41話 『片目をつぶれ』
ドム爺の片目が、ガロの握り込んだ拳へ動いた。
「……お前の雇い主だった運び屋もな、ガロ。そのうちの一つよ。蜘蛛に食われた口じゃ」
ガロは、答えない。だが、その喉が、低く鳴った。
「覚えとるぞ。お前が暴れた時のことはな」
ドム爺の声に、咎める色が混じる。
「お前が無茶をやらかしたせいで、市はひっくり返った。衛兵まで踏み込んできて――死なずに済んだ奴まで、何人も死んだ」
ガロの眉が、跳ねた。何か言い返そうと、口が開く。
だが、声にはならなかった。
蜘蛛と呼ばれるゼイル一家が、ガロの拠り所を食い潰したこと。そして、逆上したガロのやり方が、片目市の不文律を踏みにじったこと。
どちらも、まぎれもない事実だった。
ガロは、舌打ちを一つ落とし、顔を背ける。
ドム爺は、その横顔を、しばらく見ていた。
「……勘違いするな」
声が、少しだけ和らぐ。
「ワシは、お前を責めとるんじゃない」
一つきりの目が、店の外――市のほうへと流れた。
「お前みたいな男から、仕事も居場所も奪っていった蜘蛛どもを、責めとるんじゃ」
ガロは、何も言わなかった。
ガロの拳が固いまま、卓に沈黙が落ちる。
その沈黙を引き取るように、俺は口を開いた。
「お話は、よく分かりました」
ドム爺の片目が、こちらへ戻る。
「今回は、ご挨拶だけのつもりでしたが――良い機会だ。こちらの用件も、手短に申し上げておきましょう」
俺は、卓の上で指を組んだ。
「今後、我らシンジケートは、この片目市で、ささやかな商いを営む予定でしてね」
ドム爺の眉が、ぴくりと動く。
「しんじけーと……?」
聞き慣れぬ言葉を、舌の上で転がすように呟いた。
「それがお主の名か? 聞いたことのない響きじゃのう」
「私の、ではありません」
俺は、軽く首を振る。
「ここにいる者も含めた、組織の名ですよ。代表者は、この私ですが」
ドム爺は、しばらく俺を眺めてから、低く問うた。
「……商い、と言うたな。何を扱う気じゃ」
「出どころを詮索されたくない品を、いくつか店先に並べる。それだけのことです」
俺は、一度言葉を切ってから、付け足した。
「あとは、そうですね。独自の密輸ルートを開拓してありますので、運び屋の真似事もすることになるでしょう」
その一言に、ドム爺の片目が、剣呑に光った。
「運び屋じゃと……? 貴様、ワシの話を聞いとらんかったのか」
「もちろん、聞いていましたとも」
俺が淡々と返すと、ドム爺の声に、苛立ちが滲んだ。
「ならば分かるじゃろう。あの蜘蛛どもが、真っ先に食いつく獲物が何かくらいは、な」
「ええ」
俺は、それを短く認めた。
「一度。その蜘蛛とやらにも、話を通す必要があるようだ」
「話を通す、じゃと――!?」
ドム爺が、卓へ身を乗り出した。
「バカを言うな! あいつらは、そんな甘い連中じゃないわい! 生業が被るとなれば、どんな手を使ってでも貴様らを喰いにくるぞ」
酒場の隅にいる男たちが、息を潜める。
「今、この瞬間にでもな」
「ふむ」
俺は、わずかに首を傾げた。
「……それで?」
ドム爺の顔が、強張った。
「……それで、じゃと?」
「ええ」
「貴様、もしかして阿呆の類か」
吐き捨てるように言ってから、ドム爺はマルコを見た。
その目にあるのは、怒りだけではない。
「わざわざ死ぬと分かっとるものを、ワシが許すわけがなかろう!」
節くれだった手が、卓を叩く。
「今日のことは、聞かなんだことにしてやる。マルコを連れて、大人しく帰れ」
酒場に、重い沈黙が落ちる。
俺は、その言葉を一度だけ噛み砕いた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「ドムトル翁は、何か勘違いをなさっているようだ」
ドム爺の動きが、止まる。
「断っておきますが――私は、許しを乞いに来たわけではありません」
俺は、組んでいた指を、ほどいた。
「偉大なる海賊。そして、片目市の顔役でもあるあなたに、最低限の義理を通しに来たのです」
卓越しに、黒仮面の奥から、ドム爺の片目を見据える。
