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フェイタル・フェイト:フィクサー 〜名前を呼ばれただけで詰む無理ゲー世界で、最弱ステの俺は破滅の筋書きを覆す〜  作者: 霞見


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43話 『蜘蛛のゼイル』

 扉が、内側へ開いていく。


 最初に届いたのは、明かりではなかった。


 紙の匂いだ。インクと、古い皮と、燃え残った蝋《ろう》。閉じた部屋に何年も溜め込まれた紙束が、人の皮脂《ひし》と合わさって放たれる、独特な匂い。


 開いた先は、倉庫の一室とは思えないほど奥行きのある部屋だった。


 壁という壁に、男たちが立っている。腕を組んだ者、寄りかかった者、武器に手をかけたまま動かない者。数えるまでもなく、こちらより多い。誰も声を発さず、ただ、こちらの一歩一歩を目で追っていた。


 奥の壁際に、高い執務机がある。その上に、紙の山。荷札《にふだ》の束、封蝋《ふうろう》の塊、鍵束、巻いた紐、口を開けたままの木箱。片付ける気をいっさい持っていない。いや、片付けることそのものに意味を見出していないらしい積み方だ。


 その紙山の向こうから、手だけが先に動いた。


 長い。指が、異様に長い。一枚を、めくる。間を置いて、もう一枚。爪の先までインクが沁み込み、皮膚の皺まで黒く汚れている。


 手の主が、ゆっくりと顔を上げた。


 恐ろしく背の高い男。立っているだけで、天井に頭をぶつけそうに見える。それなのに、まっすぐには立っていない。長すぎる手脚が重みを持て余したように、上体が前へ折れ、猫のように丸まっていた。


 ぶかぶかの黒い上着が、骨ばった身体の輪郭をすっかり呑み込んでいる。袖の中で、紐のような手首だけが覗く。尖った鷲鼻《わしばな》。小さな丸眼鏡。その奥で、目玉だけが落ち着きなく動き続けていた。


 俺たちを見ても、驚いた様子はない。値踏みするような目が、まず足元を這う。マルコの靴。ガロの拳の傷。ミランダの裾。最後に、俺の仮面の縁を、ゆっくりと一周する。


 顔を見ているのではなかった。品物の傷と値を、順に確かめる目。


「ヒヒ」


 乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。何かに小さく引っかかったような、吃《ども》った調子の笑いだった。


「ほぅ、ほぅ。来た、来た」


 長い指が、紙の山から離れ、こちらを指し示すように泳ぐ。


「足音が四つ。呼吸が四つ。秘密は……いくつだ? ヒヒ、ヒヒヒヒ。いいぞ。今日は、よく書けそうだ」


 誰も、答えを返さない。


 その男――ヴィクトル・ゼイルは、その沈黙すら愉しむように、長い首をかしげる。


「よく来た。よくぞ、よくぞ。なに、突っ立っていることはない――、座れ」


 節の目立つ手が、こちらと机の間を示す。動きが大きすぎる。腕一本で扇いだだけなのに、まるで舞台の幕でも引くような身振りだった。


 部屋の中ほどに、不釣り合いに上等な長椅子と低い卓が据えられている。応接の体だけは取り繕う気があるらしい。


「では、遠慮なく」


 俺は、先に腰を下ろした。


 続いて、ミランダが隣に座る。長い脚を、ゆっくりと組み直す。その一連の動きに、壁際の男たちの目が、いくつか吸い寄せられる。


 ミランダは、隠す気もなく、嘆息《たんそく》した。


 マルコとガロは、長椅子の後ろに立つ。座る気はないらしい。


 ヴィクトルは、執務机の向こうから動かない。長椅子の俺たちを、なお見下ろす位置を保ったままだった。


「さて、さて。どれから開こうか」


 長い手が、ぶかぶかの上着の懐へ差し込まれる。出てきたのは、分厚い帳面《ちょうめん》だった。表紙は黒く、手脂で角がすり減っている。あの猫背は、ただの癖ではないのかもしれない。懐にこんなものを収め続ければ、人の背は少しずつ前へ傾く。そう思わせるだけの厚みが、その帳面にはあった。


