30話 『幕の下りた劇場』
会議が終わると、その夜はそれで解散になった。
一日で背負ったものが多すぎて、今夜はもう、誰の頭もまともに回らない。
荒くれたちは右手の大部屋へ転がり込み、女性陣はリディアに連れられて貴賓室区画へ下がっていった。マルコは最後まで荷の山を検めていたが、それもじきに切り上げた。
俺は舟寄せに近い小部屋の一つを、仮の自室と決めた。長椅子に外套を広げ、その上へ身を横たえる。石壁の部屋は冷えていたが、寒さを気に病むだけの余力も残っていなかった。
仮面を外し、顔のすぐ脇に置く。
目を閉じると、まぶたの裏が鉛のように重かった。
◇ ◇ ◇
次に意識が浮いた時、部屋の様子は寝入る前と何ひとつ変わっていなかった。石壁の色も、灯りの揺れ方も、空気の冷たさも。
地下には朝も昼もない。窓ひとつないこの部屋では、時間は光では計れなかった。
俺は外套の内側から懐中時計を取り出した。蓋を開け、針を確かめる。
昼前。思ったより長く眠っていたらしい。それでも、体の芯に絡んだ疲れは抜けきっていない。
この世界で目覚めてからこちら、一日として体を休めた日がない。もともと丈夫な体ではなかった。動けるうちに動く、それはいいとしても、いざという時に足がもつれては元も子もない。近いうちに、まとまった休息を取る算段も立てておく必要がある——
そこまで考えたところで、扉が鳴った。
強い。三度続けて、遠慮のかけらもない叩き方だった。
俺は顔の脇から仮面を取り、手早く着けた。外套を肩へ回し、襟を直す。
素顔を晒すわけにはいかない。この地下にいる人間のほとんどは、俺を「仮面の男」としてしか知らない。それでいい。
「入れ」
扉が開いた。
入ってきたのは、荒くれの一人だった。脱獄囚あがりの、肩幅の張った男だ。昨夜の荷運びで何度か見た顔だが、名はまだ頭に入っていない。
「失礼しやす、仮面の旦那」
男は扉のそばで足を止め、頭を一つ下げた。
「その、突然妙な青瓢箪が地下に降りてきやして。わけの分からねぇことを喚き散らしてやす」
「青瓢箪?」
襟を直す手が止まった。
「ふむ。どんな内容だ」
「その……ファントムを出せだの、自分は芸術に愛されているだのと……」
男は心底うんざりした顔で、首の後ろを掻いた。
「正直、イカれた類だと思いやすがね。どうしやす?」
言いながら、男は親指を立て、自分の喉元を横へ滑らせてみせた。
始末しますか。
声に出さない問いだった。脱獄囚あがりのこの男にとって、得体の知れない闖入者の扱いなど、迷うほどのことでもないらしい。
だが、こちらには心当たりがありすぎる。
ファントム。芸術に愛されている。その二つだけで十分だ。地下くんだりまで降りてきて、わけの分からないことを喚く青瓢箪――あの芝居狂いの貴族以外に、該当する人間がいるはずもない。
問題は、なぜユリアンがこの地下にいるか、だが。
「待て。早まるな」
俺は声を落とした。
「その人物には心当たりがある。むしろ、始末などされては困る相手だ」
男が親指を下ろした。気抜けした顔をしている。せっかくの判断が無駄になった、とでも言いたげだった。
「旦那の知り合いで? あんなのが?」
「ああ。すぐに行く。案内しろ」
俺は外套の前を合わせ、襟元から袖口まで、素顔へ繋がる隙がないことを確かめた。仮面の縁を指で押さえ、ずれがないことも。
案内の荒くれに続いて通路を進むと、声が先に聞こえてきた。
甲高い。興奮した人間に特有の上ずった声だ。石壁に反響して、通路の先まで転がっていく。
角を曲がると、予想通りの光景があった。
若い男が、荒くれ二人に両腕を掴まれている。
青みがかった上衣。仕立ては悪くないが着崩れて、襟元が乱れている。顔色は蝋のように白く、目の下に隈が落ちていた。だが、目だけが異様に光っている。寝ていない人間の目だ。理性の箍がどこか一本、外れかけている。
ユリアン・エヴェレット。劇場の表に立つ顔として、こちらから引き入れた相手で間違いはない。ないのだが――
「だから! ファントムに会わせろと言っているだろう!」