「我々は、誰の許しがなくとも、この市で動きます」
酒場のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ。
「その折には――ドム殿。あなたがこの市に課してきたのと、同じ作法で。我々の振る舞いにも、どうか、片目をつぶっていただきたい」
俺は、そこで言葉を切った。
「私の要求は、それだけです」
ドム爺は、しばらく、声もなかった。
やがて、絞り出すように言う。
「……ふざけるな。貴様、あの蜘蛛と、戦争でもおっぱじめる気か」
「成り行き次第では、それもあり得るでしょう」
俺は、躊躇なく答えた。
「ですが――我々は、蜘蛛などという下衆な組織とは、違う」
マルコも、ガロも、ミランダも黙って聞いている。
ここで口にするものは、ただの啖呵ではない。
これから俺たちが守るべき矜持だ。
「なので、一つだけ。ここでお約束しましょう」
俺は、この場に集った全員に向けて、告げた。
「我々は、弱者を食い物にするような真似は絶対にしない、と」
黒仮面の下のその言葉に、ドム爺は、すぐには応じなかった。
得体の知れない男が、どこまで本気でものを言っているのか。その一つきりの目が、俺を測っている。
やがて、唸るように言った。
「……止めても、無駄なようじゃな」
「ええ」
俺は、それを短く認めた。
「ご理解いただけたようで、何よりです」
「本気でヴィクトル・ゼイルに会うつもりなら、覚えておけ。あれは、ただの商売人ではない」
声が、重みを増す。
「人の弱みを帳面に書き込んで、逃げ道にまで値札をつける化け物じゃ。会えば最後、お主らの素性も、仲間も、狙いも――根こそぎ、あの男の糸に絡め取られることになるぞ」
それでも、俺は退かなかった。
「承知の上です。どの道避けて通れる相手では、ありませんのでね」
ドム爺は、それきり、何も言わなかった。
止めもせず、追い出しもせず。ただ、空になった杯へ、手酌で酒を満たす。
それが、この老いた海賊にできる、精一杯だった。
「さて。――用件は、これで済みました」
俺は、椅子から立ち上がる。
「貴重なお時間を割いていただき、感謝いたします。我々は、これでお暇するとしましょう」
黒仮面のまま、俺はドム爺へ、軽く一礼した。
「またいずれ、ドム殿。次は、もう少し穏やかな席で――と、願っておきましょう」
半壊した店内を見渡したその言葉に、ドム爺は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
マルコ、ミランダ、ガロ、ピピムが、それに続く。
俺たちが扉へ手をかけたところで――背後から、ドム爺の声が追ってきた。
「マルコ」
マルコの足が、止まる。
ドム爺は、こちらを見ていなかった。手の中の杯へ、目を落としたままだ。
「……ワシは、止めたぞ。確かに、止めた」
声が、低く掠れる。
「お前は、手配書に書いてあるような男じゃない。この市の人間は、みな、それを知っとる。……達者で、やれ」
マルコは、振り返らなかった。
「ああ。心配すんな、ドム爺」
その背は、迷っていなかった。
「俺はもう、市の隅で鼻水垂らしてた、はなたれのガキじゃねぇ」
そう言い残して、マルコは扉を押した。
扉を抜けると、片目市の喧騒が、再び俺たちを包んだ。
俺たちの後ろを、ピピムが落ち着かない足取りでついてくる。半壊した酒場をちらちらと振り返っては、何か言いたげに口を開きかけ、また閉じる。そうして、しばらく歩いたところで――たまりかねたように、ようやく声を絞り出した。
「……で、あんたら。これから、どうするつもりだ」
その声は、上ずっている。
「まさか、本気で蜘蛛のところに乗り込もうってんじゃ……ないよな? ハッタリだろ。なあ。……ハッタリ、だよな?」
「本気だと言ったら、どうする」
俺がそう返すと、ピピムの顔から、血の気が引いた。
「オ、オイラは付き合えねぇぞ!」
両手を、ぶんぶんと振る。
「案内なんて頼まれたって、そもそも蜘蛛の巣がどこにあるかも知らねぇんだ! あいつらとやり合おうってんなら……悪いが、ここで抜けさせてもらうぜ!」
