42話 『蜘蛛の招待』
翌日。
こちらが指定した刻限に合わせて、旧水門の裏へ回る。湿った石の導線を抜けると、片目市の喧騒が再び耳に戻ってきた。
露店の並びも、客引きの声も、前と同じに見える。ただ、市に満ちる視線だけが、いくらか湿り気を増していた。どの目も、正面からは見てこない。それでいて、肌に貼りつくように、こちらの足取りを追ってくる。
俺の隣にはミランダ。少し後ろに、マルコとガロ。面子は昨日と何も変わらない。
変わったのは、こちらの腹積もりのほうだ。
昨夜のうちに、段取りは組んである。誰が何を担うか。どの拍子で動くか。最悪の場合、何を捨て、何を守り抜くか。
全ての仕掛けは、もう、こちらの手を離れて動き出している。
市の入口が見えてくる手前で、俺はマルコへ、低く問うた。
「例のモノは?」
「ああ」
マルコの返事は短い。
「手配済みだ」
それだけ。何を、どこで、どうしたのか――この場で口にするものは、一つもない。
雑踏の喧騒に紛れて、そのやり取りは、誰の耳にも残らずに消えた。
代わりに、後ろからガロの濁った声が追いついてくる。
「……なあ、旦那」
拳の節が、こきりと鳴った。
「本当に来るのかよ、蜘蛛の野郎は」
昨日、俺は刃の先に伝言を乗せて、糸の主へ投げ込んだ。だが、向こうが這い出してくる保証など、どこにもない。
俺は、片目市のほうへ目を向けたまま答えた。
「来るさ」
「ずいぶん簡単に言うじゃねぇか」
「簡単な話だからな。考えてもみろ。恐怖でこの市を縛ってる連中が、新参者に正面から喧嘩を売られたんだ。それを聞き流して、巣の奥で黙り込んでいたら、どうなると思う?」
ガロは答えない。
俺は、続けた。
「蜘蛛は、この市の隅々にまで目を光らせている。だからこそ、連中の噂が回るのも早い。――黒仮面の一行を恐れて、手を出せなかった。蜘蛛の糸は、たかが四人にすら届かなかった」
言葉を、一度置く。
「そんな話が市に転がってみろ。あの連中が長い時をかけて積み上げてきた恐怖は、根元から緩むことになる」
「……そういうもんか」
ガロは、ふん、と鼻を鳴らした。おそらく理屈の半分も腑に落ちてはいまい。
俺は、心の裏で、もう一つの確信を重ねる。
ヴィクトル・ゼイル。奴がもし、俺の知る通りの男なら――この状況下で、動かないはずがない。動かずには、いられない。
市の入口は、もう目の前だった。
露店の隙間を抜ける風に、油と湿った木材の匂いが混じる。昨日と同じ喧騒のはずなのに、こちらの足音だけが、妙に浮いて聞こえた。
四人のあいだに、短い沈黙が落ちる。
「……ああ、ちきしょう」
後ろで、ガロが辛抱たまらず吐き捨てた。
「わかっちゃいる。わかっちゃいるんだがよ。こういうのは、どうにも性に合わねぇぜ」
大きな手が、乱暴に頭を掻きむしる。短い髪が、指の間でぐしゃりと乱れた。
「わざわざ喰われに飛び出していくみてぇでよぉ」
その一言に、マルコも黙ったまま目を細めた。
無理もない。
俺には、蜘蛛が動く理由が見えている。どう誘えば巣の奥から顔を出すかも、おおよその筋は立ててある。
だが、他の者から見れば、これからやることは自殺行為そのものに映るだろう。
人数もわからない。建物の構造もわからない。手の内もわからない。そんな相手の中枢へ――見えている罠へ、自分から踏み込もうというのだ。
いくら段取りがあるとはいえ、正気の沙汰とは思えないはずだ。
マルコが、低く言った。
「大将が行くと決めたなら、俺は付き合う」
そこで、一度、言葉を切る。
「……だが、ガロの言うことも正直わかる。こいつは、気分のいい話じゃねぇな」
ガロは、喉の奥で低く唸った。納得とも、不満ともつかない響きだ。
「向こうが、まともに話をする気ならいいさ」
その声が、ふいに低く据わる。
「だが、最初から潰すつもりで呼んでるんなら、どうすんだよ」
俺は、すぐには答えなかった。
答えを探しているあいだに、ガロのほうが先に、いちばん面倒な役を拾い上げていた。
