29話 『シンジケート』
沈黙が、しばらく続いた。
疲労と緊張で反応が追いつかないのだろう。ガロは酒樽を肩に載せたまま動かず、荒くれたちも顔を見合わせている。女たちはリディアの傍で身を寄せ合い、オーウェンは口を半分開けたまま固まっていた。
最初に声を出したのは、リディアだった。
「作り直す……ですか?」
細い声だった。だが、聞き返しただけではない。
その言葉の奥に、まだ考える力が残っている。
何を、どう作り直すのか。自分たちはその中でどう扱われるのか。怯えと疲労の向こうで、彼女はそれを見ようとしていた。
俺はリディアの方を見た。
「そうだ。お前たちの居場所、ヴァレリスの名、そしてこの町の流れ。手を入れるべきものはいくらでもある」
声が、薄暗い通路に静かに響いた。
「だが、まず最初に作り直すのはここだ。旧都歌劇場を、使える拠点に変える」
そこで一度息をつき、声の調子を切り替えた。宣言は済んだ。ここからは実務の話だ。
「とはいえ、この場所はまだ押さえたばかり。手つかずに等しい。本格的に動くのは明日以降でいいだろう。今夜は、最低限の整理だけ行う」
通路を見渡す。左手に並ぶ旧い控室の扉。右手にも、幾つかの大きな部屋がある。
「右手側の大部屋を仮の倉庫にする。表に出せない荷物、酒樽、武器箱、危険物の類は全てそちらへ運び込め。危険物の仕分けはマルコに任せる。勝手に中身を開けるな」
マルコの視線は、もう荷物の山の方へ向いていた。
「左手側の貴賓室区画は休息に使う。女性陣はそちらで休んでくれ。食事と水は手持ちの分で今夜を凌ぐ」
リディアが女たちの方を振り返り、静かに頷いた。不安そうな顔をしている者もいたが、リディアの視線を受けて、わずかに肩の力が抜ける者もいた。
「ガロ。荷運びが済んだら、船の係留をもう一度確かめろ。流されたら出入りの手段を失う」
「あいよ」
ガロが酒樽を担ぎ直し、右手側の部屋の方へ歩き出した。荒くれの一人がそれに続く。
「オーウェン。部屋の中を見て回れ。使える家具や備品があれば、まず休息室側へ回してやってくれ」
「は、はい。分かりました」
オーウェンが慌てて通路の奥へ向かう。控室の扉を一つ開け、中を覗き込む姿が見えた。
人が動き始める。
荷物が通路から右手の部屋へ運ばれ、女たちがリディアに導かれて左手の貴賓室へ入っていく。マルコは黙って荷物の箱を一つずつ確認し、危険物と分かるものを手前に寄せ始めた。指示を待つまでもなく、もう仕分けに入っている。
ミランダは壁に肩を預けたまま、その一連を眺めていた。手は出さない。だが、人の動きと配置を目で追っている。
大まかな荷物が動き終わるまで、それほど時間はかからなかった。
荷の仕分けが一段落したところで、俺は声をかけた。
「マルコ、オーウェン。今後について話しておくことがある。少し来てくれ」
マルコが荷物の箱から手を離し、オーウェンも控室の奥から出てくる。
俺は通路の一番手前、舟寄せに最も近い部屋の扉を開けた。他の部屋と同じく、テーブルと長椅子が置かれている。今後は、ここを打ち合わせに使わせてもらおう。
「私も行きます」
リディアの声が、別室の入口から届いた。
マルコが振り返る。
「お嬢、今は休んだ方がいい。身体がもたねぇ」
「ヴァレリスの話もあるのでしょう」
リディアの声は細かったが、退く気配はなかった。
「聞く責任が、私にはあるはずです」
マルコの返事が、わずかに遅れた。視線がリディアの顔を探る。
「……分かった」
短く言って、それ以上は何も足さなかった。
四人が部屋に入る。
長椅子にリディアが腰を下ろし、マルコとオーウェンがその脇に立った。俺は部屋の中を進み、テーブルを挟んで振り返る。仮面のまま全員の顔を見渡した。
口を開きかけた時、扉の向こうに気配が立った。
ミランダだ。
呼んでいない。だが、呼ばれなかったことなど気にもしていない顔で、そのまま部屋の中へ入ってくると、俺の傍の壁に背を預けて腕を組んだ。
