33話 『バスティアの騎士 後編』
◇ ◇ ◇
セリア視点
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町の北へ向かうほど、道は緩やかに上っていく。
商業地区を抜け、貴族街の整った石畳を過ぎると、人の気配が薄れ、代わりに古い石壁が両側にせり出してきた。旧王都の名残だ。バスティアという都市は、この北の一画から始まり、長い年月をかけて南へ裾を広げてきた。だから、最も古いものほど、北にある。
そして、その貴族街のさらに先。町の北端に、それは聳えていた。
バスティア城。
背後に、切り立った山が壁のように迫っている。城は、その山肌を背負うように建っていた。逃げ場のない北を山に預け、正面だけを町へ向けた構え。攻める者には険しく、守る者には心強い、古い時代の発想だ。
石造りの城壁。幾本もの塔。高い屋根。どれも堂々としているが、近づけば年季が見える。風雨に削られた石の角、補修の継ぎ目、苔の張った北面。新しさはない。だが、古さがそのまま重みになって、町の上に静かにのしかかっている。
(……変わりませんね、いつ見ても)
幼い頃から見上げてきた城だ。
堅牢で、古く、そして少しだけ、寂しい。
セリアは城門へと馬を進めた。
跳ね橋を渡り、外門をくぐる。顔見知りの衛兵が槍を立て、道を空けた。
そして、内庭へ通じる門の前で――セリアは、呼び止められた。
数人の貴族が、待ち構えるように立っていた。
仕立ての良い外套。磨かれた靴。朝の早くから城前に出張ってくる、それだけの暇と、それだけの言い分を持った者たちだ。
「セリア殿」
最初に口を開いたのは、声の大きな男だった。ベルトラン・ヴァイス子爵。
「ちょうどよい。お話があります」
「ヴァイス子爵。おはようございます」
セリアは馬を降り、礼を返した。
「お急ぎでなければ、後ほど改めて――」
「いや、今でなければ」
ベルトランは、待てなかった。
「リーメスの一件です。教会が崩され、監督司祭は、護衛の騎士もろとも、一人残らず殺された。神に仕える者が、その神の家で、ですよ」
声は、早くも尖っている。
「下手人は捕らえた、と聞きました。ええ、一度はね。――それを、あの脱獄騒ぎで、みすみす取り逃がしたそうではありませんか」
セリアの胸の内が、わずかに沈んだ。
その通りだった。教会を滅ぼした下手人は、確かに捕らえ、大監獄へ送られた。そして、あの大脱獄の夜――他の囚人もろとも、消息を断っていた。
「あれから、もう何日になります」
ベルトランは、畳みかけた。
「捕らえた咎人すら、繋ぎとめておけない。その間に脱獄囚は町で好き放題、貴族が一人、屋敷ごと焼かれて死んでいる。セドリック卿ですよ。次は誰だと、皆が怯えている」
唾を飛ばさんばかりの勢いだった。
「もっと衛兵を増やしなさい。町の出入りを締め、怪しい者は片端から引き立てる。それくらいの強い手を打たねば、示しがつかんでしょう。あなた方騎士団は、いったい何を守っているのです」
言葉は、痛いところを的確に突いていた。
民が怯えている。秩序が揺らいでいる。捕らえた下手人を、脱獄で失った。どれも、事実だ。
セリアは、目を逸らさなかった。
「――おっしゃる通り、教会を守れず、捕らえた者を脱獄で取り逃がした。その責めは、騎士団が負うべきものです。言い逃れる気はありません」
まず、それを認めた。
ベルトランが、束の間、言葉に詰まる。これほど攻め立てている相手が、まっすぐに頭を垂れるとは、思っていなかったのだろう。
だが、セリアは、そこで終わらなかった。
「ですが、ヴァイス子爵。怪しい者を片端から引き立てよ、というのは――承服しかねます」
「……何だと」
「町の出入りを締め、誰彼かまわず誰何して回れば、確かに、目に見える安心は作れましょう。ですが、そうして引き立てられる者の多くは、ただ怯えて暮らしている民です」
セリアは、まっすぐにベルトランを見た。