「……まあ、その時ゃ、俺が暴れるだけか」
ぼりぼりと、首の後ろを掻く。
「お前らが逃げる隙くらいは、作ってやるよ」
威勢でも、芝居でもない。最悪の目が出たときは、自分が場を壊してでも、残りを逃がす。その算段を、ガロはこともなげに口にした。
「……それで足りりゃ、御の字だがな」
俺は、二人の不安を笑わなかった。
「その必要がないように、手は打ってある」
前を向いたまま、続ける。
「だが――いざとなったら、頼む」
マルコとガロが、それぞれ短く頷く気配がした。
と、それまで黙っていたミランダが、ふっと息を漏らす。
「ま、なるようになるわよ」
唇の端だけで、笑う。
怖がっているのか、面白がっているのか。どこまで肚を決めているのか。――この女の内側だけは、いつも、こちらからは読めない。
四人で、片目市へ足を踏み入れた。
片目市は、昨日と同じ顔でそこにあった。
露店は開いている。客も歩いている。荷を担いだ男たちが、狭い通りを肩で押し分けるように進んでいく。油の匂い、魚の腐りかけた臭い、安酒の甘さ、古い木材の湿り気。どれも昨日と変わらない。
変わらないからこそ、違いが目についた。
俺たちが進む先だけ、人の流れがわずかに割れる。
露骨に道を空ける者はいない。声を上げる者もいない。売り声は続き、値切りの声も飛び、荷車の車輪は軋んでいる。
だが、足元の水が障害物を避けて流れるように、人の肩と肩の隙間が、俺たちの前にだけ生まれていく。
誰も、こちらを見ていないふりをしていた。
そして、誰もが見ていた。
黒仮面。ミランダ。マルコ。ガロ。
その四つの影が、昨日と同じように戻ってきたことを、この市そのものが確かめている。
「人気者じゃねぇか、旦那」
ガロが、低くぼやいた。
「嬉しくはないがな」
「そりゃそうだ」
マルコは何も言わない。だが、その目は通りの左右を拾っている。誰が顔を背けたか。誰が動きを止めたか。どの店の奥で、誰の影が引いたか。
ミランダは、少しだけ首を傾けた。
「あら」
軽い声だった。
「迎えが来たみたいよ」
通りの先に、数人の男が立っていた。
荷運びにも、用心棒にも見える格好だ。ただ、近づく者が一人もいない。その空白だけが、男たちの素性を語っていた。
先頭の一人が、口を開く。
「蜘蛛がお待ちです」
その一言で、通りの音が少しだけ遠のいた。
誰も足を止めない。だが、耳だけがこちらへ寄っている。
俺は余計な確認をしなかった。
「いいだろう。案内しろ」
男は、ほんのわずかに顎を引く。それから踵を返し、市の外れへ向けて歩き出した。
ガロが、男たちの腰のあたりへ視線を走らせる。マルコは、使者の言葉の隅を聞き分けようとしている。ミランダは、場の温度を、指先で測るように拾っていた。
その彼女が、横から、囁くともなく漏らす。
「今すぐ噛みつこうって気配じゃないわね」
俺も、前を見たまま返した。
「どうやら招待客らしい」
一拍おいて、付け足す。
「今のところは、な」
使者の背について、市の外れへ歩く。
露店の灯りも、人いきれも、一歩ごとに薄れていった。代わりに、潮の匂いと、濡れた縄の臭いが濃くなる。賑わいの裏側へ、少しずつ押し出されていく感覚があった。
路地が尽きたところに、それは待っていた。
黒塗りの、大きな馬車だ。
荷馬車ではない。人を乗せるための、きちんとした造りの箱馬車だ。車体は古びているが、手入れはされている。車輪の鉄輪も、扉の金具も、無駄に軋むような安物ではない。
ただし、窓はすべて、厚い黒布で覆われていた。
外から中を見せないためではない。
中から外を見せないためだ。
ガロが、馬車を見上げて顔をしかめる。
「ずいぶん手の込んだ招待だな」
ミランダは、黒布の張られた窓へ目をやった。
「景色を楽しませる気は、ないみたい」
俺も、その布の黒さを眺めて答える。
「さながら、質の良い目隠し、といったところか。まぁ、麻袋を被れと言われないだけ、客への配慮があると思っておこう」
