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フェイタル・フェイト:フィクサー 〜名前を呼ばれただけで詰む無理ゲー世界で、最弱ステの俺は破滅の筋書きを覆す〜  作者: 霞見


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45話 『表裏の邂逅』

 床が、低く唸った。


 門を砕いた音の、その続きが来たのだ。鬨《とき》の声。石畳を踏み鳴らす軍靴の列。迎える怒号と、早くも交じり始めた悲鳴。開いた鎧戸《よろいど》から流れ込む音が、包囲のそれから、乱戦のそれへと塗り替わっていく。


 騎士団が、敷地へ雪崩れ込んだ。


 一階も、保って数分だろう。倉庫のほうから、積み荷の崩れる轟音が床板越しに突き上げてくる。音だけでも、下の絵は描ける。迎え撃つ者。得物《えもの》を捨てて逃げる者。燃やすべき紙の束を抱えて走り回る者。蜘蛛の巣が、内側から千切れていく。


 そして、千切れた糸の何本かは、こちらへ流れてくる。


 賭場から、駆け足が湧いた。一つや二つではない。行き場を失った連中が、頭《かしら》の部屋なら何とかしてくれると、最後の糸を手繰りに来たのだ。


「大将。来るぞ」


 扉際のマルコが言った。


「ミランダ、通路を潰せ」


「はいはい。……少しだけ、下がってて」


 ミランダが扉から通路へ滑り出る。腰の革帯から抜いた瓶の栓を弾き、床へ――赤い粒の尾を、長く引いた。


 爆燐香《ばくりんこう》。夜香《やこう》と対をなす、もう一つの調香。薄く撒けば一瞬の閃光で散り、濃く撒けば火が残る。今日のそれは、たっぷりと濃い。


 ミランダが身を翻して戻るのと、通路の向こうに先頭の男が現れるのは、ほとんど同時だった。


「か、頭ぁ! 騎士団が、もう中に――」


 空の瓶が、赤い粒の上へ落ちる。


 閃光。


 遅れて熱が膨れ、通路の床から火の壁が立ち上がった。腰の高さの炎が、戸口をまるごと横切って燃えている。先頭の男が仰け反り、後続とぶつかって折り重なった。


 俺はその火へ、鞄から出した黒い玉を二つ、続けざまに放り込む。


 煙玉《けむりだま》だ。火を食って弾け、白い煙が噴き上がる。炎と煙。追っ手の視界と進路が、これで両方塞がれた。


「いまのうちだ。奥に、屋上へ抜ける階段がある」


 俺は執務机の裏手へ回り、壁に掛かった古い荷布をめくった。裏に、板壁と同じ色に塗られた細い戸がある。


「……何で旦那が、そんなもん知ってんだ」


「蜘蛛の巣に、蜘蛛の逃げ道がないはずがあるまい」


 ガロの問いには、それだけ返しておく。この蔵の間取りなら、とうの昔に頭へ入っている。――どこで覚えたのかだけは、誰にも話せない形で、だが。


 床の上で、縛られた長身がくぐもった音を立てた。振り返る義理はない。自分だけの逃げ道を目の前で開かれる気分は、当人だけが知っていればいい。


 戸の先は、人ひとりがやっとの昇り階段だった。壁に手燭《てしょく》の受け金具。段の隅に、埃はない。日頃から使われている階段だ。ヴィクトルが自分のためだけに造らせた逃げ道なのだろう。


「ついてこい」


 狭い闇を、四つの足音が昇っていく。先頭は俺だ。背中の下で乱戦の響きが一段ずつ遠のき、代わりに、風が近くなる。


 突き当たりの戸を、肩で押し開けた。


 戸口いっぱいの明るさが、目を刺す。入れ替わりに、背中から追いついてきた薄い煙がひと筋、外へ抜けていく。


 河の匂いの風が、それをさらった。


 屋上だ。


 視界が、開ける。


 蔵の屋根は平らで、広い。乾いた板張りが、昼の光を照り返している。旧荷揚げ場に、これより高い建物はない。連なる倉庫の屋根の先で、アルネス川が鈍く光っていた。屋根の河側の端では、古い貨物用クレーンの腕が、石壁を越えて水の上へ突き出している。


