38話 『片目市』
苔蝋の灯具を片手に、石壁へ手をかけ、横へ滑らせる。
古い仕掛けは、見た目に反して滑らかに動いた。人ひとりが抜けられるほどの隙間から、ひやりとした空気が流れ込んでくる。水と、苔の匂い。
壁の向こうに、暗い水路が横たわっていた。
地下を流れる、古い導水路。石を組んだ水縁。天井は低く、水面は黒く、流れはほとんど止まって見えた。
俺が先に抜けると、後ろの三人が続いた。最後に壁を元へ戻す。継ぎ目は、知らなければ石積みの一部にしか見えない。
「……おい、嘘だろ」
声を上げたのは、ガロだった。くぐってきた壁と、足元の黒い水とを、太い首を巡らせて見比べている。
「劇場の地下が、こんな水路にまで繋がってやがるとは思わなかったぜ」
その素朴な驚きの隣で、マルコの関心は、別のところにあった。
水縁の際に立ち、開いたばかりの継ぎ目へ目をやる。驚きが顔に出ていたのは、最初の一瞬だけだ。その色は、すぐに別のものへ塗り替わっていく。荷を測る目。人を測る目。逃げ道を測る目だ。
「……こういう抜け道が、水路のあちこちにあるってわけか」
低く、確かめるように呟く。
隠し通路があるとは、聞かされていた。だが、マルコはまだ一度も、それを使ったことがなかった。話に聞くのと、自分の足で通り抜けるのとでは、得心の重さがまるで違う。
「こいつは……確かに、俺らにとっちゃ最高の切り札だ」
俺は、それには答えなかった。
答えるまでもない。マルコが今、自分の足で得心したこと。それが、すべてだ。
その隣で、ミランダだけが、退屈そうに壁へ寄りかかっていた。
男二人の驚きなど、もう見飽きたと言わんばかりだった。
「こういう便利な道があるなら、もっと早く言いなさい。出入りに気を使ってたわたしが、馬鹿みたいじゃない――で、いつまでそうして道を塞いでいる気なのかしら」
似た道なら、こいつも一度くぐっている。監獄の底から、この劇場の地下まで。だからこの程度では、眉ひとつ動かさない。
俺は、水の流れる先へ足を向けた。
説明は要らない。一度見せれば、十分だ。
「行くぞ」
水縁に沿って、奥へ進む。
足場は狭く、片側はすぐ黒い水だ。先の闇は深い。手にした灯具の、炎も煙もない淡い光が、濡れた石を浮かび上がらせる。
しばらく進むと、行く手がほの明るくなってきた。地上の光が、どこかから差し込んでいる。灯具を鞄へ戻し、さらに奥へ。
やがて頭上の天井が切れ、古い水門が見えた。
苔に覆われた石積み。錆びついた鉄格子は半ば持ち上げられたまま、誰も直そうとしないらしい。その脇を抜けると、視界が開けた。
水と、油と、腐った木材の匂いが、一気に濃くなる。
荷札のない木箱が雑に積み上げられ、使い古された縄が、地に投げ捨てられている。狭い通りの先には、ひしめくような掘っ立て小屋と、人の影。
闇市の、裏口だった。
俺は、黒仮面をつけたままだ。
この町のどこであれ、昼日中に仮面の男が現れれば、人は遠巻きにし、いずれ誰かが衛兵へ走る。だが、ここでは違う。
集まるのは、故買屋、薬売り、足のつく荷を抱えた者、追われる身の者――衛兵を呼ばれて困るのは、向こうの方だ。この場所では、密告そのものが、何より重い罪となる。
だから、黒仮面の男が現れても、誰も叫ばない。誰も走らない。
代わりに、見る。覚える。値踏みする。そして銭になると踏めば、その情報をどこかへ流す。
現に、足を踏み入れた瞬間から、視線がまとわりついてきた。遠巻きに、しかし執拗に。
黒仮面の男が一人。
その後ろに、この界隈の古い顔――指名手配のマルコ。