ユリアンは荒くれの腕を振りほどこうともがきながら、通路いっぱいに声を張っていた。
「私はこの劇場のオーナーだ! 所有者が自分の劇場に立ち入って、何が悪い!」
「構わない。離してやれ」
声をかけると、荒くれが振り返った。同時に、ユリアンの目がこちらを捉える。
見開かれた両目に、一瞬で光が灯った。
「ファントム!」
荒くれの手を振り払い、ユリアンがこちらへ駆け寄る。
「おお、ファントム! お会いしたかった!」
「……歓迎するよ、ユリアン。だが、まず落ち着いてくれ」
片手を上げて制してから、聞いた。
「その、ファントムというのは――私のことかね」
「もちろんです!」
ユリアンは目を輝かせた。
「昨夜語っていただいた、あの壮大な物語――忘れるものですか! 歌劇場の地下に棲む芸術の化身、仮面の怪人。あなたにこれほどぴったりの呼び名がありましょうか!」
そこで一瞬、声をひそめるようにして、
「僕にはわかりますよ。あの怪人は——ご自身がモデルなのでしょう?」
ファントム。俺があの夜語った『オペラ座の怪人』に登場する、仮面の怪人の名だ。
地下に棲み、仮面で顔を隠し、歌劇場の闇から全てを操る男。たしかに、ユリアンの目にはそう映るのかもしれない。だが、当然モデルは別人だ。そもそも自分がモデルなら、あんな悲劇にするわけがない。
「買いかぶりだよ」
短く返した。否定も肯定もしない。ユリアンがどう思い込もうと、話が前に進むならそれでいい。
「それより、昨夜から寝ていないだろう。何があった」
「聞いてください!」
堰が再び切れた。
「あの物語を——『歌劇場の怪人』を、僕は昨夜ずっと書いていたんです! あなたが語ってくださった筋書き、構造、あの主題曲! 脚本に起こさずにはいられなかった!」
「それは結構だが——」
「そして今朝、劇場の所有権を正式に取得してきました! 領主府は維持費に困っていたらしく、話はすぐにまとまりましたよ。これでもう、この劇場は僕たちのものです!」
止まらない。次から次へと溢れてくる。
「ここで、この劇場で! あの歌劇を上演するのです!! いえ、上演だけではない! この劇場そのものを物語の舞台として——」
「ユリアン」
それだけで、ユリアンの口が止まった。
「君の熱意は受け取った。だが、ここは話をする場所ではない」
周囲を見た。通路の奥から、何事かと覗く顔がいくつもある。荒くれだけではない。奥の区画からも、様子を窺いに出てきた気配があった。
「詳しい話は上で聞こう。君の部屋でだ」
「僕の部屋?」
「もちろん、支配人室だよ。オーナーになったのなら、あの部屋はもう君のものだ」
ユリアンの表情が変わった。支配人室が自分のものだという事実を、今初めて噛みしめたような顔だった。
「——そうだ、そうだった! あそこで改めてお話ししましょう!」
「先に行って待っていてくれ。私も支度を済ませてから向かう」
ユリアンは勢いよく頷くと、通路を引き返していった。案内も要らないらしい。表の劇場なら、この男の方がよほど詳しい。
足音が遠ざかるのを確かめてから、俺は傍らの荒くれへ向き直った。
「あの男には手を出すな。この劇場の持ち主だ」
荒くれが面食らった顔をした。
「地下に降りてきた場合は止めるだけでいい。危害は加えるな。手に負えなければ私を呼べ」
「……へい」
「それから、オーウェンを起こして支配人室へ来るよう伝えてくれ」
それだけ言い置いて、俺は通路を表側へ向かった。
地下廊下の突き当たりから、一階ロビーへ直通する階段を上がる。地下の湿った空気が薄れ、乾いた木と古い塗料の匂いに変わった。
階段を上がりきった先に、立札と張られたロープがある。ロビー側から地下への降り口を塞ぐ、立ち入り禁止の仕切りだ。いずれここに鍵付きの格子扉を据えるが、今はまだこれだけしかない。
ロープを跨いでロビーへ出た。興行は夕方からだ。昼前の劇場に、人の気配はほとんどない。
支配人室の扉の前に立つ。中から、紙を捲る音がすでに聞こえていた。
扉を開けると、ユリアンはすでに部屋の中を歩き回っていた。