 端へ寄る。眼下は、もう戦場だった。


 破られた門から、鈍色《にびいろ》の列が押し込んでくる。盾と槍の筋が敷地を割り、蜘蛛の手下どもが、ぶつかっては弾かれていく。倉庫の戸口からは客と人足が折り重なって転げ出し、壁沿いを右往左往していた。窓という窓から煙が噴き、風に千切れて、低く這う。


 門側は騎士団。倉庫の表は、蜘蛛の手下と客のまぜこぜ。――そして河側だけが、まだ手つかずで残っている。


 俺は魔法の鞄《マジックバッグ》の口を開け、太い縄を巻いた鉤縄《かぎなわ》を引きずり出した。先端の黒い鉤が、屋根板の上で重い音を立てる。


「手筈通りにいくぞ」


 縄の束を、ガロへ押しつける。


「へいへい。……なあ、本当に上手くいくのかよ」


「急げ」


 ガロは首をすくめ、それでも縄を担いでクレーンへ走った。腕の根元の架構《かこう》に端を回し、体重をかけて締め上げていく。文句と裏腹に、結び目を作る手つきに迷いはない。荒事場の男の手だ。


 その間に、残りの三人で手分けをする。ミランダは昇ってきた戸へ目を配り、俺とマルコは河側の縁から下を検《あらた》めた。


 流れてきた煙で、桟橋のあたりは白くけぶっている。目当ての影は――


「見えた。あそこだ」


 マルコが、桟橋の先を指した。


 煙の切れ間。船留めの柱の陰に、平底《ひらぞこ》の川船が一艘、ぴたりと寄せて待っていた。甲板《かんぱん》から、人相の悪い顔ぶれが揃ってこちらを見上げている。地下暮らしの、うちの荒くれどもだ。