「おい!」


 唐突に、声が裏返るほど跳ねた。壁際の一人が、進み出る。だが、膝《ひざ》を折る一瞬、足が竦《すく》んだように止まった。


 その隙を、ヴィクトルの杖が見逃さない。


「遅い、遅い、遅いっ」


 杖が、止まった膝を打つ。一度では止まらない。二度、三度。打つたびに、ヒヒ、と笑い声が混ざる。罰と遊びの境目が、どこにもない打ち方だった。


 男は、声を堪《こら》えたまま、慌てて両膝を折る。黒い背中を、ヴィクトルへ向けた。


 帳面が、その背に乗せられる。台になることが当然であるかのような、機械的な動きだった。


 ペンが、紙の上を滑り出す。インクの音が、やけに大きく響く部屋だった。男は、微《かす》かに身を強張らせただけで、もう声を上げない。何度も、繰り返してきた動きだった。


「ヒヒ。いい子、いい子だ」


 ヴィクトルは、機嫌を直したようにペンへ戻り、また紙を繰り始める。指先だけが、別の生き物のように忙しく動いていた。


 しばらく、ペンの音だけが部屋を支配する。


 やがて、その手が止まった。首が巡り、長椅子の周りにいる俺たちの上を、ゆっくりと撫でる。


 最初に留まったのは、マルコだった。


「ほぅ……ヴァレリスの番犬。いや――これは情報が古いな」


 骨ばった指先が、背に置いた帳面を一度だけ叩く。


「今は、何の番犬だ? シンジケート、とやらか。お前たちの名だろう」


 マルコは答えない。だが、肩の強張りが、答え以上のものを語っていた。


「脱獄の折、女を何人か連れていたそうだな。誰だ。どこの女だ」


 その一言で、マルコの肩から、別の硬さが立った。喉の奥で、何かを呑み込む音がする。


 俺は、仮面の下で、わずかに目を細めた。踏み込み方は読めていた。だが、その先で誰の名へ届こうとしているのかまでは、まだ測れない。


「投獄、何年だったか。出てきて早々、また舞い戻ったらしいな。古い連中は、そういう男を何と呼んだ――出戻りマルコ、だったか。ヒヒ」


 マルコの喉が、低く鳴る。鼻を鳴らすに似た、それでいて随分と硬い音だった。


「……知った口で喋るな」


「知っているのが、仕事だ」


 ヒヒ、と笑いが続く。


「故買屋《こばいや》の小僧が、お前の見送りに何を投げて寄越したかも、ここには書いてある。口の悪さは、何年経っても変わらんらしいな」


 マルコの拳が、軋むほど握り込まれた。何かを言いかけて、結局は飲み込む。その癖を、俺はもう何度も見ていた。


 ヴィクトルの目が、次に動く。


「お前は……ああ、思い出した」


 ガロを見据えたまま、笑みの形が少し歪んだ。


「昔、ここへ楯突《たてつ》いた馬鹿が一人いたな。死人まで出して、不文律《ふぶんりつ》を破った男だ。性懲りもなく、また顔を出しに来たか」


 ガロの拳に、青筋が立つ。低い舌打ちが一つ、落ちた。


「……黙れ」


 短い言葉に、それ以上の感情は乗らない。だが、拳の固さが、すべてを語っていた。


 ヴィクトルは、それ以上は突かなかった。哀れむでもなく、ただ次の頁へ移るような顔だった。


 今度は、目がミランダへ移った。無遠慮な視線が、首筋から裾まで、品のない速さで這った。


「これは大物だ。広域指名手配犯。リーメスの教会で、司祭《しさい》を襲った女、だな」


 指先が、宙で小さく円を描く。


「だが、捕まった。ヒヒ、妙だな」


 帳面の頁が、また一枚めくられる。


「片目市《かためいち》の酒場を一人で制圧《せいあつ》したそうじゃないか。捕まったはずの女が、随分と強いらしい」


 ヴィクトルの手が、頁を行きつ戻りつする。


「だったら、何故捕まった? 何がお前を、止めた」


 ミランダは、何でもないように小首を傾げた。


「さぁ。神様に嫌われたのかしら」


 軽い調子。だが、その答えの底に、何かを測るような硬さが一瞬だけ覗いた気がした。俺の隣に座る彼女の、本当の温度は、いまだ読めずにいる。


 長い首が、最後に俺へ向く。


 長椅子の周りで、誰も口を開かない。ヴィクトルの目だけが、仮面の縁を、また一周した。


「脱獄囚《だつごくしゅう》は、うちでも何人か飼っている」


 ヴィクトルは、唐突に話を変えた。帳面のページを、一枚、また一枚と繰っていく。


「黒い仮面の男が、首謀者《しゅぼうしゃ》だったと言う者がいてな。場の流れまで作ってのける、随分と段取りのいい男だったそうだ」