「ふふ、それもそうね」
御者台には、すでに一人が腰を据えていた。手綱を握ったまま、こちらを振り返りもしない。先導してきた使者が、馬車の扉を開け、無言で中を示す。
まず俺が乗り、続いてミランダ、マルコ、ガロが乗り込む。四人が座ると、車内はそれだけで少し狭くなった。
外と中を隔てるように、扉が閉ざされた。御者の影が、黒布の向こうで、ゆらりと動く。
車内は薄暗く、外の景色はどこにも無い。
ひと呼吸の間を置いて、馬車が、ゆっくりと動き出した。
車輪が、石畳を噛む。
ごとり、と一つ大きく揺れて、馬車は片目市の外れを離れた。
黒布の向こうに、外の景色はない。ただ、音だけが残っている。車輪の軋み。馬の蹄が石を叩く音。遠ざかっていく人声。荷を積む男たちの掛け声。水の匂いを含んだ風が、布の隙間からかすかに入り込んでくる。
誰も、すぐには口を開かなかった。
御者は外にいる。
こちらの声が、どこまで届くかは分からない。馬車の軋みと蹄の音があるとはいえ、油断していい理由にはならない。
俺は、背もたれへ身体を預けたまま、耳だけを外へ向けていた。
体にかかる小さな重心の変化で、馬車の曲がる先を読む。
右へ曲がる。
石畳が少し荒れる。
速度が落ちる。
短い直線。
また、右。
馬車の揺れ方が変わるたびに、音の質もわずかに変わった。遠くに水音が混じる。どこかで荷を下ろす鈍い音がする。人声は近づき、すぐに遠ざかる。
マルコが、低く呟いた。
「……遠回りしてやがるな」
ガロが顔をしかめる。
「何のためにだよ」
マルコは答えない。
答えられないのではない。ここで口にする意味がないと判断したのだろう。ガロもそれ以上は声を張らなかった。
その代わり、ミランダが、身を寄せてくる。
香の残り香が、近づいた。
「この馬車」
耳元へ、声が落ちる。
「何度も同じところを回ってるわよ」
俺は、外へ向けていた意識を戻さないまま、短く返した。
「だろうな」
それ以上は言わない。
何度曲がったか。どれだけ進んだか。どこで速度が落ちたか。水音がどちらから聞こえたか。
そうした情報も、積み重なればいずれ霞んでいく。
遠回りを重ね、同じ場所を回り、行き先を隠す。車内に閉じ込められた者は、時間が伸びるほどに、自分がどこへ運ばれているのか分からなくなる。
不安は増す。恐怖も増す。
いい演出だ。
実際、有効だったに違いない。
今までは。
馬車は、なおも黒い布の中を進んでいく。
俺たちは、景色のない箱の中で、蜘蛛の巣の奥へ運ばれていった。
揺られ続けて、どれほど経った頃か。
車輪の回転が、ゆるゆると鈍くなる。最後に一度、大きく揺れて――馬車は、止まった。
蹄の音が消える。掛け声も、車輪の軋みも、もうない。
外で、誰かが歩く。扉の留め金が外される、硬い音。
使者の手が、窓を塞いでいた黒布を、無造作に巻き上げた。
とたんに、光と匂いが、まとめて流れ込んでくる。
潮の匂い。河の水の、生ぬるい湿り気。油と、濡れた木材。どこかで荷をずらす重い音と、それを掛け合う男たちの声。
港湾の、外れの一角だった。
高い石壁が、ぐるりと土地を囲い込んでいる。その内側は、ずいぶんと広く取られていた。積み上げられた資材。野晒しの木箱。荷を待つ空の荷車。それらが、地面のあちこちに散らしてある。
そして、その広い敷地の真ん中に――ただ一棟だけ。
石と古びた木材を組み上げた、巨大な倉庫が、空を背にして屹立していた。河へ突き出した桟橋。壁際にそびえる、黒ずんだ木組みの古いクレーン。鉄の鉤と鎖だけが、鈍く光っている。その下から屋上へ、木の外階段が、外壁を伝って折り返しながら延びていた。段板のところどころが、ささくれて黒ずんでいる。周りに建物はなく、ただその一棟だけが、囲いの中に居座っている。
俺たちが降ろされたのは、その大倉庫の、真正面だった。
看板はない。「蜘蛛」の名も、紋も、どこにも出ていない。どこの港にもある、ありふれた古い倉庫。外から見ただけでは、ここが何の場所なのか、誰にも分からない。
