40話 『片目のドム』
ピピムが、軋む扉を押した。
むっと、熱気が押し寄せてくる。酒と、汗の匂い。日の光が届かぬ地下にありながら、店の中は妙に明るく、そして、騒がしかった。
潮に灼けた古い船乗り。荷運びで身を持ち崩した男。腕に古傷を刻んだ、元用心棒らしき大男。片目市に長く根を張った悪漢どもが、卓を囲み、日の高いうちから遠慮なく杯をあおっている。
俺たちが足を踏み入れると、潮が引くように、店の声が低くなった。黒仮面へ、いくつもの目が集まる。値踏みの目だ。だが、それも長くは続かない。すぐにまた喧騒が戻った。この店では、得体の知れぬ客の一人や二人、騒ぎのうちにも入らないらしい。
その奥に、ぽっかりと空いた一角があった。
卓がひしめき、人があふれているというのに、そこだけが避けられている。誰一人、不用意には近づかない。
一人の男が、杯を傾けていた。
白髪を後ろへ撫でつけ、片目に黒い眼帯。残る一つの目は、酒に濁ってなどいない。皺こそ深いが、肩は厚く、卓に投げ出した腕は、そこらの若い荷運びよりもなお太い。眼帯も相まって、海を渡り歩く現役の海賊が一人、骨を休めに寄っているとしか見えなかった。
ピピムが、声を落とした。
「……ドム爺」
その目が、こちらへ向く。澱みのない、一つきりの目が、まずマルコを捉えた。
「……フン」
ドム爺は、鼻を鳴らした。
「やはり、生きとったか」
驚きはない。手配書を見ているなら、マルコが牢を破ったことくらいは、とうに耳に入っているはずだ。これは、その男がいま、目の前に立っているという、ただの確認だった。
「そっちも元気そうだな、ドム爺」
マルコの声は、短く、低い。だが、市の店主に向けていたものとは、どこか質が違った。
再会は、それきりだった。
ドム爺の一つきりの目が、マルコから外れ――その後ろへ流れ、そして、止まった。
ミランダの上で。
会話の続きも、その瞬間にきれいさっぱり吹き飛んだ。
「……なんじゃ、その女はっ!?」
ドム爺が、卓を叩いて身を乗り出す。八十を越えた老体とは、到底思えぬ勢いだった。
「美しすぎじゃろうがっ!」
火が点いたのは、ドム爺だけではなかった。
それまで黒仮面など気にも留めていなかった悪漢どもが、一斉にこちらへ――いや、ミランダへと、顔を向けた。口笛が鳴る。下卑た笑いが上がる。ねっとりと値踏みする目が、いくつも這う。
マルコとドム爺の再会など、もはや、この店の誰一人として聞いてはいなかった。
火に油を注がれた悪漢どもが、卓を立ちかけた、その時だった。
「おい、ドム爺。それと、てめぇらも」
マルコが、低く割って入る。
その声に、ドム爺が片眉を上げた。
「悪いこたぁ言わねぇ。その人に近づくのはやめとけ」
「……なんじゃ、マルコ」
ドム爺は、面白くなさそうに杯を置いた。
「ワシが女を口説くのに、お前の許しがいるようになったのか?」
「許しじゃねぇ。忠告だ」
マルコの目が、酒場の男たちを一度だけなぞる。
「見た目で判断するな。この人は、てめぇらでどうこうできるタマじゃねぇ」
その言葉に、一瞬だけ、店の空気が引き締まった。
だが、すぐに誰かが吹き出す。
「プッ、なんだよ。マルコの野郎、女一人にビビってんのか?」
「そんな細っこい姉ちゃんが、何をどうまずいんだよ」
「別嬪さんに近づくなってんなら、なおさら無理な相談だよなぁ」
笑いが広がる。
ドム爺も、愉快そうに片目を細めた。
「ワシを誰だと思っとる。海の上で四十年、この市でさらに四十年。時代の荒波を生き残ってきた男じゃぞ」
「八十年も生き残ってんなら、そろそろ引き際くらい覚えてくれ」
「生意気を言うようになったのう。昔は市の隅で鼻水を垂らしとったくせに」
「……何十年前の話してんだよ」
酒場のあちこちで、また笑いが起こる。
マルコは、何も返さなかった。
ただ、短く息を吐く。
これ以上言っても無駄だと、見切った顔だった。
その喧騒のただ中で、ミランダだけが、面倒そうに肩を落とした。
「……あんたたち、ちょっと店の外に出てなさい」
俺たちへ振り向きもせず、ミランダはそう言った。
悪漢どもは、それを都合よく受け取ったらしい。
「なんじゃ、別嬪さん。儂らの相手をしてくれるんか」
「待たせるなよ」
「一人ずつなら、順番くらい守ってやるぜ」
下品な野次が、あちこちから飛ぶ。
ミランダは、冷ややかに笑った。
「すぐに済むわ」
俺には、その意味が分かった。
「出るぞ」
マルコが、露骨に嫌な顔をする。ガロは、半分だけ面白がっている。
その横で、ピピムだけが顔を青くしていた。