マルコの目が細まる。オーウェンも視線をそちらへ向ける。リディアだけが、驚きより先に、静かにミランダの顔を見つめていた。
「……紹介しておこう」
俺はミランダの方に顎を向けた。
「ミランダ・ノクターナ。私の仲間で――」
「あ・い・ぼ・う」
ミランダが、一音ずつ区切って訂正した。壁に肩を預けたまま、唇の端だけ持ち上げている。
短い沈黙が挟まった。
「…………相棒で、今夜お前たちがここへ入れた理由の半分は彼女にある」
リディアが長椅子から腰を上げ、ミランダの方へ向き直った。
「ご助力いただき、ありがとうございました。ミランダ様」
そこで一度、姿勢を正す。
「私は、リディア・ヴァレリスと申します」
丁寧だが、卑屈ではない。ヴァレリスの名を名乗ることに怯えも迷いも見えなかった。
ミランダは軽く肩をすくめた。
「知ってるわ」
リディアは小さく頷き、それから俺の方へ視線を移した。
「改めて、お礼を申し上げます。マルコも、私も、あなたのおかげで今ここにいます」
一呼吸置いて、真っ直ぐに聞いた。
「お名前を、教えていただけますか」
静かな問いかけだった。名前を知る権利を主張しているのではない。救われた相手の名を知りたい。素直な礼儀が、その声にはあった。
「私は仮面の男。今はそれ以上でも、それ以下でもない」
短く返した。突き放すつもりはない。だが、渡せる名がないのもまた事実だ。
「呼び方は、好きにしてくれて構わない」
リディアは少しだけ目を伏せた。失望ではない。やはりそうか、と自分を納得させるような、短い沈黙がそこにあった。
「……承知しました。では、仮面のお方、と呼ばせていただきます」
今はそれ以上踏み込まないと決めた声だった。
「では、本題に入る。まずはこの施設の構造を、頭に入れてほしい」
俺は部屋の中を見渡した。壁も天井も石造りで、装飾の名残がところどころに見える。古いが、作りは堅牢だ。
「表は旧都歌劇場。かつての王立劇場で、今も劇団が細々と興行を続けている。地下は使われなくなった控え室、大道具倉庫、搬入路、それに今お前たちが通ってきた舟寄せの名残だ」
マルコが腕を組んだまま静かに頷いた。
「明日から、ここに手を入れる」
「手を入れる、とは」
オーウェンが聞き返した。
「改築だ。二重のな」
俺は指を一本立てた。
「表では、歌劇場の大規模修繕を行う。劇場の老朽化は周知の通りだ。修繕名目で人と資材を入れても、誰も不思議に思わない」
二本目を立てる。
「その流れに紛れて、地下の拠点化を進める。一般人が入り込めないよう、地下へと続く階段には扉を設け、倉庫、通路、居住区と順々に使える形へ変えていく」
オーウェンの眉が動いた。意味は掴めたが、規模に追いついていない顔だ。
「表の顔は用意してある。劇場再建に本気の人物がいてね。修繕と興行の名目は、そちらを通して行う」
ユリアンの名はここでは出さない。必要な時に繋げばいい。
「つまり、表の工事に紛れて地下を整えるということですか」
オーウェンが確認するように言った。
「そうだ。外から見れば、古い劇場の建て直し。中で何が動いているかは、誰にも分からない」
マルコは黙って聞いていた。何かを噛みしめるような顔で、視線を宙の一点に据えている。
やがて、低い声が漏れた。
「水路と、表の劇場か。出入りは二つあるが、どっちも万能じゃねぇ」
全員の視線がマルコに向いた。
「水路は目立たねぇが、あの幅じゃ一度に運べる量が知れてる。表は人と資材を入れられるが、裏の荷物をそのまま出すわけにはいかねぇ。それに、名目が修繕だってぇなら、いつかは終わりがくる」
ひと呼吸おいて、マルコが俺を見た。
「拠点にするってんなら、もう少し手段が要るんじゃねぇか」
正しい指摘だ。
それを実務の目で見て、真っ先に突いてきた。ヴァレリスの番犬は、伊達ではない。
「フッ、その通りだ。これだけでは拠点の価値としてまだ弱い。だが――」
俺は壁の方へ歩いた。この部屋の奥、石積みの壁の一角に手を触れる。
