34話 『俺にできる仕事』
地下に、昼はない。
窓のない石壁の部屋では、光の傾きも、通りを行く人の声も届かない。時を知るには、懐に入れた時計を見るか、地上から誰かが持ち込む気配に耳を澄ませるしかなかった。
俺は執務机の上に置いた懐中時計を開き、針を確かめる。
針は、正午を少し回ったあたりを指している。
改装が始まって、二日。
俺は自室で、必要な雑務をこなしていた。
自室とはいっても、元々は作戦室の隣にあった貴賓室だ。そこを借り受け、扉を鍵付きに新調し、後は粗末に見えすぎないよう、それなりの寝台と執務机、椅子を置いただけ。
机の上にはインク壺とペン、それに紙束。扉のある壁には、持ち込んだばかりの暦表。
インテリアと呼べるようなものは一切ない。飾り気のない部屋である。
だがまあ、今はこれでいい。
俺に必要なものは柔らかい絨毯でも、趣味のいい置物でもない。静かに眠れる場所と、紙を広げられる机。それだけだ。
机の上を片づける。書くべきものはもう書いた。作戦室へ回す紙は、昨夜のうちに運ばせてある。地下の見取り図、旧導水路の図、赤線を引いた使える導線、改装の段取り、要る物資を並べた一覧。必要な紙はすべて、隣の作戦室へ移してあった。
残った紙束は、次に動きが出てからでなければ意味を持たないものばかり。
つまり、今この部屋で片づけられる事務は、ひとつも残っていない。
ペンを置き、椅子から立ち上がる。
机に向かう仕事がないなら、現場を手伝うまでだ。
机の端に置いていた黒仮面を手に取る。指先で縁を確かめ、顔に当てた。留め具を整え、外套を羽織る。
扉を開けると、石の通路に音が満ちていた。
木材を引きずる音。箱をずらす音。遠くでガロが何か怒鳴り、それに荒くれたちの返事が続く。別の方角からは、マルコの低い声が短く飛んだ。
二日前まで、ここは逃げ込んだ者たちの隠れ家だった。
今は違う。
まだ形は粗い。床には木片が落ち、壁際には運びかけの荷物が積まれている。だが、そこにあるのは混乱ではなかった。誰かが使うために、誰かが動かしている。人が暮らし、物が入り、指示が通る場所へ変わろうとしている。
拠点になり始めていた。
俺は通路を歩き出した。
最初に見えたのは、作戦室だった。
舟寄せに近いその部屋は、二日前とは別物になりつつある。壁際には粗末な棚が据えられ、机は二つに増えていた。片方には物資の一覧と、まだ処理しきれていない紙束。もう片方には、地下の見取り図と旧導水路の図が広げられている。
壁には地図が掛けられていた。
劇場地下の見取り図。舟寄せへ続く導線。旧導水路の分かる範囲。使える道には赤線を引き、危険な道や未確認の道には印をつけてある。誰でも好きに見ていいものではないが、ここに入れる者が一目で状況を掴める程度には整えた。
部屋の奥では、オーウェンが紙束を抱え、棚の前で難しい顔をしていた。
「そっちはどうだ」
声をかけると、オーウェンが顔を上げた。目の下の隈はまだ消えていないが、動きそのものは昨日よりいくらかましだった。
「ヴァレリスの在庫で賄えるものは、だいたい仕分けました。寝具と食器、布類は何とか。ただ、水回りと灯り、それから保存用の品が足りません」
「清め石か」
「はい。まとまった数は残っていません。古い取引先にも当たっていますが、すぐには難しいかと」
予想通りだ。
地下で人が暮らすなら、飲み水と食料の管理は避けて通れない。気合いでどうにかなる問題ではないし、早急に対処する必要があるだろう。
「リストは作戦室に残しておけ。後で見る」
「分かりました」
オーウェンは短く答え、また紙束へ視線を落とした。
俺は作戦室を出て、通路を奥へ進む。
舟寄せの方では、荒くれたちが床に積もった古い木片や壊れた桶を運び出していた。水際には太い縄が張られ、崩れかけた足場には仮の板が渡されている。完全には程遠いが、少なくとも人と荷が行き来する場所としての形は戻り始めていた。
「そこ、まとめて右だ。濡れたやつは混ぜんな」
マルコの声が飛ぶ。
低く、短い。だが、それだけで動きが変わる。荒くれの一人が抱えていた木箱を置き直し、別の者が濡れた縄をまとめて脇へ寄せた。
