31話 『ヴァレリスの残り火』
支配人室を出る。
廊下にはもう誰もいなかった。ユリアンもオーウェンも、すでに姿はない。
静寂に包まれたロビーを横切り、立入禁止のロープを跨いで階段を降りた。
昨日まで空だった地下に、人の体温が残っていた。通路の端に荷物が寄せられ、壁際には外套を敷いた跡がある。どこかで荷を引きずる音と、低い話し声。
人が住み始めた気配だ。
階段を降りきったところに、荒くれが一人いた。木箱の上に腰を下ろして、見張りのつもりらしい。俺の姿を認めると、慌てて立ち上がる。
「手の空いている者を集めろ。作戦室に来るよう伝えてくれ」
「作戦室? どこのことで?」
「舟寄せに一番近い部屋だ」
「へい、すぐに」
荒くれが通路の奥へ走っていく。
俺はその部屋へ向かった。昨夜、マルコたちと最初の打ち合わせをした場所だ。テーブルと長椅子がある以外は何もない。
少し待つと、人が集まり始めた。
最初にマルコが入ってきた。腕を組んだまま、部屋の隅に背を預ける。続いてガロが荒くれ数人を連れて入り、リディアは若い女性たちと一緒に扉の近くに立った。
ミランダは最後だった。壁に肩を預けて、俺の傍に立つ。全員が見渡せる位置だ。
オーウェンの姿はない。彼には今しがた別の仕事を振ったばかりだ。しばらくは戻らないだろう。
俺はテーブルの前に立ち、仮面の奥から集まった顔を見渡した。
貴族の令嬢、没落商会の番頭格、脱獄囚、復讐者、慰み者にされていた女たち、行き場を失った荒くれ。
綺麗な始まりではない。
だが、綺麗な人間だけで作った組織に、この世界は救えない。
「では始めるとしよう。シンジケートの、記念すべき初会議だ」
俺はそう宣言する。
聞き慣れない響きが、石壁の部屋に残った。
「しんじけーと……?」
ガロが眉を寄せた。
「何だそりゃ」
「聞いたことねぇな。どこの言葉だ?」
荒くれの一人も首を捻っている。リディアやマルコ、ミランダは反応しなかった。昨夜の会議で、すでに聞いている。
「今後我々が使用する組織の名だ。覚えておけ」
それだけ言って、本題に入った。
「まず、一番の穴から塞ぐ。ロビーから地下への階段には、ロープと立て札しかない。今朝、それだけでは止まらない人間がいた」
荒くれの何人かが顔をしかめた。朝方の青瓢箪騒ぎを思い出したらしい。
「鍵付きの格子扉を据える。これが最優先だ」
ひと呼吸置いて、続けた。
「舟寄せの整備と倉庫区画の設置も急ぐ。物資の出入りと保管が安定しなければ、拠点にはならない。禁制品と通常の荷物は分けて管理する。それから生活基盤だ。飲み水の確保、火を扱える場所、寝具、部屋割り。ただ隠れるだけではなく、暮らせる形にする」
そこで言葉を切った。
「大枠は以上だ。他に足りないもの、必要だと思うものがあれば言って欲しい」
少しの間、誰も口を開かなかった。荒くれたちは顔を見合わせている。
「ここに住むって言うなら、最低限お風呂は欲しいわよねぇ」
「風呂か」
「そう、お風呂よ」
ミランダは当然のように言った。冗談を言っている顔ではない。いや、半分は面白がっているのだろうが、残り半分は本気だ。
風呂。
隠れ家に置く設備として考えれば、明らかに贅沢品だ。湯を沸かすにも、水を引くにも、排水を整えるにも手間がかかる。金も人手も食う。今の段階で優先するものではない、と切り捨てる理由はいくらでもあった。
だが、若い女たちの反応を見て、その判断は止まった。
誰かが、胸元を押さえている。誰かが、隣の女の袖を掴んでいる。声には出さない。ただ、その一言にだけ、縋るような気配があった。
北塔で何をされ、どんな場所に閉じ込められていたかは、全員が知っている。水で体を拭くだけでは足りない。汚れを落とし、匂いを落とし、肌に残った監獄の感触を剥がす場所が要る。
清潔さは、ただの快適さではない。
人間としての形を取り戻すための設備だ。
「……わかった。浴室は入れる」
ミランダが満足げに口元を上げた。
「ふふ、話が分かるじゃない」
