今度は、ためらいもしなかった。むしろ楽しげですらある。名指しの衝撃は、二度目にはもう薄い。
だが、こちらの帳尻は合っている。二人目が、消えた。
「な、なら……七つ目は、こうだ」
ペンの先が、真っ直ぐに俺へ向いた。
「この部屋で、最も人質としての値が張り――かつ、最も攫いやすいのは。ヒヒ……お、お前だな?」
露骨に、詰めてきた。
俺を押さえれば、三人が止まる。三人が止まれば、俺の手足は全部止まる。この男はいま、六つの答えを繋いで、一本の縄を綯い上げようとしている。俺の首に合う寸法の縄を、だ。
「――肯定」
認める。盤の上では、追い詰められている。それは、事実だ。
ヴィクトルの背が、ゆらりと持ち上がった。獲物の急所を書き当てた男の顔が、蝋のような照りを帯びる。
「ヒヒ、ヒヒヒ……いいぞ。今日は、実に、よく書ける日だ……」
――その時だった。
音が、届く。
遠い。だが、揃っている。金属の擦れる音と、地を踏む足並み。誰かの短い怒鳴り声が、風に千切れて流れてくる。
外の人垣が、初めて揺れた。
囁きが波のように走る。得物の先が、蔵ではなく、囲みの後ろへと向き直っていく。
ヴィクトルの目が、遊戯から逸れて、泳いだ。壁際の男たちも、顔を見合わせている。まだ誰も、外で何が起きているのか掴めていない。
俺は、窓を見ない。見るまでもなく、分かる。寸分も乱れずに揃ったあの足並みは、寄せ集めに刻める音ではない。
――この瞬間のために、七つの問いに付き合ってきた。
「どうやら――こちらにも、援軍が到着したようだ」
「……なん、だと」
ヴィクトルの掠れた声に、重ねるように――鎧戸に張り付いた男の声が、裏返った。
「お、お頭! き、騎士団……騎士団だ! バスティアの騎士団が、囲みの外に……こ、こっちが、囲まれてる!」
部屋の空気が、割れた。
壁際の男たちが、我先にと鎧戸へ群がる。その頭越しに、俺の位置からも見える。
敷地を埋めた町人の人垣。その向こう、高い石壁の外側に――鈍色の列が、整然と並んでいく。揃いの甲冑。立ち並ぶ槍。掲げられた旗印。
蜘蛛が張った囲みを、鋼の輪が、外からそっくり呑み込もうとしていた。
包囲の、二重掛けだ。
囲んでいたはずの町人たちは、石壁と槍に挟まれて、いまや囲まれる側に回っている。得物を握った手が次々と迷い、下がり、落ちていく。借りと弱みの糸は、騎士の槍の前では、あっけないほど細かった。
眼鏡の奥で、目玉が忙しなく往復する。外と、俺と、帳面と。
「な、なぜだ。なぜ、騎士団がここに……こ、これは……これは、お前の、し、仕込みか!?」
「肯定。肯定だよ、ヴィクトル・ゼイル」
三たび、即答してやる。
盤の外に伏せていた最後の一枚が、いま、卓の上に着いた。〝例のモノ〟――騎士団へ宛てた一通の投書が、無事、届くべき場所に届けられたということだ。
外の喧噪が、壁越しにも膨れ上がっていく。
怒号。得物が石畳に落ちる音。逃げ道を探して走り出す足音。囲みだったものが群れに崩れ、群れだったものが、ただの烏合に散っていく。
部屋の中も、もう静かではない。壁際の男たちは鎧戸に齧りついたまま動けず、誰一人、俺たちを見張ってなどいない。
ヴィクトルだけが、その中心で固まっていた。
丸眼鏡の奥で、目玉が泳ぐ。誰が呼んだ。いつ仕込んだ。どの糸が、どこで切れた――書く者の頭が、答えの出ない算盤を弾き続けている。
「――楽しい時間だったが、どうやら、ここまでのようだ」
俺は、組んでいた脚を解き、靴底を床へ置き直した。
「お前の問いは、二つとも使い切った。順番から言えば、次は私の番。……最後の質問を、しよう」
ヴィクトルの目が、ようやく俺へ戻ってきた。崩れていく外と、目の前の仮面。どちらがより恐ろしいのか、決めかねている目だった。