倉庫区画の入口には、荷札代わりの木片が吊るされている。通常の荷物、表に出せない荷物、危険物。大雑把ではあるが、混ざれば厄介なものを分けるには十分だった。
マルコは荷の山を前に、片膝をついて箱の中身を検めていた。俺に気づくと、手を止めずに目だけを上げる。
「大将。紙仕事は終わったのか」
「ああ。今すぐ机でやることはない」
「なら、見て回るだけにしとけ。ここはまだ足場が悪い」
「……そうだな」
そう答えたが、マルコは信じていない顔をした。
失礼な奴だ。俺だって、自分の体の性能くらいは把握している。
把握した上で、できることを探しているだけだ。
いったん階段側へ戻ると、浴室にする予定の部屋では、若い女たちが古い布や壊れた棚板を選り分けていた。リディアもそこにいる。まだ顔色は良くないが、腰を下ろして指示を出すだけではなく、軽い布束なら自分でも運んでいた。
無理をしている。
だが、止めれば止めたで、彼女は別の形で無理をするだろう。
リディアはこちらに気づくと、布束を抱えたまま小さく頭を下げた。
「仮面のお方。こちらは、使える布と処分するものを分けています。浴室に使えそうなものは、まだほとんどありませんが……」
「最初から揃っている方がおかしい。焦るな」
「はい」
隣にいた女たちが、少しだけ表情を緩めた。
風呂という一語を出しただけで、二日前の彼女たちは息を詰めていた。今は、その場所を自分たちで作る側に回っている。まだ傷は残っている。だが、ただ守られて震えるだけではなくなり始めていた。
通路の反対側では、ガロたちが大部屋の荷物を外へ出している。
訓練場予定地だ。
古い大道具の残骸らしき板、割れた柱、用途の分からない木枠。そういうものを荒くれたちが肩に担ぎ、通路へ運び出していく。床は埃まみれで、壁際にはまだ蜘蛛の巣が残っているが、広さだけは十分ある。
「おい、それは横にすんな。縦にして抜けろ、縦に」
ガロの声が響く。
「そこぶつけんなよ。崩れたら掃除が増えるだろうが」
「へいへい」
「へいは一回でいいって、マルコに言われたばっかだろ」
荒くれたちの間から笑いが漏れる。
地下に、笑い声が混じっていた。
二日前にはなかった音だ。
俺は入口に立ち、部屋の中を見た。木枠を運ぶ男が二人。床の埃を掃き出す女が一人。奥でガロが大きな板材を持ち上げ、肩に載せている。
人手は足りている。
いや、足りているように見えるだけで、実際は全てが足りない。金も、職人も、資材も、時間も。だが、それでも今この瞬間、手の届く範囲のものは動いていた。
なら、俺にも何か一つくらいはできるはずだ。
そう考えて、俺は足元に置かれていた木箱へ目を落とした。
木箱は、見た目よりも重かった。
いや、正確に言えば、俺の想定より重かっただけかもしれない。蓋の隙間から覗く限り、中身は古い金具や釘、割れた蝶番の類だ。大人の男が一人で運べない重さではない。
少なくとも、ガロなら片手で抱えていくだろう。
俺はしゃがみ込み、箱の両脇に手をかけた。
「……よし」
息を整え、膝に力を入れる。
持ち上がった。
ほんの少し。
床から指一本分ほど浮いたところで、腕が震えた。肩に嫌な熱が走り、腰が遅れて悲鳴を上げる。箱はすぐに石床へ戻った。
ごとん、と重い音がする。
近くにいた荒くれが、こちらを見た。
見なかったことにしろ。
俺はもう一度、箱に手をかけた。
今度は膝の使い方を変える。背中を丸めすぎない。腕だけで持つな。重心を近づけろ。理屈はわかっている。剣術や身のこなしの知識にも通じる部分はある。
問題は、その理屈を実行する身体が、俺の言うことを聞かないことだ。
もう一度、持ち上げる。
箱は今度も少しだけ浮いた。だが、浮いた分だけ横へ傾いた。中で金具が滑り、箱の重心がずれる。
「くそっ」
支えようとして、足が半歩遅れた。
箱が倒れかける。
この角度で足に落ちれば、怪我だけでは済まない。骨をやれば、しばらく動けなくなる。動けなくなれば、ただでさえ足りない時間がさらに削れる。
木箱の倒壊が原因で世界が救えませんでした、では話にもならんっ――!