「必要だと判断しただけだ。別にお前のためではない」
「あら、残念」
軽口はそこで切った。
リディアが、若い女たちの方を見たまま、静かに頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。作ってから言ってくれ」
そう返して、次の顔を見る。
「他には」
「おう、ついでに言わせてもらうぜ」
ガロが太い腕を上げた。
「体を動かせる場所が欲しい。穴蔵に詰め込まれたまんまじゃ、腕が鈍る。いざって時に使いもんにならなくなっちまう」
「空いている大部屋を一つ、そちらに回す。本格的な設備は後だ」
「それで十分だ」
「ただし、喧嘩場ではないぞ」
先に釘を刺すと、ガロの顔から少しだけ期待が消えた。
「勝手に殴り合う場所でも、賭けを開く場所でもない。警備と荷運びに使える体を維持するための施設だ」
「へいへい。分かってるよ」
「へいは一回でいい」
マルコが低く言うと、ガロは口を曲げた。
「……へい」
荒くれたちの何人かが、声を殺して笑う。
その緩みを、俺は長くは置かなかった。
「それと、この部屋は今後、作戦室として使う。報告と指示はここに集める。地図や書類も置くことになるだろう。出入りできる者は絞らせてもらうぞ」
マルコが短く頷いた。
「その方がいい。誰でも入れる部屋にしちまうと、置けるもんも限られる」
「細かい運用はお前に任せる」
「ああ」
倉庫や危険物の管理は、すでにマルコが見ている。ここで改めて同じ話を繰り返す必要はない。今決めるべきは、この地下を動かすための設計図。それだけだ。
入口を塞ぐ格子扉。舟寄せ。作戦室。寝床。水回り。浴室。訓練場。
まだ足りない。だが、何を足りないと呼ぶべきかは見え始めている。
「他にも出るだろうが、今この場で全てを決める必要はない」
言って、俺は鞄から紙とインク壺を取り出し、机の上に置いた。
「次だ。各自、生活に必要なものを書き出せ。我々は現状、外で自由に買い物ができる立場にない。調達は基本、ヴァレリス商会を通すことになる。今から、ここで暮らすために必要な物資をまとめてもらう」
荒くれたちの顔に、分かりやすい戸惑いが浮かんだ。
殴れ、運べ、見張れならできる。
だが、必要な物資をまとめろ、と言われてすぐに動ける連中ではない。
「字が書けない者は、無理に書かなくていい。口で言え。聞き取る者をつける」
マルコが荒くれたちを見た。
「お前らは俺が聞く。馬鹿なことを言ったら、その場で消すぞ」
「へいへい」
「へいは一回だと言ったろ」
今度はガロが言った。荒くれの返事が引っ込む。
俺はリディアへ視線を移した。
「女性陣の分は、リディア嬢にまとめてもらいたい。必要な衣類、寝具、洗身に使うもの。無理のない範囲でいい」
「承知しました」
リディアが静かに頷く。
「ねぇ、私の分は?」
ミランダが横から口を挟んできた。
「最低限なら書いていい」
「最低限の基準が、人によって違うと思うのだけれど」
「では答えは決まっている。お前の基準では書くな」
「あら、ひどい」
「ひどくて結構。それに、どうせお前は勝手に外をうろつくのだろう?」
「ま、それもそうね」
ミランダは気にした様子もなく、適当に紙に何かを書き込み始めた。
こいつに限って言えば、欲しいものは自分で手に入れてくる。いちいちこっちが準備してやる必要もない。
俺は集まった全員へ声を向ける。
「まずは、ここで生きるために必要なものを出せ。贅沢は後だ。欲しいものではなく、無ければ困るものを書け」
紙が回ると、部屋の中に不慣れな沈黙が落ちた。
荒くれたちは互いに顔を見合わせ、若い女たちはリディアの手元を見つめている。マルコは早くも荒くれの一人から話を聞き取り、短い言葉で紙に落としていた。
紙が集まり始めた頃、扉が控えめに叩かれる。
「失礼します」
入ってきたのはオーウェンだった。目の下の隈は先ほどのまま、その上に新しい疲労が重なっている。
「遅くなりました。ユリアン様との打ち合わせを済ませてきました」