「この地下には、旧王都時代の隠し通路が残っている」
マルコの目が動いた。
「水道網や導水路を敷いた時代の名残だ。保守通路、非常用の導線、王族専用の隠し通路の類が、この地下から町のあちこちへ伸びている」
オーウェンの顔色が変わった。リディアも、静かに目を見開いている。
「今は私以外、誰も使っていない。大監獄への侵入にも、この通路網を使った」
マルコの表情が変わった。あの夜、独居房の奥から黒仮面が現れた記憶が繋がったのだろう。
「古くからある要所へ伸びる線はもちろん、外壁の外へ繋がる線もある。門を通さず直接物資のやり取りができることの意味は、お前たちならよく理解できるだろう?」
門を通さない。つまり、関税を一切払わずに密輸し放題ということだ。
俺は振り返り、ヴァレリス商会の三人を見た。
商人としての知識がある三人には、その意味が正しく伝わったらしい。
三人とも、固まったように目を見開き、息を呑んでいる。
「無論、危険もある。道は複雑で、誤った出口――例えば騎士団宿舎の中にでも出てしまえば、この拠点も、秘密の通路も全てが終わる。それを避けるためにも、使える道と人員はこちらで絞らせてもらうつもりだ。知らない出口には絶対に近づくなよ」
沈黙が広がった。
マルコは身じろぎもしなかった。だが、目の色が変わっている。
説明した導線の意味が、頭の中で像を結んだ。
マルコが低く言った。
「……物流拠点か」
「そうだ。ここはやがて、町の裏で人と荷物が行き交う中心地となる」
マルコの目が、もう一度部屋の壁を、天井を、通路の方を見た。隠れ家ではない。逃げ込む穴でもない。ここは、闇商人たちが夢見る理想の地だ。
その理解が浮かんだ顔だった。
「さて、ここからが重要な話なのだが――」
そう言って、俺はマルコを見た。
「マルコ・ドレイク。大監獄で私はお前に、取引相手だと名乗った。覚えているか」
マルコの目がわずかに細くなった。
「……ああ。忘れるわけがねぇだろ」
「あの時の取引に、まだ代価を決めていなかった。ここで決めさせてもらう」
マルコの顎が引かれる。身構えたわけではない。来るものを受ける覚悟の現れだった。
「お前には今後、私の下でこの拠点の管理を任せたい。地下の運営、荷物の管理、人の統制。全てだ」
部屋の空気が、一瞬だけ張った。
リディアがマルコの横顔を見ている。オーウェンも息を止めた。
マルコは黙っていた。
長い沈黙ではない。だが、軽い返事をする男でもなかった。
やがて、マルコが口を開いた。
「不義理にならねぇよう、先に言っておく」
低い声だった。
「あんたの出す条件は全て飲むつもりだった。例えどんな内容であったとしてもな。だが、一つだけ譲れねぇもんがある」
マルコの視線が、一瞬だけリディアの方へ向いた。
「お嬢の安全と処遇だけは、あんたの命令より上に置かせてもらいてぇ。それでかまわねぇか?」
リディアが小さく息を呑んだ。止めようとしたのか、それとも別の感情だったのか。だが、口は挟まなかった。
俺はすぐには答えなかった。
仮面の下で、マルコの言葉の重さを測る。脅しでも、駆け引きでもない。この男は一つだけ、本気で線を引いた。
受けた恩は必ず返す。だが、守ると決めた者のことだけは、誰の下についても譲らない。マルコ・ドレイクとはそういう男だ。ゲームの中の作り物だと、どこかで思っていた漢気。それが今、目の前で生身の男の姿をとって息づいている。
その事実に、俺の口元は緩んでいた。この顔は誰にも見せられない。
こういう時、仮面は便利だ。
この緩みを残らず覆い隠してくれる仮面に、今ばかりは感謝した。
「良いだろう。むしろ、それを切り出さないならお前の言葉を信用しなかったところだ」
マルコの目が、わずかに揺れた。
「……ハッ。相変わらず、わけのわからねぇお人だ」
笑いか、あるいは呆れか。マルコの口から短い吐息が洩れる。
そしてその瞳に、確かな光が灯った気がした。
「……わかった。今この時から、あんたが俺の大将だ。宜しく頼むぜ、大将!」