そう思った瞬間、横から太い腕が伸びてきた。
ガロが片手で箱を押さえ、そのまま軽々と持ち上げる。
「旦那」
「……何だ」
「そこに立たれると邪魔だ」
悪意のない声だった。
それだけに、反論の余地がなかった。
「今のは、その……箱の中身が片寄っただけだ」
「そういうことにしとくぜ」
ガロは木箱を肩に載せ、何事もなかったように通路へ出ていく。さっきまで俺が両手で動かそうとしていた箱が、荷物というより小道具のように運ばれていった。
理解はできる。
だが納得したくはない。
俺は別の仕事を探した。
大部屋の奥では、荒くれ二人が棚板を壁際へ立てかけようとしていた。片方が位置を合わせ、もう片方が下から押さえている。見る限り、人手は足りていない。
「そこは、私が支えよう」
言って、近づく。
荒くれの一人が一瞬だけ困った顔をした。
「いや、旦那、それは――」
「支えるだけなら問題ない」
問題はあった。
板はただの棚板ではなかった。古い舞台装置の一部だったのか、思ったより厚く、縁には金具も残っている。両手で押さえた瞬間、腕に重さが乗った。
倒れはしない。
だが、じわじわと肩が下がる。
「旦那、もう少し上です」
「わかっている」
「いや、下がってます」
「だから、わかっている」
わかっているが、上がらない。
板を支える俺の腕が小刻みに震え始めた頃、背後から低い声が落ちた。
「大将」
振り返るまでもない。マルコだ。
「大将は、頭を使う方に回ってくれ」
「支えるくらいならできる」
「できてねぇ」
即答だった。
周囲の荒くれたちが、露骨に笑いを堪えた。ガロは堪えなかった。
「ははっ、旦那、顔は見えねぇのに意地だけはよく見えるな」
「黙れ」
「怒るなよ。倒れたら下敷きになるのは旦那だぜ」
マルコが板に手をかけ、俺の手を外させる。力任せではない。だが、有無を言わせない動きだった。
「ここで大将に倒れられると、洒落にならねぇ」
「そこまで弱くはない」
「弱いとは言ってねぇ。向いてねぇと言ってる」
その言い方は、妙に刺さった。
馬鹿にしているのではない。役割を分けている。マルコの声には、そういう現場の判断だけがあった。
だから、余計に反論しにくい。
俺は板から手を離し、一歩下がった。
荒くれ二人が改めて棚板を持ち上げ、マルコが位置を指で示す。ガロが奥から戻り、今度は太い柱材を肩に担いで通り過ぎていった。
俺が入る余地は、見事になかった。
少し離れたところで、リディアが口元を押さえていた。笑ったわけではない。たぶん、笑わないようにしている。
若い女たちも、こちらを見てすぐに目を逸らした。
気遣いが痛い。
「……わかった」
俺は両手を軽く上げた。
「力仕事は任せる。私は私にしかできない仕事をするとしよう」
マルコが短く頷く。
「その方がいい」
ガロが柱材を置きながら、にやりと笑った。
「旦那にうろつかれると、木箱に潰されねぇよう見張っとく係が必要になりそうだ」
「余計なお世話だ」
「さっきの見たあとじゃ、世話もしたくなるってもんだぜ」
荒くれたちが今度こそ笑った。
俺は反論を諦めた。言っていること自体は、相手が正しい。
この空間において、俺はお荷物にしかならないだろう。
なら、宣言通り俺は俺にしかできない選択肢を選ぶ。
笑いが収まるのを待って、作戦室へ戻った。マルコも、力仕事から俺がちゃんと手を引いたか見届けるように、後ろをついてくる。
オーウェンは棚の前で、手元の一覧と中身を見比べていた。俺が入ると、紙束を抱えたまま向き直る。
「さっきの一覧、写しはあるか」
「ありますが……何に使うので?」
「足りない物を、外で見てくる。水回りに灯り、保存用の品。今ここで手に入らないものだ。ついでに、私物も少し見繕いたい」
机仕事は尽きた。力仕事では邪魔になる。なら、活動の場を外に求めるだけだ。