 昨日の言いつけ通り、刻限《こくげん》に船を寄せ、騒ぎが始まるのを待っていたのだろう。見た目に反し、律儀に動いてくれるのはありがたい。


「ガロ」


「結んだぜ!」


 ガロが支柱を蹴り、縄の締まりを確かめる。クレーンが嫌な音で軋んだが、折れはしない。


「投げろ」


「簡単に言いやがる」


 ガロは鉤付きの先端を掴み、屋上の縁へ立った。肩を回し、腕の重みで縄を大きく振る。鉄の鉤が風を切り、円を描いた。


 一度。


 二度。


 三度目で、ガロの身体が沈む。


「行けっ!」


 鉤縄が飛んだ。


 煙を裂き、黒い線が空中に長い弧を描く。船の頭上を越えて――桟橋の板を、がつんと噛む。


 届いた。


 船の上で、荒くれどもが一斉に動く。二人が桟橋へ飛び移って鉤を拾い、船留めの柱へ手早く回して、力任せに手繰り、締め上げる。


 クレーンの架構から桟橋の柱まで、一本の縄が張り渡された。高い所から低い所へ、一直線。下の乱戦の、誰の頭の上も通らない。煙に隠れて、河へだけ滑り落ちていく道だ。


「……これを、渡るのか」


 マルコが言った。


「他に道があるなら聞こう」


「ねぇわな」


「なら、これが道だ」


 俺は鞄から、滑走具《かっそうぐ》を四つ取り出した。片目市で仕入れた古い滑車に、留め具と革布を組んで仕立てたものだ。


 ただし、使い心地までは保証できない。


 マルコがそれを見て、眉間を寄せた。


「大将。まさか、これも手筈のうちか」


「当然だ」


「……あんた、たまに本気で怖ぇよ」


「褒め言葉として受け取っておこう」


「褒めてねぇ」


 俺は滑走具を縄へ噛ませ、締まりを確かめた。革布で手を守り、金具で体重を預ける。足場はない。腕でぶら下がり、重力に任せて船まで滑る。


 理屈は単純だ。やりたくはないが。


「まずマルコ。次にガロだ」


「大将が先じゃねぇのか?」


 マルコが言う。


「私が先に行って、ここで何か起きたら、誰が指示を出す」


「……それもそうか」


「それに、お前たちが先に船へ着いていれば、私が落ちかけても拾えるだろう?」


「……落ちかけるのを予定に組み込まねぇでくれ」


 ミランダが、愉しげに口を挟んだ。


「あんたが最後でいいの? 追っ手が来たら、少し困るわよ」


「その時は、お前に止めてもらうさ」


「あら。随分と信頼されたものね」


「悪くない経験だろう? お前には得難い代物だ」


「そういうとこ、ほんと可愛げがないわ」


 マルコが滑車を縄へ掛け、フックを握り込んだ。下の船を確かめ、ためらいなく縁を蹴る。滑車が高く鳴き、大きな背中が石壁を越えて、白い煙の中へ吸い込まれていった。


「……おい旦那、下は水だよな?」


「なんだ、泳げないのか」


「泳げるけどよ!」


 言い捨てて、ガロも続く。悪態の尾が、みるみる遠ざかっていく。


 縄はまだ、ぴんと張ったまま鳴っている。


 ――と。


 ミランダの声が、笑いを含んだまま低くなった。


「気をつけなさい、おかしなのが来てるわよ」


 振り向くより早く、屋上への戸が、内側から弾け飛んだ。


 煙を割って、一人の騎士が現れる。


 燃えるような髪が、風に跳ねていた。軽装の鎧。腰の剣。踏み込んだ足は乱れていない。ここまで駆け上がってきたはずなのに、息ひとつ荒れていなかった。


 まずい。


 その顔を見た瞬間、胸の奥で警鐘が鳴った。


 赤髪に、尖った耳。見間違えようがない。王家とエルフの血を引く姫騎士――バスティア騎士団副団長、セリア・バスティアン。まごうこと無き、騎士団の切り札。


 ここで来るのか。


 騎士は、一瞬で屋上を見た。張られた縄。河へ落ちていく逃げ道。すでに渡り始めた男二人。縄のそばに立つ黒仮面。そして、その横にいるミランダ。


 最後の一つで、彼女の目が止まった。


 ミランダは、楽しそうに肩をすくめる。


「あら。どこかで会ったかしら」


 セリアは答えない。左手だけが、ほんの少し動いた。


 屋上を流れていた煙が、薄く裂ける。風が、こちらと彼女の間に一本、見えない線を引いた気がした。


「風が教えてくれました」


 セリアは、静かに言った。


「この騒動の主犯は、上にいると。あなたが、この建物を囲んでいた者たちの頭ですか?」


「いいや」


 俺は即座に返す。


「頭なら、二階で縛られている男のほうだ」


 セリアの視線が、わずかに下へ落ちた。屋内へ続く戸口。その奥。縛られたヴィクトルの存在を、言葉の中から拾ったのだろう。


「……そう。では、あなたは何者ですか?」


「巻き込まれただけの、ただの一般人。そう言えば、信じてもらえるかな?」


 セリアの左手が、指先だけそよいだ。風がひと筋、仮面の縁を撫でて戻る。


「嘘ですね」


 即答だった。


「あなたの隣の女性は、脱獄中の指名手配犯。――なら、あなたが、手紙にあった脱獄の首謀者ですか?」


「いかにも」


 俺は言った。


「手紙が無事に届いたようで、何よりだ」


 セリアは、懐へ手を入れた。取り出したのは、折り畳まれた一通の紙だ。封はもう切られている。何度か読み返した跡が、紙の折り目に残っていた。