取引は成立した。
俺は一つ頷き、すぐに実務へ移る。
「では早速だが、仕事の話をしよう。マルコ、お前にはまず人を集めてもらいたい。地下の改装を進められる者を探してくれ。ただし、口が堅い者、味方に引き入れられそうな者だけだ」
「人選も俺の裁量か」
「お前以上の目利きはこの場にいない。ガロたち荒くれも、お前の下につける。荷運び、力仕事、危険区画の整理。使い道はいくらでもあるだろう」
マルコが、ニヤリと口元を歪めた。
「わかった。禁制品と危険物の保管区画も決めておく。倉庫の鍵は俺が持つ。勝手に荷物を動かす奴が出ねぇよう、締めるとこは締めていくぜ」
こちらが言う前に、自分で段取りを組み始めている。任せて正解だった。
「頼んだ」
「任せな、大将」
次に、オーウェンを見た。
「オーウェン。お前の仕事は表だ」
オーウェンの背が伸びた。
「歌劇場修繕の名目で、ヴァレリス商会を通して発注を出してもらう。資材の調達、職人の手配、人足、荷車。表の帳簿に通せる形を作ってくれ」
「は……はい。ヴァレリスの名義で、ですか」
「そうだ。ヴァレリス商会は死んでいない。表ではその名を使って動く」
オーウェンが唾を飲み込むのが分かった。だが、目は逸らさなかった。
「修繕には人手がいる。この町には仕事にあぶれた人足が多くいるだろう。仕事を出せ。金を回せ。カーライルが町から吸い上げている間に、こちらは金を使って人心を得る」
オーウェンの目が一瞬だけ揺れた。ただの偽装工事ではない。町に金を戻す導線を作れと言っている。その意味が、分かったのだろう。
「表の改築に紛れて、地下に必要な資材も流す。柱材、鉄具、灯り、扉。修繕の発注に混ぜれば、余計な注目は集まらない」
「……分かりました。帳簿の辻褄は、私が合わせます」
声は震えていたが、言葉は退いていなかった。
俺は全員を見渡した。
「まとめる。表ではヴァレリス商会の名を使い、劇場の修繕を軸に人と金を動かす。裏ではこの地下を物流の中心に据え、通路と倉庫で町の裏側を押さえる」
声を、一段低くした。
「最終的には、カーライルが握っている流れを奪いにいくぞ」
その一言で、空気が締まった。
リディアの目が、静かに俺を見ている。マルコは正面を見据えたまま、視線を落とさない。オーウェンは拳を膝の上で握っていた。
「表の名はヴァレリスでいい。だが、裏で動くものには、別の名がいるな」
そこで一度、言葉を切った。
ヴァレリス商会だけではない。脱獄囚たちの使い道。歌劇場の表の顔。隠し通路。水路。そしてこれから増えるであろう、町の裏に根を張るいくつもの手足。
それらは一つの商会には収まらない。
必要なのは、組織を束ねる組織だ。表の商会も、裏の物流も、荒事も、情報も、全てを一つの名の下にまとめる。言うなれば、連合体のような――。
適した名前を記憶から探し、一つの言葉に辿り着く。
マルコが視線を上げた。空気が変わったことを、目で察したらしい。
「名は、そうだな」
一拍、置いた。
「――シンジケートだ」
聞き慣れない響きが、部屋の空気を揺らした。
マルコが低く復唱する。
「……シンジケート」
オーウェンが、意味を測るように唇だけでその名を繰り返した。リディアも、その響きを静かに受け止めている。
ミランダが小さく息を吐いた。
「ふぅん。悪党の集まりにしては、ずいぶん気取った響きね。あんたの国の言葉?」
前にオペラ座、という単語を口にした時と同じ響きを感じ取ったのだろう。
ゲームの頃から、この世界には翻訳される言葉と、そうではない言葉があった。
そうした言葉の数々は、こちらでは異国情緒溢れる響きとして変換されるらしい。
「まぁ、そんなところだ」
短く返した。説明はしない。名の意味は、これからの行動で刻んでいけばいい。
シンジケート。
聞き慣れないその名が、古い歌劇場の地下に残った。
ヴァレリス商会の残り火。脱獄囚たち。行き場を失った者たちの夜。
それらを束ねるための名が、この場所で初めて形を持った。