「どうだった」
「段取りは決まりましたよ。ただ、細かい手配はほぼ全てこちらに一任されまして……」
やるせない顔だった。やはりというべきか、あの道楽貴族に帳簿と発注書を読む目はないらしい。その分の重さが、この青年の肩に全て載っている。
「……やれそうか? オーウェン」
マルコが気遣うように、声をかける。
「はい、兄貴。できる限りのことは、やってみるつもりです。……ただ、在庫が持つかどうか。一度店に戻ってみないことには何とも言えません」
「ご苦労だった。座ってくれ」
会話が落ち着いたところで、そう促した。
オーウェンが空いた長椅子に腰を下ろす。
「ちょうどいい。今、必要な物資を洗い出していたところだ。調達は基本、ヴァレリス商会を通すことになる。どこまで可能だ?」
「拝見します」
集まった紙をテーブルの上に並べた。オーウェンが身を乗り出し、リストに目を走らせ始める。
オーウェンの指が、紙の上で止まった。
水回り。寝具。衣類。格子扉。修繕材。火を使う設備。灯り。食料の保管に使う魔道具。洗身に使う桶や布。浴室に必要な石材と排水の工事。
並べれば並べるほど、物資の量が見えてくる。
オーウェンは一枚目を読み終え、二枚目へ移った。眉間に薄く皺が寄る。声を出す前に、もう答えが顔に出ていた。
「……これを、全部ですか」
「何をそんな渋い顔してんだ」
ガロが太い腕を組んだまま、一歩前に出た。
「商会があるんだろ。ヴァレリスとかいう、でかいやつがよ。だったらそこで全部揃えりゃ済む話じゃねぇか」
部屋の空気が変わる。
だが、ガロは気づいた様子もなく首を傾げた。
悪気はない。
本当にそう思っている顔だった。商会というものが、品物を右から左へ動かす便利な箱に見えているのだろう。
オーウェンの表情が、少しだけ曇った。
「……それが、そう簡単にはいきません」
「あ?」
「今のヴァレリス商会は、大きな取引を動かせる状態ではないんです」
部屋の空気が、ゆっくりと重くなる。
荒くれたちの何人かは、まだ意味を掴めていない顔をしていた。だが、マルコは黙ったまま、オーウェンを見ている。リディアは、紙を持つ手を胸の前で止めた。
オーウェンは一度だけ息を整えた。
「前当主――リディア様のお父上は、殺されました。屋敷は焼け落ち、マルコの兄貴は事件の主犯として捕らえられた。リディア様は死亡したものとして扱われています」
誰も口を挟まなかった。
「外から見れば、ヴァレリス商会には正式な後継者がいません。帳場を仕切っていた番頭は捕まり、当主の血筋も途絶えた。そう見られているんです」
「店は残ってんだろ?」
ガロが、まだ納得しきれない声で言う。
「もちろん、残っていますよ」
オーウェンは頷いた。
「本店も、倉庫も、一部の取引も。ですが、商会は建物だけでは動きません。信用と、契約と、誰が責任を取るのかで動いています」
その言葉は、妙に重かった。
準備もなく担ぎ出された若い番頭が、背負わされてきたものの重さそのものだった。
「今のヴァレリスに、新しく大きな取引をしてくれる相手はほとんどいません。昔から付き合いのある相手が、ごく一部だけ取引を続けてくれている。それと、残された在庫。今はそれだけで、どうにか形を保っている状態です」
「……だろうな」
マルコが低く言った。
オーウェンは否定しなかった。
「はい。正直に言えば、時間の問題です。在庫が切れれば止まるものもあります。古い伝手も、いつまでも待ってはくれません」
リディアが、ゆっくりと顔を上げた。
その顔色は悪い。けれど、視線だけは揺れていなかった。
「私が……表に出れば、どうなりますか」
細い声だった。
だが、部屋の中でよく通った。
オーウェンは、すぐには答えなかった。マルコの視線が彼へ向く。答えるなら、誤魔化すな。そんな圧があった。
「リディア様が生きていると公にできれば、経営権は前当主からの遺産として継承できる可能性があります」
オーウェンは慎重に言葉を選んだ。