分からないように、してある。
使者が、先に立った。倉庫の、重い引き戸へ手をかける。
そして、初めて、その名を口にした。
「ようこそ。ここが――蜘蛛蔵です」
その声を合図に、使者が引き戸を横へ滑らせた。
軋みひとつ立てず、重い戸が開く。外の光が、内側の薄暗がりに吸い込まれて、途中で力尽きた。
俺たちは、その暗がりへ足を踏み入れる。
外はありふれた港の倉庫だった。だが一歩入れば、そこはもう別の臓腑だ。
天井は高い。梁の上にまで荷が積まれ、薄い光が埃の粒を縦に切っている。広い土間に、木箱の山。荷札を剥がされた箱。別の名を貼り直された箱。帳面を抱えた男が、それを一つひとつ検めていく。
荷が動いている。人も動いている。盗まれた品が、ここで真っ当な荷に化け、また別のどこかへ流れていく――その手順だけが、淡々と回っていた。
柱にもたれた見張り。帳付けの手を止めた男。荷を担いだ運び手。その誰もが、すれ違いざまに横目を寄こしてきた。こちらの身なりを、爪先から喉元まで、舐めるように値踏みしていく。
その目つきには、隠す気もない色があった。
嘲りだ。
世間知らずが、また一組、自分から糸に絡まりに来た――そう言いたげな、粘ついた目。新しい獲物を前にした、舌なめずりの色が、薄暗がりのあちこちから寄ってくる。
ガロの喉が、低く鳴る。だが、それだけだ。手は出さない。
マルコは、荷の流れを目で追っていた。どの箱が、どこから来て、どこへ抜けるのか。男の関心は、嘲る連中ではなく、その後ろで回り続ける仕組みのほうにある。
ミランダは、相変わらず軽く首を傾けたまま、その嘲りを一つひとつ選り分けていた。どれがただの値踏みで、どれに本物の牙が隠れているか。
俺は、何も拾わない顔で、まっすぐ進む。
使者が、奥の階段を示した。
「二階へ。お頭が、お待ちです」
軋む木の段を、一段ずつ上がる。
二階は、酒と、汗と、銭の匂いに変わった。
卓を囲む男たち。投げられる札。積まれては崩される銭。借りに首までつかった顔。流れ着いて、ここにしか居場所のなくなった目。賭場だ。
負けて、借りて、また負ける。卓に置かれた銭は、そのうち残らず、胴元の側へ吸われていく。失った銭は借りに変わり、その借りが、客をこの場所へ縛りつける。
逃げ道に、糸が一本ずつ巻きついていくように。気づいた頃には、もう、どこへも行けなくなっているのだろう。
生かさず殺さず、巣の中で子蜘蛛として飼い慣らす。こいつらの組織が拡大していった理由の一端が、ここにある。
その賭場の喧噪の中を、俺たちは、奥へと進んでいった。
進むほどに、賭場の喧噪が、背中で痩せていく。
札を打つ音も、銭を掻き寄せる音も、酔った笑いも、一歩ごとに遠ざかる。熱気が薄れ、代わりに、古い木と、かすかな黴の匂いが立ち込めてきた。
賭場の喧噪は、まだ続いている。なのに、この一角だけが、別の建物のように静かだった。
突き当たりに、扉があった。
ほかの戸とは、造りが違う。厚く、重く、継ぎ目に隙間がない。蔵の中の喧噪を、ここでぴたりと断ち切るための扉だった。
使者が、その前で足を止める。
俺たちも、止まった。
扉の向こうから、音が漏れてくる。
紙を、めくる音。
一枚。
間を置いて、また一枚。
ほかには、何もない。声も、足音も、椅子の軋みもない。ただ、紙だけが、ゆっくりと繰られている。
誰かが、この厚い扉の向こうで、急ぐでもなく頁をめくりながら――俺たちが運ばれてくるのを、ずっと待っていた。
使者が、扉を、二度叩いた。
「お連れしました」
紙の音が、止まる。
しんとした間が、扉一枚を挟んで、こちらの呼吸まで吸い取っていく。
マルコの肩が、わずかに張った。ガロが、無言で拳を握り込む。ミランダは、いつもの薄い笑みのまま、ほんの少しだけ顎を引いた。
俺は、仮面の下で、息を一つ、底まで落とす。
使者の手が、扉の取っ手へ伸びる。
その重い一枚が、ゆっくりと、内側へ開きはじめた。