場違いなほど整った、危険な匂いのする女が一人。
そして、図体ばかり大きい、どこか見覚えのある荒くれが一人。
どれも、ここでは嫌でも目を引く取り合わせだった。
俺たちは、まだ何もしていない。
それでも闇市は――もう、四人を値踏みし始めていた。
俺は、構わず足を進めた。
視線など、いちいち相手にしていられない。先へ行くほど、闇市の通りは雑多に入り組み、人の数も増えていく。
だが、それは散るどころではなかった。
進めば進むほど、遠巻きの人だかりが膨れていく。露店の陰から、酒場の戸口から、積み上げた木箱の隙間から。一定の距離を保ったまま、誰もが俺たちの一挙一動を窺っている。近づきはしない。それでいて、目を離しもしない。
その空気を、場違いに明るい声が裂いた。
「あっ!」
人だかりの中から――不意に、小柄な影が一つ、飛び出した。
膝ほどの高さの木箱を、ひょいひょいと跳び越えながら、まっすぐこちらへ駆けてくる。
背丈は、俺の腰ほど。手も脚も枝のように細いのに、足だけは不釣り合いに大きく、ぺたぺたと土を蹴って走る。小柄な身体に、大きめの顔。丸い耳。好奇心で忙しなく動く目が、こちらを捉えていた。
人ではない。
この世界には、人間のほかにも、人に近い姿を持つ種族がいくつもある。獣の血を引く者、ひと目で人と違うと知れる身体つきの者――ひとくくりに、亜人と呼ばれる者たちだ。表通りでは弾かれがちな彼らも、この闇市では、ちっとも珍しくない。
駆けてくるこの男も、その一人。草原の民と呼ばれる小柄な種族――ラッチ族だ。
「お前、もしかしてマルコか!?」
甲高い声を上げ、最後の数歩を勢いよく詰めてくる。
「おいおいおい、誰かと思えばマルコじゃねぇか! 死んだって話はどうした。せっかく香典を浮かせたと思ってたのによ」
マルコは、露骨に面倒そうな顔をした。だが、振り払いはしない。
「お前の葬式代に回しておけ。すぐ要る」
二人は、しばし睨み合った。
どちらからともなく、ふっと笑う。
「第一声がそれかよ! 相変わらず口悪ぃなぁ!」
ラッチ族の男が跳ねるように手を上げ、マルコが面倒そうに、それでも逃げずに手のひらを出す。小さな手が、ぱしりと打ち合わさった。
「……生きてたか、ピピム」
「そっちこそ。てっきり川に浮いたか、壁に埋まったか、どっかの馬鹿に首でも売られたかと思ってたぜ」
「縁起でもねぇことを並べるな」
「心配してたんだよ」
「香典を浮かせたって言った口で、よく言う」
「浮いた分で酒でも買って、しみじみ泣いてやろうと思ってたんだ。優しいだろ?」
「お前が泣くのは、酒をこぼした時だけだろ」
ピピムはけらけら笑った。
マルコの、古い馴染みらしい。友と呼ぶには口さがなく、他人と呼ぶには遠慮がない。長く転がしてきた腐れ縁の、あの軽さだ。
ひとしきり笑った後で、ピピムの視線が、マルコの連れへ移った。
まず、黒仮面の俺。好奇と、警戒と、それから――値札を探すような、抜け目のない光。
次に、ミランダ。美貌に一瞬見惚れ、しかしすぐ、その奥の剣呑さを嗅ぎ取る。
最後に、ガロ。
ピピムの顔から、すっと愛想が落ちた。露骨に、嫌そうな色が浮かぶ。
何か言いかけて――ピピムは、それを呑み込んだ。今はこっちが先だ、とでも言うように。
そして、いかにも調子よく、両手を広げてみせた。
「ようこそ、片目市へ!」
両手を広げたまま、ピピムは胸まで反らしてみせた。それから、ぽんと自分の胸を叩く。