 丸眼鏡の奥の目が、初めて、まっすぐにこちらへ据えられる。


「それは、お前のことか」


 俺は、何も答えない。


「どうやった。誰と繋がっている。どうすれば、それができる」


 矢継《やつ》ぎ早に、問いが積まれていく。一つ一つに、答える間さえ与えない。


「やれと言われれば、もう一度できるか」


 帳面の上で、ペンの先が、答えを待つように止まっていた。利用できるか、できないか――最初に見たときと同じ、値踏みする目だ。


 だが、ペンは、いつまでも紙に触れない。


「……待て。そもそもお前、どこから来た?」


 声の調子が、わずかに変わる。


「何を欲しがる。何を嫌う。何を恐れ、何を隠している」


 問いの形が、値踏みから外れていく。出自も、目的も、弱みも、恐れも――どこにも引っかかりがない。書くための取っ手が、どこにも見つからない相手。


 ヴィクトルの長い指が、白紙のページの上で、行き場を失ったように止まった。


「……書けん」


 吃《ども》るような声に、初めて苛立ちが混ざる。


「な、なぜ、書けん」


 長い腕が、執務机の紙束を薙《な》ぎ払った。荷札が、封蝋が、鍵束が、派手な音を立てて床へ散らばる。


「書けん……書けんッ! なぜ、この私に、書けんものがあるッ!」


 振り上げた杖が、台にされた部下の背へ振り下ろされる。一度、二度。もはや罰でも遊びでもない。ただ、苛立ちをぶつける先が要るだけの、当たり散らしだった。


 声が、部屋の壁に幾重にも跳ねる。壁際の男たちの間に、微かなざわめきが起きた。主の苛立ちが、何を呼ぶのか――それを知っている者だけが持つ、怯えの色だった。


 俺は、仮面の下で、息を一つ、底まで沈める。


 黙っていれば、向こうの苛立ちは際限なく育つだけ。なら、ここからは――俺の番だ。


「――落ち着け」


 低く落とした声で語りかけた。部屋の空気が、一瞬で冷える。杖を握る手が、止まる。


 ヴィクトルの目が、まじまじとこちらを見つめた。


「まずは、丁重なご招待――痛み入る」


 仮面の下、口の端だけを上げる。礼の形は保ったまま、芯に皮肉を込める。


「情報を喰い、情報に呑まれた男。ヴィクトル・ゼイル――通称、蜘蛛《くも》のゼイル」


 名を言われた瞬間、ヴィクトルの肩が、わずかに引けた。知られている側に立たされる感覚――それを、今度はこちらが仕掛ける。


「情報集めがお好きなようだが――使い方のほうは、お粗末極まるな」


「な……何だ。どういう、意味だ」


 吃りながら、声が裏返る。


「言葉通りの意味だよ、ヴィクトル。お前は情報を、相手を縛る手段、恐怖を演出する小道具程度にしか扱えていない。現に、私のことは何一つ掴めていないのだろう?」


 部屋が、静まる。ヴィクトルは、何も言わない。だが、眼鏡の奥の目だけが、せわしなく――俺の仮面の縁を、また探り始めていた。


「情報は集めることも大事だが、使い方は輪をかけて重要だ。よければ、手本をお見せしようか?」


「て、手本、だと? ……見たい。見せろ」


 食いつくような声だった。さっきまでの苛立ちが、別の興味へすり替わっている。


 俺は、少しだけ身を乗り出した。


「そうだな――例えば」


 一拍、言葉を選ぶように間を置く。


「お前たちは、私たちを黒布で覆った馬車に乗せた。あれは外を見せず、あえて回り道をすることで、この場を特定させまいとする手段、で合っているかな?」


「ヒヒ。さて、さて。どうかな」


「実際、悪くない手だ」


 俺は、あえてそう認めた。


「大抵の相手には、それで十分だろう。景色が消えれば、人は距離を見失う。距離を見失えば、時間の感覚も怪しくなる。何度曲がったか。どちらへ進んだか。どこで速度が落ちたか――すべてが曖昧《あいまい》になっていく」


 ヴィクトルの笑みが、ぬめりと深くなる。己の仕掛けを語られることが、愉快らしい。


「だが、見えないからといって、情報そのものが消えるわけではない」


 俺は、指を一本ずつ折るように、順を追っていく。


「片目市を出た直後は、石畳《いしだたみ》が荒かった。二度目の右折のあと、音が少し湿った――水路沿いの道だ」


 ペン先が、紙に触れる。ヴィクトルが、書き始めていた。


「途中、馬車がわざと速度を落とした。荷車を避けたふりをしていたが、違う。あれは、道幅の狭い場所に入った時の揺れ方だ。右へ寄って、すぐ左へ戻る。水音は、その間ずっと同じ側にあった」