オーウェンは紙束をめくり、写しを一枚抜き出して差し出した。受け取って、外套の内側へ折り込む。
「夕刻までには戻る。何かあれば、マルコに通せ」
それだけ言って、作戦室を出た。
石の通路を数歩進んだところで、背後から声が追いかけてきた。
「……でも、今足りないものって、ヴァレリスの伝手でもすぐには集まらないものばかりですよね。水回りも、灯りも、清め石も。そんな品を、いったいどこで――」
オーウェンの声だ。俺にではなく、そばのマルコへ向けた、半ば独り言のような問い。
返ってきたのは、低い一言だった。
「……まさかな」
俺は足を止めなかった。
二人の会話を背に、通路を進み続ける。
通路は、ただの行き止まりに見える壁で途切れていた。誰も用のない、忘れられた一画。
表のロビーから出る手は、もう使えない。改装で職人が入り込み、昼のうちは人目がある。仮面のまま正面へ出れば、それだけで噂の種になるだろう。
これからの出入りは、この行き止まりの壁――隠し通路からだ。
壁際に、錆と煤で黒ずんだ燭台受けがある。
指を掛け、斜め下へ力をかける。最初は動かない。角度を変え、今度は押し込むように捻った。
かち、と小さく噛み合う手応えが返る。
燭台受けから数歩。目の高さより少し下、古い継ぎ目に見える石へ掌を当て、押し込む。
低い石擦れの音。壁の一角がわずかに沈み、そのまま横へずれた。人ひとりが悠々と通れるだけの闇が、口を開ける。
俺はその中へ入り、内側にある燭台受けを下へ引いた。
背後で石が動く。
壁が元の位置へ戻り、通路の音が遠ざかった。
暗い。
俺は足元を確かめながら進む。
舟寄せや秘密の通路も、いずれ必要な人間に使わせる。荷を運ぶには人手が要るし、組織を動かす以上、全てを自分だけで抱えるわけにはいかない。
だが、出入口には階層が必要だ。
構成員が知っていい道。マルコとオーウェンまでなら知っていい道。俺だけが使う道。
秘密とは、持っているかどうかではなく、どこまで分けるかで決まる。
しばらく進むと、前方で水音が強くなった。
通路の先に、もう一枚の壁がある。
こちら側から出る分には、造作もない。壁際の燭台受けへ指を掛け、下へ引いた。石壁が沈み、横へずれる。
くぐり、向こう側のそれを引いて、壁を戻す。
湿った風が、顔に触れた。
その先は、使われなくなった旧導水路の補修路だった。
足元を細い水が流れている。壁際には人が一人歩ける程度の石の縁が残り、その向こうで水が低く鳴っていた。旧都時代、川から引いた水を市内へ通していた名残だろう。今では大半が忘れられ、ところどころ崩れ、ただ水音だけが残っている。
外からここへ迷い込む者がいたとしても、目にするのは古い水路と湿った石壁だけだ。今閉じた壁を知らなければ、ここが劇場の地下へ通じているとは、まず気づかない。
それでいい。
補修路を進むにつれ、空気が少しずつ軽くなる。やがて前方に、淡い光が見えた。
アルネス川沿いの石積みに開いた、古い暗渠口だ。水面より少し高い位置にあり、人ひとりが身を屈めれば通れる程度の半円の口。外から見れば、旧都時代の排水路がそのまま残っているだけにしか見えない。足元には苔が張り、石は湿っている。好きこのんで入りたい場所ではない。
その手前で、足を止めた。
仮面を外す。外套を畳み、身につけた装備を解いて、まとめて鞄へ収めた。町歩きに障るものは、何ひとつ残さない。
残るのは、目立たない黒髪の若い男だ。
貴族には見えない。商人にも見えない。職人にしては手が荒れておらず、旅人と言い張れないほどでもない。人混みに紛れれば、三歩で誰の視界からも外れる程度の顔。
黒仮面という得体の知れないものは、地下へ置いていく。地上へ上がるのは、どこにでもいる、ただの若い男だ。
身を屈め、暗渠口から河川敷へ出た。
アルネス川の匂いと、地上の光。
久しぶりに浴びる昼の明るさに、目の奥が一度、痛んだ。