「えっ。えっ、ちょっと待ってくれよ。オイラ、ここで紹介料を――いや、そうじゃなくて。店、壊す気か?」
「壊すかどうかは、中の連中次第だ」
「それが一番怖ぇんだって!」
俺たち四人は、ぞろぞろと店を出た。ミランダ一人を、残して。
扉を閉める間際、俺は店の中へ、一言だけ放った。
「殺すなよ」
「はいはい」
扉が、閉まった。
直後だった。
扉一枚を隔てた向こうから、まず、鈍い衝撃音がした。何か――いや、誰かが、壁へ叩きつけられた音だ。
ピピムが、跳ね上がった。
続いて、卓の倒れる音。椅子の砕ける音。酒樽が、ごとごとと床を転がっていく。
マルコは、目を閉じていた。何も聞こえていないと、決め込むように。
怒声が上がり――それが、途中から悲鳴へ変わる。
ガロが、指を折り始めた。何人目かを、数えているらしい。
そして、ひときわ重いものが、どさりと床へ落ちた。
それきり、店の中は、静かになった。
しばらくして、扉が開く。
ミランダが、傷一つない姿で、扉に身を預けていた。乱れているのは、頬にかかった前髪が一筋――それきりだ。
「いいわよ」
中へ入ると、酒場の全員が倒れていた。
悪漢どもは壁際に、床に転がり、卓も椅子も砕け、こぼれた酒が床いっぱいに広がっている。
そして、その中に――ドム爺もまた、例外なく転がっていた。
「な……何者じゃ、あの娘ぇ……」
床から、ドム爺が呻く。
マルコが、頭を抱えた。
「だから言っただろ。この人は、見た目で判断するなって」
ミランダは、当然のように俺の隣へ戻ってくる。
「そっちが絡んできたんでしょう」
誰も、言い返せなかった。
ピピムが、おそるおそる店内を見回す。
「……オイラ、今日は紹介料を請求しない方がいい気がしてきた」
どうやらこいつは、勝手に案内役を買って出たくせに、しっかり金を取るつもりだったらしい。
その図太さには、少しだけ感心した。
倒れたまま呻いていたドム爺が、やがて大きく息を吐き、ゆっくりと身を起こす。
その動きに衰えはなかった。
脇腹を押さえてはいるが、立ち上がる腕は太く、肩も落ちていない。横倒しになった椅子を片手で起こし、そのままどかりと腰を下ろす。
「……片目市の酒場で、女一人にひっくり返されるとはのう」
ぼやきながらも、声に怯えはなかった。
残る片目が、店内を見渡す。
「お前らも、いつまで寝とる。動ける奴から片づけろ。床の酒を踏んで転ぶような馬鹿は、外へ捨ててこい」
倒れていた男たちが、ぴくりと身じろぎした。
誰も文句は言わない。
頭を押さえながら起き上がる者。壊れた椅子を拾う者。酒で濡れた床を、ぼろ布で拭き始める者。
ようやく、話のできる空気になった。
ドム爺へ、マルコが呆れた声を向ける。
「いい年して、女の尻ばっか追いかけてんじゃねぇよ。みっともねぇぞ」
「うるさいわい! ガキは黙っとれ」
ドム爺は、痛む肩をさすりながら、不機嫌に杯を呷ろうとして――その手を止めた。残った片目を、すがめる。
「……むぅ。体の節々は痛むし、おまけに、お前の連れの一人が霞んで見えよる」
その目が、初めて、まっすぐ俺を捉えた。
「ワシも、いよいよ老眼かのぉ」
俺は、ことさら丁寧に応じた。
「ご安心を。それは、この仮面が持つ力のせいです。ご老体の目は、いたって正常ですよ」
そして、相手がまだ何も言わぬうちに、続けた。
「――ドムトル・ガイス翁。旧水門裏に居を構える、片目市の顔役。かつては海の上で、ずいぶんと名を馳せられたとか。かの有名な、“単眼の巨人”。キャプテン・ドムトルにこうしてお目にかかれたこと、嬉しく思う」
初対面の相手には、俺はことさら、こうした物言いをする。名も、来歴も、すべて知った上で口にしてやる。お前のことは知っている、と。たったそれだけで、相手の立っている地面は、少しばかり傾く。
その傾きを見て取ったのか、マルコが横から口を挟んだ。
「大将、爺さん相手だ。あんまりふっかけないでやってくれ」
その一言に、ドム爺の片目が、細められた。
気味の悪い仮面の男が、自分の名と素性を諳じてみせたこと。そして、あのマルコが、その男を"大将"と呼んだこと。その両方を、一つきりの目で、測っている。
「……マルコ。お前、こんな得体の知れんのを、"大将"と呼んどるのか」
「ああ」
マルコの返事は、それだけだった。短い。だが、そこに迷いはなかった。
ドム爺は、ふん、と鼻を鳴らし――次いで、その後ろに立っていたガロへ目を移した。
「お前まで来とるのか、ガロ」
「……悪いか」