「……当て推量《あてずいりょう》だ。河沿いの道など、い、いくらでもある」


 強がりが、口をついて出る。だが、その語尾は、自分でも頼りなく萎んでいた。


「本当にそう思うか? では、なぜ書く手が止まっている」


 ペン先で膨れたインクが、ぽたりと紙に落ちた。それきり、線には、ならない。


 部屋の空気が、少しずつ変わっていく。


 壁際の男たちの目が、もうミランダの脚を見ていない。俺だけを見ていた。


「潮《しお》の匂いが濃くなった。河の湿り気に、油と濡れた木材の匂いが混じる。荷を降ろす声も聞こえた。市場じゃない。であれば、場所は港湾に絞られる」


 ガロが、低く息を漏らす。マルコは、黙ったまま、奥歯を噛んだ。


「お前たちは、途中で同じ場所を何度も巡った。右、右、左、短い直線、また右。馬車の揺れを散らすには十分だ。だが、同じ石の継ぎ目を二度踏めば、音も二度鳴る」


 ヴィクトルの手は、もう動かない。書けないのだ。


 俺は、その間を逃さない。手本を見せると言った手前、最後まで付き合ってもらおう。


「黒布で隠したつもりでも、道中には多くの情報が転がっていた。音。匂い。揺れ。速度。水の位置。荷役《にやく》の声。車輪が拾った、石の継ぎ目」


 仮面の奥で、声を一段、落とす。


「集めるだけなら、誰にでもできる。問題はそれを、どう繋ぐか――つまり、情報の使い方だ。そこが上手い人間なら、これらの情報でも面白い答えに辿り着ける」


 最後の一語を、わざと区切って置く。


「港湾区、旧第三荷揚げ場。アルネス川沿いの外れ、黒い旧クレーンの残った七番倉庫《ななばんそうこ》」


 長い沈黙が、部屋に落ちる。


 俺は一度、目線を落とし床を指さした。


「それがここ――お前たちが蜘蛛蔵《くもぐら》と呼んだ、巣の在処《ありか》だ」


 壁際の男たちの間に、今度こそ、はっきりとした動揺が走った。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 もっとも――と、俺は胸の内で付け足す。たった今並べてみせた手がかりの、いったいどれだけが本物だったか。


 右に何度、左に何度。同じ角を何周したか。馬車の中で、そんなものを律儀に数えてなどいない。揺れも、水音も、潮の匂いも、確かにあった。だが、それだけで港の一角から倉庫を一つに絞り込めるほど、世の中は親切にできていない。口にした内容の大半は、もっともらしく響くよう後から拵《こしら》えた、ただのハッタリだ。


 当然、真相は別にある。


 答えのほうを、先に知っていたのだ。


 この世界の下敷きになったゲーム。『FATAL FATE』。多くの乱数を含んだあの世界でも、決していじられない領域があった。それは場所――地形だ。開始する度に山が増えたり、町の形が違っていては、そもそもゲーム自体が成り立たない。人の流れや思惑が変わることはあっても、地形や建物、そしてその所有者は大抵の場合、固定されていた。


 蜘蛛蔵も、その一つにすぎない。港湾区の外れに居座る古い倉庫。そこが何と呼ばれ、何のための場所か。とうに頭に入っていた。あの馬車に乗せられるより、ずっと前から。


 むろん、それを口にするわけにはいかない。どこで知った――そう問われて、返せる言葉が、こちらにはない。仮に正直に明かしたところで、信じる者は一人もいないだろう。味方でさえも。


 だから、拾えるものは拾い、足りない分は推理の形に仕立てた。敵にも、味方にも、同じ顔で見せるために。それが、俺に許された唯一の語り口だ。


 ヴィクトルは、まだ何も言わない。白紙のページに落ちた視線だけが、逃げ場を探すように行き来している。


 俺は、その沈黙へ、もう一歩踏み込む。


「手本になったかな?」


 返事は、ない。喉の奥で、いつもの「ヒヒ」が、形にならずに潰れた。だが、答えを待つ気などなかった。


「せっかく、書く内容ができたのだ。書きたまえ――〝仮面の男に、小細工は通じない〟、と」


 俺は、その帳面へ、軽く顎をしゃくってみせる。


 だが、ヴィクトルのペンは動かない。動かせないのだ。壁際の男たちでさえ、初めて落ち着かなげに顔を見合わせていた。あの主が、書けずにいる。その意味を、彼らは知っている。