壁に残された古い演目表を眺め、棚の帳簿の背表紙を指でなぞり、窓辺に立っては劇場の方を覗き込んでいる。
「待たせたね」
「ファントム! 見てくださいこの部屋を! ランベール翁が何十年も使っていた支配人室ですよ。この棚の帳簿、全部過去の興行記録です。歴代の支配人がこの劇場を見守ってきた部屋なんです!」
「いい部屋だな」
短く返した。実際、悪くない。壁には年代物の演目表が貼られ、棚には帳簿が隙間なく並び、窓からは客席の一角が見下ろせる。劇場と向き合うために作られた部屋だということが、調度の一つ一つから伝わってくる。
「この部屋の来歴は、また改めて聞かせてもらおう」
ユリアンの肩から、少しだけ力が抜けた。
「まずは、支配人就任おめでとう。首尾よくいったようで何よりだ」
「ありがとうございます! ファントムのおかげです」
「いや、君の情熱があればこそだよ。では、本格的に今後の話を始めよう。かけたまえ」
ユリアンは椅子に腰を下ろしかけて、ふと扉の方を見た。
「その前に、一つ伺っても?」
「何かね」
「先ほど地下にいた方々は……劇団員、ではありませんよね」
言い方は控えめだった。だが、両腕を掴まれていたことを忘れたわけではないらしい。
「あれは昨夜のうちに入れた作業員だよ」
俺は机の向こうに腰を下ろした。
「約束通り、地下の一部は私がもらう。であれば、整える者は必要だろう? 舟寄せの修繕に、通路の補修、貴賓室へ家具や調度品も入れてもらうことになる。柄は少々悪いが、力仕事には使える連中でね。君には危害を加えないよう、こちらから言い含めておこう」
「作業員……」
「あくまで地下の整理と警備を任せる裏方だ。君の舞台に上げるつもりはないので、どうか安心して欲しい」
ユリアンは少しだけ考え込んだあと、納得したように頷いた。
「なるほど。裏方でしたか」
それでようやく、ユリアンの表情が戻った。
机を挟んで向かいの椅子を示す。ユリアンは素直に腰を下ろした。
「改めて聞こう。この劇場を蘇らせるために、今何が足りない」
「足りないもの、ですか」
ユリアンの指が膝の上で止まった。熱に浮かされていた目が、ほんの少しだけ現実に戻る。
「……正直に言えば、ほとんど全部です」
声が一段落ちた。
「脚本はまだ書きかけです。楽師も今の劇団では足りない。舞台装置は老朽化して大掛かりな演出に耐えられない。それに――」
ユリアンは支配人室の壁を見上げた。ひび割れた漆喰。歪んだ窓枠。棚に並ぶ帳簿は丁寧に残されているが、その棚板も少し沈んでいた。
「建物そのものが、限界に近い」
熱に浮かされていたユリアンの声が、そこで初めて現実の重さを帯びる。
「わかっている。演目を一新するなら、器もそれに見合う形へ戻す必要がある」
「ええ。でも歴史ある部分まで壊したくありません。この建物には旧王都時代から積み重ねてきたものがあるんです。新しく建て直せば済む、という話ではない」
ユリアンの指が、机の縁を撫でた。
その仕草は大げさではなかった。だが、この男にとって、この古びた部屋の傷みさえ、ただの老朽化ではないのだろう。
「同感だ。壊して一から作り直すつもりはない」
俺は短く返し、部屋の中を見回した。
「残すものと、手を入れるものを分ける。歴史を殺さず、使えない部分だけを直す。修繕と改築を組み合わせる形になるだろう」
「……はい。それなら、僕も賛成です」
「であれば、改築の間は興行を止めることになる。どうせ演目も一新するなら、今の出し物を続ける意味はない。君の脚本が仕上がり、団員が稽古を積む時間も要る。しばらくは幕を下ろすことになるが、構わないかね」
「構いません」
即答だった。迷いのかけらもない。
「むしろ、今の演目のまま幕を開け続ける方が耐えられない。あの舞台に相応しい歌劇を、僕はもう知ってしまったんです」
言い切る目に、嘘はなかった。この男にとって、現行の興行を止めることは損失ではなく解放なのだろう。
「だが、改築には資材がいる。職人がいる。人足がいる。それを束ねる商会がいる。この規模を任せられる相手に、心当たりはあるかな」