「あなたが、これを?」


 紙面は風に揺れても、持つ手は揺れていない。


「ここには、脱獄の首謀者と密輸の元締めが密会する、とありました。日時も場所も、正確に。……何のつもりですか。わざわざ、自分を囮にしてまで」


「親切だろう? 手柄の欲しい騎士団に、わざわざ悪党の本拠地を書いて寄越してやったのだから。なに、感謝はいい。君たちはただ、仕事をしてくれれば、それでな」


「……そうですか。答える気はないのですね。では、望み通りにしましょう」


 手紙が胸へ戻り、右手が柄《つか》にかかる。


「話は捕まえた後――ゆっくり聞かせてもらいます!」


 言葉の終わりと同時に、セリアの姿が掻き消えた。


 初動が見えない。


 踏み込みの気配ごと、風が攫っていく。気づけば、間合いは半分に潰れていた。


 銀光が走る。


 それに、黒い影が割り込んだ。


 鋼が噛み、火花が散る。交差させた短剣で、ミランダが細身の刃を受け止めていた。


「はい、そこまで」


 声は軽い。だが、動きは軽くない。受けた一撃を流しざま、返しの刃が籠手《こて》を狙う。セリアは半歩引いて躱し、剣を返した。二合、三合。鋼の音が屋根板の上を跳ねる。


 俺は下がりながら、声を投げた。


「気をつけろ。かなりやるぞ」


「見ればわかるわ」


 ミランダの短剣が、低く走る。


 セリアは剣の腹で短剣を受け、受けた流れをそのまま横へ逃がす。刃と刃が噛み合い、屋上に火花が散った。


「左手で風の精霊術を操る。こちらの行動と、簡単な真偽《しんぎ》を読んでくるぞ。フェイントは通じないと思え。自由にさせると風で縄を切られる。術を使う隙は与えるな」


「それは……厄介ねっ!」


 応じながら、ミランダが身を沈める。セリアの剣が、その肩先をかすめて抜けた。


 打ち合いの中で、セリアの目がこちらへ動いた。


「……なぜ、それを?」


 声に、初めて硬いものが混じる。


 答える義理はない。


 ミランダが後ろへ跳んで、間合いを切った。その手は、もう袖の小瓶を抜いている。振り抜きざま、中身を宙へ撒いた。


 甘い香りが、広がりかけ――


 風が、散らす。


 セリアの左手がひと払い。それだけで香りはまとまりを失い、屋根の外へ流れて消えた。毒も煙も、この相手には届かない。ミランダにとって、これ以上なく相性の悪い敵だ。


 それでも、ミランダは笑みを崩さない。二本の短剣が、軌道を変えた。仕掛けを捨てた、全部が本気の斬り込み。読まれて躱されても、途切れずに次が出る。決定打を求めない代わりに、一瞬の隙も作らせない。俺が逃げるための数秒を、一秒ずつ積み上げていく。


 なら、その数秒を無駄にはできない。


 俺は、縄に噛ませてあった滑走具を掴んだ。


「先に行く。死ぬなよ」


「待ちなさい!」


 セリアの声が飛ぶ。踏み込みかけたその足を、ミランダの刃が止めた。


「あんたの相手は、こっち」


 鍔迫《つばぜ》り越しにも、セリアの目はこちらを離さない。


「あなたは、何がしたいのですか?」


 一度だけ、振り返る。


「本質的には、君と同じだよ」


 セリアの目が揺れた。


「私と?」


「ああ。我々の違いは、立っている場所だけだ」


「……どういう、意味ですか」


「いずれわかる」


 滑走具へ体重を預ける。


「――さらばだ」


 言って、屋根を蹴った。


 浮遊は、一瞬。


 次の刹那《せつな》、落下が内臓を掴み上げた。風が下から殴りつけ、頭の上では滑車が悲鳴を上げている。視界は白一色――煙だ。何も見えない。速度だけが、腕一本にぶら下がった全身へ、容赦なく乗ってくる。


 白い壁を、突き抜けた。


 光が弾ける。眼下いっぱいに、暗い川面がせり上がってくる。縄は鳴りやまず、革布はじりじりと熱を溜め、指の付け根が軋んだ。


 速い。思っていたより、ずっと速い。


 石壁が背後へ吹き飛ぶ。桟橋が迫る。船影が膨らむ。甲板、見上げる顔、伸ばされる腕――その全部が、まとめて突っ込んでくる。


 減速の余地は、ない。


「いまだ大将! 手ぇ離せ!」


 マルコの声に、考えるより先に指が開いた。


 浮いて、落ちる。衝撃――の代わりに、分厚い胸板が受け止める。


「よっと……旦那、軽いな」


「黙れ」


 受け止めたガロの軽口に付き合う余裕は、まだ戻っていない。心臓を、半分ほど縄の上へ置き忘れてきた気分だ。


 甲板に足を下ろし、屋上を見上げた。縁ではまだ、二つの影が打ち合っている。銀と黒。鋼の音が、風に千切れて落ちてくる。


「……ミランダは、どうすんだ」


 ガロが縄を見た。張り渡されたままの、一本の道。


 答えるより早く、黒いほうの影が動いた。


 セリアの一撃を弾き、その反動ごと身を翻す。そして後ろも見ずに、屋上の縁の外――足場のない空へ、跳んだ。


 ガロの喉が、ひゅっと鳴る。


 黒い爪先が、宙で細い縄を拾った。


 縄が深く沈む。たわみが跳ね返るより先に、次の一歩がその先を踏む。また次。また次。一歩ごとに縄は鳴き、身体は落ちかけ、落ちきる前に前へ出る。止まれば、落ちる。だからあの女は、止まらない。