「民を守るための剣で、民を怯えさせるわけにはいきません。順序を、間違えるわけにはいかないのです」
ベルトランが、ぐ、と喉を鳴らした。
その横で、別の貴族が、ゆっくりと口を開いた。
「お若いのに、ご立派なお考えだ」
滑らかな声だった。アルヴィン・ロートナー伯爵。
ベルトランが熱で押すなら、こちらは脂だ。柔らかく、隙がなく、それでいて、人を値踏みするような目をしている。
お若いのに、と。
見た目は、年若い娘のそれだろう。けれど、セリアがこの世に生を享けてから、もう百年以上が過ぎている。
その身に流れる、エルフの血。それが、セリアの時を、人よりもずっと緩やかに刻ませる。今この場に居並ぶ貴族たちも、いずれは老い、土へ還っていく。その何代あとまで、自分はきっと、この姿のまま残るのだろう。
この場の誰より長く生きているのは、ほかならぬ自分だ。――そのことを、この男は知らない。あるいは、知った上で、言っている。
「……お気遣い、痛み入ります」
セリアは、表情を変えず、ただ静かに受け流した。
「これは異なことを、ロートナー伯」
すかさず、横から別の貴族が割って入った。やや年配の、堅物らしい男だ。
「お若いのに、などと。こちらはジルヴァン王家の血を引かれる、高貴なる御方であらせられるぞ。言葉が過ぎよう」
「おお、これは失礼を」
アルヴィンは、悪びれもせず頭を下げた。
「では、お若くはあられぬ、と申し直しましょうか。――いや、これもまた失礼か」
最後のひと言にだけ、声に薄い笑いが混じった。
訂正のふりをして、もう一度、同じ刃を差し込んでくる。
王家の血と、エルフの血。そのどちらにも、長く塔に閉じ込められていた歳月にも、自分は完全には馴染めなかった。王家にも、エルフにも、この公爵家にすら、属しきれない――そんな自分の在りようを、この手の言葉は、いつも的確に撫でていく。
それでも、セリアは眉一つ動かさなかった。
(……慣れています)
動じて見せれば、それこそ相手の思う壺だ。
「ご丁寧に、痛み入ります」
もう一度、同じ言葉を返す。声には、波一つ立てなかった。
そして、その時だった。
「やめないか、二人とも」
穏やかな、しかしよく通る声が、割って入った。
それまで黙っていた、口髭の整った男だった。ダミアン・カレル伯爵。
「セリア殿は、夜通し働いて戻られたばかりだ。城門前で詰め寄るなど、礼を欠く。違うかね」
「……これは、失礼を」
ベルトランが、ばつ悪げに退く。アルヴィンも、滑らかに笑って一歩引いた。
「お気になさるな、セリア殿」
ダミアンは、セリアへ向き直った。
「皆、町を案じているだけだ。言い方がきついのは、許してやってほしい」
一見、誰よりも理の分かった態度だった。
だが――
「ただ、一つだけ」
ダミアンは、最後に、静かに付け足した。
「教会への説明だけは、急がれた方がよい。司祭一行が一人残らず討たれたとなれば、教会も黙ってはいまい。彼らは王都にも顔が利く。あちらが不安に思えば、面倒なことになる。あなたのためにも、エドガー公のためにも、ね」
穏やかな声だった。
脅しの欠片もない。
だからこそ、その言葉だけが、錘のように残った。
「……ご忠告、感謝します」
セリアは、礼を返した。
貴族たちが、それぞれに会釈し、散っていく。
その背中を見送りながら、セリアは思い出していた。
破り取られた、帳簿の一枚を。
誰かが、上にいる。金を流し、目を逸らし、町を歪めている誰かが。今、目の前を去っていった貴族たちの中に、その顔が混じっているのかもしれない。
だが――
(分からない)
ベルトランの苛立ち。アルヴィンの、露骨なまでの欲。ダミアンの、行き届いた礼節。
どれも、それらしく見えて、どれも、決め手にはならない。
最も腐って見える者が、最も深く腐っているとは限らない。破り取られた頁がそうであったように、本当の名は、いつも見えない所に隠されている。
セリアは、貴族たちの去った門を、しばし見つめた。
それから、背筋を伸ばし、城内へ足を踏み入れた。