「お前はさっき、私が何を恐れているか訊いたな。だが逆に、お前自身の恐れるものはよく見えたのではないか?」


 俺は、ヴィクトルの目を、正面から捉えた。


「何も知らない。誰かも分からない。どこにも繋がらない――どう足掻いても書き込めない、ただ一枚の空白。お前はそれが、何より恐ろしい。違うか?」


 ヴィクトルは、しばらく動かなかった。


 やがて、喉の奥から、あの乾いた笑いが、ゆっくりと這い戻ってきた。


「……ヒ、ヒヒ。確かに。確かに、恐ろしいとも」


 折れていたはずの背が、ずるりと持ち上がる。


「だが――恐怖にも、種類があってな。全てが、そんなに回りくどいものばかりじゃない」


 節くれだった指が、杖の先を、俺ではなく、壁の一点へ向けた。


「もっと単純で、直接的なものもある。……外を、見ろ」


 壁際の男が、重い鎧戸《よろいど》に手をかける。錆《さ》びた軋《きし》みを上げて、それが横へ滑った。


 俺は、腰を上げた。ミランダも、音もなく立ち上がる。


 差し込んできたのは、外の光ではなかった。


 人だ。


 倉庫を囲う敷地に、数え切れないほどの人が立っていた。武装した部下だけではない。荷運び、賭場の男、借金を抱えた運び屋、露店の手伝い――見覚えのある片目市の顔が、いくつも混じっている。


 その全員が、静かに、こちらを取り囲んでいた。


 手に握られているのは、剣でも槍でもない。角材、肉切り包丁、薪割りの斧《おの》、底の焦げた鍋――そこらから掻き集めた、ありあわせの得物《えもの》ばかりだった。


 昨日まで荷を担ぎ、店先に立っていたはずの手が、今は思い思いの凶器《きょうき》を提げ、こちらへ向いている。その光景が、かえって背筋を冷やした。


 背後で、ガロが喉の奥で唸った。太い指が、みしりと拳を握る。


 マルコの目が、人垣の端から端へ走る。逃げ道を探す目だ。だが、切れ目は、どこにもなかった。


 ミランダが、囲みをぐるりと見渡した。


「あらら。完全に、囲まれてるわね」


 ヴィクトルは、その軽口を、意にも介さない。


「ヒヒ。分かるか」


 ねばついた愉悦が、声に戻っていた。


「あの者たちは、兵ではない。ただの、町の者だ。パン屋、荷運び、女に貢いで首の回らなくなった小役人……皆、私に一つずつ、借りがある」


 痩せた腕が、外の群れをゆるりと示した。


「一人一人が、私の糸だ。町の隅々まで、細く張り巡らせてある。あとは一斉に手繰《たぐ》り、囁《ささや》くだけでいい。〝あの男を通すな〟――それで、逃げ道は消える。造作《ぞうさ》もないことだ」


 俺は、動かない。隣で、ミランダの気配が、わずかに研ぎ澄まされたのが分かった。


 それを、ヴィクトルは見逃さない。


「ヒヒ。そうだ、そこの女。お前が暴れれば、この部屋の何人かは、確かに死ぬだろうな」


 その目が、今度は俺だけを捉えた。


「だが――たった一人を殺すだけなら、刃も魔法も要らん。この数だ。押し潰せば、それで済む」


 情報では、勝った。それは、揺るがない。


 だが、この男は、負けを認める代わりに――盤面そのものを引っくり返す手を、最初から袖に隠していた。


 仮面の下で、俺は思考だけを回す。焦りは、この状況で最も高くつく毒だ。


 状況は、控えめに言って最悪。だが、詰みではない。まだ、拾える手は残っている――と、自分へ言い聞かせた。


 ヴィクトルが、机を回り込む。猫背の巨躯《きょく》が、ぬっと影を落とした。


 開いたままの帳面を、こちらへ突きつけるように掲げる。


「さあ――書かせろ」


 ペン先が、鈍く光った。


「お前は、何だ」


 俺は、答えない。


 マルコも、ガロも、動けない。ミランダの指先が、袖の内側で止まっている。


 部屋に残ったのは、外を埋めた者たちの、息の音だけだった。

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