俺は、小さく笑った。
「そうだな。お前を巻き込むつもりは、毛頭ない」
魔法の鞄へ手を入れ、コインを一枚、抜き出す。
「ここまでの案内、ご苦労だった」
放ると、ピピムは慌てて両手でそれを掴み取った。手の中の硬貨を見て、目を丸くする。
「ほ、本気かよ……」
それでも、銭はしっかりと懐へ収めるあたり、こいつらしい。
「どうなっても、知らねぇぞ」
そう言い残して、ピピムは、とぼとぼと雑踏の中へ消えていく。
その背へ、マルコが声を投げた。
「ピピム。世話になったな」
「ケッ。世話だなんて、柄じゃねぇだろ。"出戻りマルコ"がよ」
ピピムは、振り返りもせず、片手だけを軽く上げた。
「……くたばるんじゃねぇぞ」
それきり、小さな背中は、人混みに紛れて見えなくなった。
「さて」
俺は、残った三人を促した。
「では、我々も帰るとするか」
「……は?」
ガロが、間の抜けた声を出した。
「なんだよ、旦那。乗り込むって話じゃねぇのか」
「乗り込むさ」
俺は、歩き出しながら答える。
「だが、相手は情報を武器に、強請ってくるような連中だ。何の支度もなく今すぐ、というわけにもいかんだろう。だから今日は――予約だけ、取り付けておく」
「予約ぅ?」
ガロが、ますます眉を寄せた。
「何言ってんだ、旦那。相手の居場所もわからねぇのに、どうやって約束なんざ取り付けるってんだよ」
「ドムトル翁の話の中に、答えはあっただろう」
ガロは、しばらく考え込み――やがて、降参したように頭を掻いた。
「……爺さん、何か言ってたか? ますますわけがわからねぇ。結局、どうすんだよ、旦那」
「言っただろう」
俺は、前を向いたまま答えた。
「帰るんだよ」
その一言に、マルコとミランダは、すぐに察したようだった。
ガロだけが、一人、首をひねっている。
雑踏を抜け、人気の少ない、細い路地へ折れる。
壁が左右から迫り、市の喧騒が、少しだけ遠ざかった。
俺は、前を向いたまま、隣のミランダへ問う。
「何人、来てる」
「男が、三人ね」
ミランダの声も、足取りも、崩れない。
「すぐ後ろに、二人。そのさらに後方に、もう一人。……たぶん、そっちが本命」
「わかった」
俺は、路地の先――次の曲がり角へ、目をやった。
「次の角を曲がったら、仕掛ける」
マルコの手が、腰の得物へ滑る。ミランダは、答える代わりに、薄く笑った。
角を、曲がる。
そして、俺たちは、ぴたりと足を止めた。
遅れて角を折れてきた二つの影が、つんのめるように立ちすくむ。
次の瞬間だった。
マルコとガロが、左右から踏み込んだ。荷運びの形をした男たちの襟を掴み、路地の壁へと叩きつける。
俺は、その一人の喉元へ、鞄から抜いた細身の刃を添えた。
「尾行を許すつもりは、ない」
刃の冷たさに、男の喉が、引きつる。
「話があるなら、こそこそ嗅ぎ回らず、直接来い。――明日、同じ時刻。我々は、もう一度この市に顔を出す」
男は、声も出せずにいる。
「会う気があるなら、用意しておけ。その気がないなら、それでいい。我々は、誰の許しも待たず、勝手にこの闇市に介入する」
俺は、刃をそのままに、低く告げた。
「――そう、お前の主に伝えろ」
それから、俺は顔を上げ、路地の入り口へ――まだ姿を見せずにいる、最後の一人へ向けて、声を張った。
「聞こえたな。そこの角に隠れている男」
暗がりで、何かが、びくりと跳ねる気配がした。
「警告は、した。次は――警告ではない。その目で見聞きしたものは、その命で贖ってもらうぞ」
刃を、引く。
壁から解き放たれた二人は、もつれ合うように逃げ出し、暗がりの一人も、それに続いた。三つの影は、瞬く間に雑踏へと溶けて、消える。
ガロが、つまらなそうに舌打ちを一つ。
俺は、刃を鞄へ戻した。
「行くぞ。今日のところは、これで十分だ」
俺たちは、来た道を引き返す。旧水門の裏、あの隠し扉の方へと。
石は、投げ込んだ。
あとは――糸の主が、どう這い出してくるか。
それを、待つだけだ。