ガロの声は、低く、短い。ドム爺も、それ以上は言わなかった。だが、この男が歓迎されてはいないことだけは、その短い間に、はっきりと滲んでいた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
酒場の隅では、起き上がった男たちが、割れた椅子の脚を拾い集めている。床にこぼれた酒は、拭いても拭いても、甘ったるい匂いだけを残していた。
ドム爺は、空になった杯を卓へ戻す。
「……で、じゃ」
一つきりの目が、マルコへ向いた。
「わざわざ、こんな厄介な連れを引き連れて、何しに来た。昔話に花を咲かせるためでもあるまい」
マルコは、空いた椅子を引き寄せ、その背に片手を置いた。腰は下ろさない。
「……しばらく見ねぇうちに、この辺も随分と変わっちまったな」
何気ない一言。だが、卓を撫でていたドム爺の指が、止まる。
「何を今さら」
「違ぇだろ、ドム爺。"今さら"で済む話じゃねぇ」
マルコの目が、酒場の中を一度だけなぞった。さっきまでミランダへ野次を飛ばしていた男たちは、今はもう、誰一人こちらを見ようとしない。見ればまた何か起きると、身体で覚えたらしい。
「入った時から、妙だった。店の連中が、品物より先に、俺たちの面を見やがる」
俺たちが何を買ったか――マルコは、それを口にしなかった。火燐粉のことも、東方の露店のことも。
だが、言わんとすることは分かる。誰の差し金で来たのか。どこから市へ入ったのか。誰と組んでいるのか。品を売るより先に、客の足元を探る問いが、いくつもあった。
「厄介な品を見せろと言えば、まず連れを検められる。少しでも面倒そうだと見れば、奥から別の誰かが出てくる。口じゃ何も言わねぇ。だがあれは、値踏みじゃねぇよ、ドム爺」
マルコの声が、低くなる。
「報告のための、確認だ」
ドム爺は、すぐには答えなかった。片目を伏せ、指先で杯の縁をなぞる。
「……そうか」
その声に、驚きはなかった。とうに知っている者の声だった。
「昔の片目市はな」
ドム爺は、顔を上げた。
「誰もが、都合の悪いものを一つだけ、見んふりする場所じゃった。盗品が流れようが。逃げ場をなくした奴が裏口から転がり込もうが。表じゃ持て余す代物を、誰かが担ぎ込もうがな」
節くれだった指が、卓の上に一本、立てられる。
「一つだけ目をつぶれば、それで済んだ」
その指先が、自分の眼帯へ触れた。
「だから、片目市じゃ」
声に、古い誇りが滲んだ。
それは、法の届かぬ場所を築いた男の誇りではない。表の世界から弾き出された連中に、せめて一晩を越すだけの居場所を残してやった――そういう男の誇りだった。
「だが、今は違う」
ドム爺の片目が、翳る。
「蜘蛛どもは、片目なんぞつぶらん」
店の空気が、重くなった。
「市へ入った客を見る。何を買ったかを見る。誰と話したかを見る。どこへ帰るかまで、調べ上げる」
声を荒げたわけではない。だが、その一語一語に、長く積もった嫌悪が沈んでいた。
「運び屋を抱え込み、密輸の道を押さえ、盗品の捌け口を奪った。借りを作らせ、返す当てもない銭を貸す。払えんとなれば――そいつの家族も、寝床も、逃げ道も、まとめて握る」
ドム爺の拳が、卓の上で、固く閉じられた。
「弱みさえ握っておれば、人間は勝手に"目"になりおる。口にも、耳にもな」
俺は、この店へ入ってから絡みついてきた視線を、思い返していた。露骨な敵意ではない。誰かの命令で、こちらを測る目。値札のつかぬ客が、売り物になるかどうかを見極める目だ。
「この市は、まだワシの土地じゃ」
ドム爺は、低く言った。
「じゃが、その上にはもう、蜘蛛が巣を張っとる」
マルコの顔が、苦く歪んだ。
「ヴィクトル・ゼイル――それが蜘蛛と呼ばれとる連中の、頭の名じゃ」
その名が出た途端、酒場のどこかで、布を絞る手が止まった。近くにいた男が、慌てて顔を背ける。それだけで、この市におけるその名の重さが知れた。
ドム爺は、マルコを見た。
「十年ほど前までは、ただの運び屋の寄せ集めよ。小遣い稼ぎの密輸をして、時には他所の荷を抜く。その程度の連中じゃった」
吐き捨てる口調ではない。むしろ、だからこそ不気味だった。
「それが、運び屋を一つ食い、二つ食い……気づけば、この市の裏道という裏道に、糸を通しおった」
片目市は、まだ片目市のままだ。誰でも入れる。表で生きられない者にも、物にも、居場所はある。
ただ、その出入りのことごとくを、今はどこかで、蜘蛛が見ている。
ドム爺は、そう言っているのだ。
卓の脇で、ガロの指が、小さく鳴った。
拳を、握り込んだ音だった。