「それは……その、公募でよいのでは……?」
実に貴族らしい、現場を知らない者の発想だった。だが、実際公募で行えば、やってくるのは間違いなくカーライル商会か、その傘下になる。当然、認められるものではない。
俺は話の流れを変えにかかる。
「旧王都時代の建物を扱える職人は限られる。公募で集まる人足に、この歴史ある劇場を預ける気かね? それはあまりにも、運に頼りすぎていると思わないか?」
ユリアンの口が閉じた。伝手がないことは、顔を見れば分かる。
「……わかった。そちらは、私のほうで手配しよう」
ユリアンが顔を上げた。
「伝手が、おありで?」
「ああ。ちょうど実務を任せられる人材を呼ばせてある。そろそろ来る頃合いだ」
俺は扉の方へ目をやった。
少し間を置いて、扉が控えめに叩かれる。
「入れ」
扉が開き、オーウェンが顔を出した。
寝癖のついた髪。充血した目。昨夜の疲労がそのまま残った顔で、支配人室の中を見回している。黒仮面と、知らない若い貴族。状況を測りかねた目が、俺の方で止まった。
「来たか。こちらへ」
オーウェンは部屋に入り、机の脇に立った。
「ユリアン、紹介しよう。ヴァレリス商会のオーウェン・ラングだ」
「ヴァレリス?」
ユリアンが首を傾げた。
「ああ……うん。どこかで聞いたことはあるな。確か、それなりの商会だったはずだ」
その程度の認識だった。ヴァレリスが半年前までこの町の商いを支えていた名だということは、この男の関心の外にある。
「オーウェン、こちらはユリアン・エヴェレット卿。この劇場の新しい支配人だ」
「は――初めまして。ヴァレリス商会の、オーウェン・ラングと申します」
「ユリアン・エヴェレット。エヴェレット男爵家の三男だ。ああ、そう畏まらなくていい。楽にしたまえ、オーウェン君」
ユリアンは軽く手を差し出した。
握手というより、相手に挨拶の機会を与える仕草だった。悪意はない。だが、貴族の三男が市民の商人に向ける距離感が、その一挙手に滲んでいた。
「君はいい時に来たよ。この劇場はいま、歴史的な転換を迎えようとしているんだ。その最初の一幕に立ち会えるなんて、実に幸運じゃないか!」
オーウェンが俺の方をちらりと見た。どう返していいかわからない、という目だった。
「……光栄です」
辛うじてそれだけ返している。俺は先へ進めた。
「ユリアンが劇場の顔だ。演目、意匠、演出面の判断は彼に任せる。オーウェンは実務を頼む。二人で連絡を取りながら進めてくれ」
ユリアンは満足げに椅子の背へ体を預けた。オーウェンは「承知しました」と返した。まだ硬いが、状況は掴めたらしい。
「もう一つ、頼みたいことがある」
俺はユリアンの方へ向き直った。
「劇場の格を取り戻すなら、見た目も相応に整えたい。旧王都時代の舞台装置や装飾品が、町の保管庫や古物商にいくつか流れているはずだ。新品を入れるより、歴史ある品を据え直した方が説得力がある」
「旧王都時代の舞台装置!」
ユリアンの目が輝いた。
「いくつか目星はつけてある。旧王都期の照明器具がひとつ。装飾幕用の大型金具。それから、奈落に収まる大きさの回転式台座が保管庫に安く出ていたはずだ。舞台転換に使えるだろう」
「回転式台座ですか! それは……ええ、あの『歌劇場の怪人』の地下水路の場面で! 舞台ごと回転させて場面転換を!」
「他にも、歌劇場に見合う古物があれば二、三点見繕ってほしい。選択は君のセンスに任せるよ」
「お任せください!」
ユリアンが拳を握った。任された、という実感が、この男にとって何よりの燃料になるらしい。
「オーウェン、買い取りの手配と支払いはヴァレリス経由で頼む」
「畏まりました」
「では、それぞれ動いてくれ」
ユリアンが勢いよく立ち上がり、オーウェンもそれに続いた。二人が支配人室を出ていく。
俺は窓辺に立った。支配人室の窓から、空の客席と幕の下りた舞台が見える。
しばらく、この劇場の幕が上がることはないだろう。
だが、舞台裏ではもう、次の演目が始まっていた。