「お前の後ろ盾は――アルヴィン・ロートナー伯爵だな?」
外の喧噪が、その一瞬だけ、遠くなる。
ヴィクトルの口が、開いた。閉じた。もう一度、開いた。
肯定も、否定も、落ちてこない。
ダミアンの時は、即座に否定が返った。ヴァイスの時は、余裕すらあった。――今は、どちらも出てこない。答えそのものより、間のほうが雄弁。そう言ったのは、この男だ。
答えれば、糸の主を売る。黙れば、自分で乗った掟を破る。攻め道具だったはずの遊戯が、最後の一問で、この男自身の首に絡みついていた。
喉の奥で、ヒ、と音が潰れる。あの乾いた笑いは、最後まで形にならなかった。
「――答えは、必要ない」
それが、合図だった。
「あら」
ミランダの、場違いなほど軽い声が落ちる。
白い指の間から、淡い緑の小瓶が、するりと抜けた。
「ごめんなさい。手が、滑ったわ」
小瓶が、卓の脚元で軽い音を立てて砕ける。
甘い香りが、ふわりと広がる。
ミランダがいつも纏っている、あの香りだ。壁際の男たちがそれを牙だと気づくのは、致命的に遅れた。
夜香。軽く香れば思考を焼き、重なれば体の自由をも奪う麻痺毒だ。
俺は袖で口元を覆う。マルコとガロも、示し合わせたように同じ動きを取った。
効きは、早い。
鎧戸に齧りついていた男が、窓枠を掴んだまま、ずるりと崩れる。杖へ手を伸ばしかけた別の一人が、その形のまま膝から落ちた。声は出る。だが、身体がついてこない。
ヴィクトルの長い手脚が、糸の切れた操り人形のように折れた。執務机の縁から、床へずるりと滑り落ちる。
開いた鎧戸から入る風が、香りを少しずつ外へ掃き出していく。長くは保たない毒だ。だが、この部屋の初動を根こそぎ奪うには、それで十分だった。
俺は、急ぐでもなく腰を上げた。この部屋で立っているのは、もう俺たち四人だけだ。
倒れた蜘蛛のそばへ、膝をつく。
痺れて動かないはずの指が、それでも、帳面だけは離していなかった。胸に掻き抱いたまま、骨ばった指が革表紙へ食い込んでいる。町の秘密を書き溜めた一冊。この男の、心臓だった。
「や……め……」
「頂いていくぞ」
指を、一本ずつ引き剥がす。最後の一本が外れる時、ヴィクトルの喉から、言葉にならない音が漏れた。
帳面は、見た目よりも重い。当然だ。町ひとつ分の弱みが、綴じてある。
「最後の問いの答えなら、この中から探させてもらおう。――情報提供に、感謝を」
魔法の鞄の口を開き、帳面を落とし込む。
ヴィクトルの目が、限界まで見開かれた。
「か……返せ……か、えせ……! それは、私の……わ、私の、全て……」
痺れた舌で、それでも喚く。その執念だけは、本物だった。
俺は、鞄から縄を取り出し、ガロへ放った。
「こいつを縛っておけ」
「へいへい。……こういう仕事なら、大歓迎だぜ」
ガロが、倒れた長身を手荒く転がす。縄を掛ける手つきに、遠慮の色は欠片もなかった。かつての因縁を思えば、これでもずいぶんと穏当な返し方だろう。
マルコは、厚い扉の前に立ち、外の気配を測っている。
「……下が騒がしい。階段を上がってくる足音も、混じってる」
ミランダは、割れた小瓶の欠片を爪先で軽く寄せ、鎧戸から入る風を読んでいた。
「この香り、あと少しで抜けるわよ。急ぐなら、今のうちね」
窓の外では、鋼の輪が絞まり続けている。門のあたりから、木の砕ける重い音が響いた。騎士団が敷地へ雪崩れ込むまで、もう幾らもない。
あの網が絞まりきる前に、俺たちは消える。それも、織り込み済みだ。
「――遊戯は終わりだ。行くぞ」
床の上で、縛られた蜘蛛が、まだ何かを喚いている。だがその声はもう、誰のことも手繰れない。
蜘蛛との戦いには、勝った。だが、勝負はまだ終わっていない。
残された勝ち筋は、騎士の網が閉じきるまでの、わずかな余白――俺たちはこれから、そこを駆け抜ける。