「と、紹介が先か。オイラはピピム・トケット。この界隈じゃ、そこそこ名の通った故買屋さ。なんでも安く都合してやるから、覚えときな」
「都合する品の半分は、盗品だがな」
マルコが、横から低く差し込む。
「人聞きの悪いことを言うなよ。……まあ、本当のことだけど」
悪びれもせず、ピピムはけらけら笑った。そして、くるりと背を向けると、先に立って歩き出す。誰に頼まれたわけでもなく、案内役を買って出たらしい。
俺たちが片目市の勝手を知らない――そう値踏みしたのだろう。歩きながら、ピピムは肩越しに振り返った。
「あんたら、ここは初めてだろ。なら、名前の謂れ《いわれ》くらい、知っておいて損はねぇ」
通りの両脇には、軒の傾いた露店がひしめいている。並ぶのは、出所の知れない品ばかりだ。
「なんで『片目市』ってか? ――簡単な話さ。みんな、片目をつぶってるからだよ」
ピピムは、指を一本ずつ立てていく。
「売る奴は、品がどこから流れてきたか、片目をつぶる。買う奴も、それが元は誰の物だったか、片目をつぶる。お役人だって、本気で踏み込みゃ厄介事の山だ。だから――やっぱり、片目をつぶる」
通りすがりの露店の主が、ピピムに軽く顎をしゃくった。ピピムも、片手を上げて応える。この男の顔の広さが、それだけで知れた。
「客も、売り手も、お上も。揃いも揃って、見えてるものを見ないふりさ。ま、そうでもしなきゃ、誰もここじゃ生きちゃいけねぇ」
そこで、ピピムは少しだけ声を落とした。
「謂れは、それだけじゃねぇ。ここの古い顔役が、片目の爺さんだから、なんて話もある。『両目で見てたら、こんな場所じゃ誰も生きられん』――その爺さんが、そう言ったからだ、ってな」
軽い口調に戻して、ピピムはおどけたように手を振った。
「どれが本当かは、さあてね。誰も知らねぇ。たぶん、全部ちょっとずつ本当なのさ」
俺は、黒仮面の下で、その話を噛み砕いていた。
由来など、どれでもいい。要点は、一つだ。
片目市とは――見えているものを、見えていないことにする場所。
盗品も、密輸も、後ろ暗い顔も。すべてが白日の下にありながら、誰一人、それを「見た」とは言わない。その暗黙の了解が、この市を成り立たせている。
ならばこそ、俺の黒仮面も、ここでは誰にも咎められずに済むわけだ。
その由来を語り終えると、ピピムの視線が、ふと一人で留まった。
ガロだ。
にやりと、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「しっかし、お前。あんな事件を起こしておいて、よく顔を出せたもんだよなぁ」
ガロが、ぎろりとピピムを睨んだ。太い首の筋が、ぐっと盛り上がる。
ピピムは、ぱっと両手を上げた。
「――うそうそ、冗談だって! 今のは忘れてくれ」
あっさり引っ込める。お調子者なりに、踏んではいけない線は心得ているらしい。
「事件とは?」
俺は、ピピムが慌てて引っ込めた言葉を、あえて拾い上げた。
ガロのことは、おおよそ知っている。ただ、今知りたいのは男の過去ではない。この場所の、流儀の方だ。
ピピムは、しまった、という顔をしたが、すぐに観念したように向き直った。
「……まあ、ここの流儀みてぇなもんだしな。知っておいて損はねぇか」
声から、軽さが少しだけ抜ける。
「いいか。ここじゃ、喧嘩も脅しも、刃物が出るくらいの揉め事も、珍しかぁない。取り立て、小競り合い、その程度はしょっちゅうだ。誰も気にしやしねぇ」
ピピムは、立てていた指を、すっと一本だけ残した。
「だがな、たった一つだけ、越えちゃいけねぇ線がある」