城の奥は、静かだった。
貴族たちの目も、部下たちの目も届かない廊下に入って、セリアはようやく、肩から力を抜いた。
疲れが、足の裏から這い上がってくる。夜通しの包囲。突入。摘発。帳簿の前で巡らせた考え。そして、城門前のやり取り。体の芯が、鉛のように重い。
(……少し、疲れましたね)
弱音は、口の中だけで溶かす。
誰も見ていない廊下でなら、ほんの一瞬くらい、人並みに疲れた顔をしてもいいだろう。
だが、それも一瞬だった。
長い廊下の、一番奥。重い扉の向こうに、あの人がいる。
あの人の前で、疲れた顔は見せられない。
セリアは立ち止まり、背筋を伸ばし直した。
エドガー・アウレリア・バスティアン。
王弟にして、バスティアを治める公爵。この町の領主であり――そしてセリアにとっては、ただ一人、父上と呼ぶことを許された人だ。
近頃、その身体は、めっきり弱っていた。
寝台から起き上がれる日のほうが、少なくなっている。会うたびに、頬の肉が削げ、声が細くなっていくのが分かる。
(案じる顔も、見せられない)
病床の父に、娘の不安まで背負わせるわけにはいかない。
それに――今、この扉を叩くのは、娘ではない。
夜の町で何が起きているのかを、ありのままに伝えなければならない、一人の騎士だ。
報告すべきことは、多い。
ロドム一派の摘発。久方ぶりの、確かな戦果。
その奥に、上の後ろ盾の影が見えること。破り取られた、帳簿の一枚。
だが、脱獄の主犯に繋がる証拠は、何一つ出なかったこと。
セドリック卿の死。リーメスの教会。城門前で詰め寄ってきた、貴族たちの抗議。
どれも、弱った父の心を、安らがせる話ではない。
それでも、伝えなければならない。隠して守れるほど、事態は甘くない。
セリアは、扉の前で足を止めた。
一度、目を閉じる。息を、整える。
胸の奥の、娘の顔を、そっとしまい込む。残すのは、騎士の顔だけ。
そして、静かに、扉を叩いた。
「セリアです。報告に参りました」
「……入りなさい」
扉の向こうから返ったのは、細い声だった。
セリアは扉を開け、足を踏み入れる。
部屋は薄暗く、暖炉の火だけが赤く揺れていた。薬湯の匂いが、空気に低く沈んでいる。寝台に身を起こしたその人は、厚い夜着の上からでも、肩のあたりが以前より痩せたのが分かった。
エドガー公。
病が、確かにこの人を削っている。それでも、こちらへ向けられた目だけは、昔と変わらず穏やかで、底に静かな光があった。
「報告に参りました」
セリアは胸に手を当て、騎士の礼をとる。
「下町の賭場を一つ、摘発しました。地回りの顔役、ロドム・ガイス以下十数名を捕縛。脱獄囚も数名、混じっておりました」
「うむ」
「ただ、脱獄の主犯に繋がる証拠は、出ませんでした。賭場の帳簿には、出所の知れぬ金の流れがあり……その記録の一枚だけが、破り取られておりました」
セリアは、そこで一拍置いた。
「下町の小悪党だけで、回せる規模ではありません。おそらく、上に――誰か、後ろ盾が」
言いかけて、エドガーの表情が、わずかに翳ったのが見えた。
驚きではない。怒りでもない。ただ、疲れた人が、痛むところをそっと押さえるような――そういう、静かな曇り方だった。
「……そうか」
それだけだった。
誰、とは問わない。あり得ぬ、とも言わない。まるで、その影の存在を、とうに知っているかのように。
セリアは続きを呑み込んだ。この人は、王都の権力争いから、自ら退いた人だ。宮廷の澱みを、見ないのではない。見た上で、深入りせずにきた人なのだと、改めて思う。
「リーメスの件、セドリック卿の件も――」
「もうよい」
エドガーは、ゆっくりと手を上げた。
「報告は、それで十分だ。残りは、文書で目を通そう」
そして、その手を、こちらへ差し招くように動かす。
「こちらへ、おいで。そんな所に突っ立っていられては、こちらが落ち着かん」
その瞬間、部屋の温度が変わった。
領主と騎士から、もっと古い、もっと近しい何かへ。