 綱渡りの芸ではない。あれは、縄一本の上の、全力の疾走だ。


 荒くれどもから、声にならない声が上がった。マルコまでもが、目を疑う顔をしている。


 屋上では、セリアが縁に取りついていた。左手が上がる。風で何かをする気だ――追うのか、縄ごと落とすのか。


 その一手より、ミランダの短剣が早かった。


 縄の半ばで身を沈め、白い手が一閃。おのれの背後で、道が断たれる。


 支えを失った縄が、大きくたわんで落ちた。ミランダは切れた端を掴み、振り子の弧を描いて――水面すれすれを掠め、船べりへ、音もなく降り立つ。


「……ん。いい風だったわ」


 乱れた髪を指先で払って、声だけは涼しかった。


 誰も、すぐには言葉が出ない。最初に我へ返ったのは、船頭《せんどう》だ。


「出せ! 出せ出せ!」


 櫂《かい》が水を噛み、船体が桟橋を離れる。切れた縄が、船留めの柱から水面へ、力なく垂れ下がっていた。


 屋上を、振り返る。


 縁に立つ赤い髪が、遠ざかっていく。追っては来ない。来られない。渡る道は、もうない。


 だが、あの目はまだ、こちらを見ている。距離に薄められても、それだけはわかった。


 蜘蛛は獲った。機密帳は鞄の中。町人の囲みも、騎士の網も抜けた。作戦は、成功だ。


 ――それなのに、勝ちきった気がしない。


 ヴィクトル・ゼイルより厄介な相手が、騎士団の側にいる。


 その一事だけが、戦利品の山の上に、重石のように残った。


  ◇ ◇ ◇

 セリア視点

  ◇ ◇ ◇


 切れた縄の端が、桟橋の柱から水面へ垂れ、揺れている。


 セリアは屋上の縁に立ったまま、小さくなっていく船影を見送っていた。


 左手を上げかけて、下ろす。ここから風で届かせるには、遠すぎる。縄を断たれたあの一瞬で、追う手はすべて潰されている。


(……逃げられました)


 悔しさは、ある。けれど、それよりも重いものが、胸の奥に残っていた。


 眼下では、騎士団が敷地を制しつつある。逃げ惑っていた者たちが、次々と縄を打たれていく。建物のあちこちからは、まだ細く煙が立ち上っていた。捕り物としては、十分すぎる戦果だ。密輸の巣をひとつ潰し、その頭目は、二階で縛られて待っているという。逃げられない形で、ご丁寧に。


 何もかも、あの手紙の書き手が言った通りだ。


 セリアは、胸元の手紙へ手を当てる。


 脱獄の首謀者と、密輸の元締めが密会する。日時も、場所も、正確だった。半信半疑で隊を動かした騎士団は、結果として、一番大きな獲物だけを取り逃がし、残りのすべてを手に入れた。


(いいえ。手に入れたのではなく――受け取ったのです)


 騎士団が欲しいもの。動ける理屈。間に合う刻限。すべてが行儀よく揃えて、差し出されていた。私たちは狩りをしたのではない。仕留めやすい場所へ、獲物ごと導かれたのだ。


 あの黒仮面は、何者なのか。


 風で真偽を聞く左手の癖を、初対面で言い当てられた。長く隣で戦った者しか知らないはずのことまで、あの男は知っていた。


 そして、あの言葉。


 ――本質的には、君と同じだよ。我々の違いは、立っている場所だけだ。


 風は、あの声も拾っていた。そして、告げていた。言葉に、偽りはない、と。


(同じ。……何が、ですか)


 嘘なら、笑って切り捨てられた。真実だと告げられたからこそ――わからない。


 問いは増えるばかりで、答えは船と一緒に、河を下っていった。


 大脱獄の夜から追い続けてきた「仮面の首謀者」は、作り話ではなかった。実在した。そして――ただの脱獄犯の親玉でも、なかった。民を害さず、悪党の巣を騎士団へ差し出し、手柄まで持たせて、自分たちだけが網の外へ消えた。罪人の逃げ足では、あんな絵は描けない。


(いずれわかる、と言いましたね)


 川面を渡る風が、赤い髪を揺らした。その風にはもう、追える匂いは残っていない。


(なら、私の場所で、確かめさせてもらいます。あなたが何者で、何がしたいのか。――次は、逃がしません)


 あの黒仮面は、ただの脱獄首謀者ではない。


 垂れた縄の端が、河を指したまま揺れている。


 道は、断たれた。それなのに――結び目は、もう解けない。そんな予感がした。

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