通りの喧騒が、その一言で、少し遠のいた気がした。
「お役人やら衛兵やらが、嫌でも乗り込んでこなきゃならねぇような――そんな派手な事件は、ここで起こしちゃいけねぇ。片目をつぶってる連中に、無理やり両目を開かせる。そいつだけは、許されねぇんだ」
なるほど、と思う。
片目市が「見ないこと」で成り立つ場所なら、その逆――「見ざるを得なくさせる」ことこそが、最大の禁忌になる。理屈は、通っている。
「ここにいるのは、みんな脛に傷持つ連中だ。表の目を引き寄せる奴は、市全体を売るのと同じ。やった奴は……」
ピピムは、そこで言葉を切り、自分の首のあたりで、すっと指を横に引いた。
「次の日にゃ、川にぷかりと浮かんでる。そういう場所さ」
俺は、ちらりとガロを見た。
壁のように突っ立ったまま、あらぬ方を睨んでいる。気まずさを、力ずくで押し殺したような顔だ。
かつてこの男が越えた線が、どれだったのか。──聞くまでもない。
だが、本人が語らないものを、わざわざ暴く趣味はない。俺は、それ以上は踏み込まなかった。
話が湿っぽくなったのが気に入らなかったのか、ピピムは「ま、難しい話はこれくらいだ」と肩を回し、また調子よく歩き出した。
その後について、俺たちも市の奥へ進む。
通りは、雑多なもので溢れていた。
出所を問わない故買屋の店先。怪しげな粉や乾いた草を量り売りする薬売り。鼻を刺す香を焚く香料屋。その隣では、刃の反った短刀や、用途の知れない細い針が、布の上に並べられている。表の店なら、まず棚に置かない品ばかりだ。
壊れた道具を黙々と直す職人がいる。安酒の匂いを垂れ流す飲み屋がある。日雇い《ひやとい》の口入れ屋の前には、仕事を待つ男たちが、所在なげにしゃがみ込んでいた。
だが、ここにいるのは、悪党だけではなかった。
戸籍も、後ろ盾も持たない者。行き場を失い、流れ着いた者。親のない子供が、誰かの使い走りで通りを駆けていく。
そして――人間ではない者の姿も、表通りよりずっと多い。
犬のような顔立ちの獣人が、露店の奥で品を並べている。ピピムと同じ、腰ほどの背丈の小柄な亜人。頭から短い角を生やした者。腕が異様に細く長い者。鱗に覆われた指で、銭を数える者。
彼らの多くは、表通りの店では、まともに相手にされない。だからこの片目市の片隅で、細々と商いをし、あるいは雑用や荷運びに使われ、その日の糧を得ている。
珍しがって振り返る者は、ここにはいない。それが、当たり前の風景だった。
ふと、通りの陰に、薄く化粧をした女たちが立っているのが目に入った。客を待つ、夜の女たちだ。その後ろには、女たちを束ねる女衒の影。表ではけして生業にできない仕事も、ここでならまかり通る。
その一人が、こちらに気づき――ミランダを認めた途端、すっと壁の奥へ引っ込んだ。
残りの女たちも、次々に顔を背け、距離を取る。
ミランダは、何も言わなかった。ただ、女たちが距離を取る様子を、黙って見送っている。
同じ女と侮るには、こいつは美しすぎ、そして危険すぎた。表で散々、男に値踏みされてきた女たちには、その違いが、嫌でも分かるのだろう。
俺は、黒仮面の下から、その全部を見ていた。
無法地帯。悪党の見本市。あるいは、町の掃き溜め《はきだめ》。
だが――ここがなければ、明日の糧にすら手が届かない者が、確かにいる。表から弾かれ、それでも生きようとする者の、最後の受け皿。それもまた、この片目市の役割なのだろう。
潰せばいい。そう切り捨てるには、この市は、あまりに多くの命を引き受けすぎている。