セリアは、ほんの一拍ためらってから、寝台の脇へ歩み寄り、傍らの椅子に腰を下ろした。鎧の冷たさが、急に場違いに思えた。
「顔色が良くないな。眠れているのか」
「父上こそ。薬は、きちんと召し上がっていますか」
「あれは苦くてかなわん。お前が見ていない隙に、半分は鉢植えにやっている」
セリアは、思わず笑ってしまった。
「……それでは、花が枯れますよ」
「ああ、枯れた。見事にな!」
エドガーも、目尻に皺を寄せて笑う。咳が一つ、その笑いに混じった。
他愛のないやり取りだった。けれど、その他愛のなさが、夜通し張り詰めていたものを、少しずつ解いていく。冷えた門の前で浴びせられた言葉の数々が、ここでは遠い。
しばらく、二人で取り留めのない話をした。城の庭の話。古い書物の話。エドガーがまだ年若い時分、二人で並んで同じ書物を読みふけった、遠い日の話。
「あの頃のお前は、わたしが頁をめくるのが遅いと、よく拗ねていたな」
「……覚えておいでですか。子供だったのは、そちらの方でしょうに」
「はて、どうだったか」
とぼけるその横顔を、暖炉の火が照らす。皺の刻まれた、けれどどこか少年めいた表情だった。長い歳月、隣に在り続けた者だけが浮かべる、気の置けない笑み。
ふと、会話の途切れ間に、エドガーが言った。
「――それで」
声の調子は、変わらず穏やかだった。
「城の前で、誰かに、何か言われたかい」
セリアの肩が、わずかに揺れた。
「……いいえ。大したことでは」
「セリア」
名を呼ぶ声は、咎めるものではなかった。ただ、静かに、見透かしていた。
「お前が、その『大したことでは』を口にする時はな。たいてい、何かを言われた時だ。――わたしが子供だった時分から、お前はちっとも変わらん。どれだけの時を、隣で見てきたと思っておる」
セリアは、目を伏せた。
この人には、敵わない。剣も、地位も関係なく、ただ長く隣にいた者の目が、内側を読んでしまう。
「……年のことを、少し」
ようやく、それだけを口にした。
エドガーは、しばらく黙っていた。
それから、痩せた手を伸ばし、セリアの手の甲に、そっと重ねた。冷えた籠手の上から。骨ばって、けれど温かい手だった。
「気にすることはない。あの手合いは、自分が触れられないものを見ると、貶さずにいられんのだ」
穏やかな声だった。
「わたしはな、セリア。お前が塔にいた頃から、お前を知っている。だから、これだけは言える」
指先に、わずかに力が籠もる。
「お前は、長い時の中で、少しも腐らなかった。怯えもせず、ひねくれもせず、まっすぐなまま、ここまで来た。――それが、どれほど得難いことか。歳を重ねた者ほど、よく分かる」
その目が、ほんの一瞬、セリアの顔の上で、和らぎ以上の何かに揺れた。けれど、それが何の色だったのかを、セリアが捉えるより早く、エドガーは静かに目を細めただけだった。
「あんな連中の言葉で、自分を安く見るな。お前の値打ちは、お前が一番、分かっていないのだから」
セリアは、何も言えなかった。
ただ、籠手の上に重ねられた手の温かさが、目の奥を、不意に熱くした。
「……はい」
かろうじて、それだけを返す。
声が、少しだけ揺れていた。
エドガーは満足げに頷き、そして、ゆっくりと寝台へ背を預けた。短いやり取りだったはずなのに、その横顔には、隠しきれない疲労が滲んでいた。胸が、浅く上下している。
「……父上。お疲れでしょう。今日は、もう」
「うむ。少し、眠るとしよう」
目を閉じかけて、エドガーは、ふと付け足した。
「セリア。よく、戻った」
たった、それだけの言葉だった。
けれど、城門前で浴びた、あの幾百の言葉よりも、ずっと深く、胸に届いた。
セリアは立ち上がり、もう一度、騎士の礼をとる。そして、扉の前で振り返った。
暖炉の火に照らされた父の寝顔は、穏やかで――そして、ひどく小さく見えた。
この穏やかな時間が、あと、どれだけ残されているのだろう。
その問いだけは、答えを探すのが怖くて、セリアは静かに扉を閉めた。