「ですが、それだけでは足りません」
「足りない?」
「商会設立の許可証原本。それから、王印状と関連書類。そうしたものがなければ、継承しても新しく商会を立ち上げるのと大差ありません。少なくとも、昔の取引をそのまま戻すことはできない」
王印状。
その言葉に、マルコの顔がわずかに険しくなる。
「王家御用達の看板、か」
「はい。王印状があったから成立していた取引もあります。あれを示せなければ、取引停止や取消をされても文句は言えません」
オーウェンは、紙から目を離した。
「そして、その原本類がありません」
ガロが眉を寄せる。
「焼けたのか?」
「……いいえ」
オーウェンの声が、そこで沈んだ。
「焼け跡は調べました。屋敷は酷い有様でしたが、本来なら残っているはずの金庫が見つからなかったんです」
金庫。
その一言で、マルコの目つきが変わった。
「あの金庫は、火で消えるような代物じゃねぇ」
短い断言だった。
「見つからねぇなら、誰かが運び出したってことになるが……」
部屋の中に、嫌な沈黙が落ちた。
火事で失われたのではない。
誰かが、ヴァレリス商会の心臓にあたるものを持ち去った。
それだけが、今この場にある事実だった。
「状況はわかった。話を整理しよう」
俺は声を全員へ向けた。
「金庫が消えたなら、中身はまだどこかにある。焼けたのではなく、持ち去られた。つまり、取り戻す道はまだ残っている」
そこで、リディアの方を見た。
「だが、リディア嬢。今の段階で君を表に出すわけにはいかない」
リディアの目が、真っ直ぐにこちらを見返してきた。
「君が生きていると知られれば、事を起こした側にとっては最大の不始末になる。当主を殺し、後継者を拉致し、商会を潰した。その筋書きは、君が死んでいることで成り立っている」
「生きていたとなれば……」
「消しに来る。確実にな」
ガロが眉を吊り上げた。
「おい。そんなこと、させていいのかよ」
「させないさ。そのために今この話をしている」
マルコが壁から背を離した。
「お嬢が消えりゃ、ヴァレリスには正当な持ち主がいなくなる。解体するなり喰い散らかすなり、好き放題だ。あいつらにとって、お嬢が一番邪魔なんだよ」
低い声だったが、怒りが滲んでいた。
「条件が揃うまで、リディア嬢は隠す」
俺は指を折った。
「必要なのは三つ。守りきるだけの戦力。王印状と関連書類の奪還。そして背後にいる連中の特定だ。この三つが揃わない限り、表には出せない」
リディアの表情は変わらなかった。
消しに来ると言われて、怯える気配がない。北塔で過ごした日々を思えば、今更この程度の話で取り乱す女ではなかった。
「……承知しました。今は、隠れます」
声は細い。だが、折れてはいなかった。
「ただ、ヴァレリスの名は捨てません。それだけは」
短い一言だった。掠れた声の、たった一行。
だがその一行に、この場にいる誰も口を挟まなかった。
「……ああ。それでいい」
俺はそう返して、テーブルの上の紙に目を落とした。
「足りないものは山ほどある。だが、ヴァレリスが今すぐ全てを揃えられないなら、できることから手を打つ」
顔を上げた。
「オーウェン。リストの中から、今の在庫と古い伝手で賄えるものを抜き出してくれ。マルコは、地下で動かせる人手と、すぐに手を入れられる場所を見繕え」
「わかりました」
「任せろ」
二人がリストを挟んで頭を寄せ始める。ガロが荒くれたちに顎で合図を送り、部屋の外へ動き出した。
リディアは女性たちの方へ戻り、小さな声で何かを伝えている。紙を手にした女性の一人が、おずおずと口を開いた。さっきまでとは、顔つきが少し違う。自分にも役割があると分かった時の顔だった。
ミランダだけは壁に寄りかかったまま動かない。ただ、全員の動きを目で追っている。
マルコが部屋を出る間際に、振り返った。
「大将。格子扉の寸法、今日中に測っておく」
「頼む」
皆が皆、自分の仕事を見つけて動き出す。
この瞬間、拠点の改装は始まっていた。




