27話 『ヴァレリスの番犬』
ミランダが帳場を出てから、しばらくが経つ。
帳場裏の小部屋は暗い。壁掛けの燭台は一本だけ残してあり、蝋燭の灯りが低く揺れている。窓には厚い布が垂らされ、外の夜気も通りの音もほとんど届かない。
オーウェンが、また膝を揺すった。
座っているのに落ち着かないらしい。古い帳場椅子の上で姿勢を変え、拳を握っては開く。目は俺の方を向いているようで、実際には何も見ていなかった。
焦っている。
無理もない。自分の、そして大切な人たちの運命が決まりかねない転機が、急に降って沸いたのだ。並の商人では、浮足立つのも当然だ。
「あ……あの、仮面の旦那」
とうとうオーウェンが口を開いた。
「そろそろ、動きませんか。さきほどの方が出られてから、もうかなり――」
「時計はあるか?」
オーウェンの言葉を遮った。
「はい?」
「懐中時計だよ。持っているだろう」
オーウェンが上着の内ポケットから、小ぶりの懐中時計を取り出した。使い込まれた真鍮の蓋に、細かい擦り傷が走っている。商会の番頭格が日々の実務で使い倒してきた道具の手触りだった。
受け取り、蓋を開ける。
文字盤を灯りに傾けた。針の位置を読み、ミランダが出てからの経過時間を頭の中に置く。
あの女の足なら、商業地区はもう抜けている。尾行がつけば速度は落とすが、それでも貴族街の外縁には届いているはずだ。追手が北へ引かれれば、南側の監視は薄くなる。
動き出すには十分だ。
蓋を閉じる。
そのまま、外套の内側へ手を入れた。魔法の鞄の留め具に触れ、懐中時計を滑り込ませる。
「あっ」
オーウェンの声が裏返った。
手を伸ばしかけ、止まる。口が開き、閉じる。
俺は何事もなかったように立ち上がった。
「出るぞ。あと半刻もすれば、北で動きがある。南の監視をしている余裕は、すぐに無くなるだろう。今のうちに倉庫の近くまで寄っておきたい」
「は、はい。……あの、時計は」
「行くぞ、オーウェン。遅れるなよ」
先に立って、帳場の出口へ向かう。
「え……? あの、ちょっ――」
背後でオーウェンが何か言いかけて、飲み込む気配がした。
少しして、頼りない足音が続く。
裏口を出ると、夜の空気が冷たかった。
大通りには出ない。見通しの良い道も使わない。
俺は壁沿いに歩き出した。フードを深く被り、長外套の裾が石畳を掠める。仮面の輪郭も、鞄の膨らみも、外套の影に沈んでいる。
オーウェンが半歩遅れてついてくる。足音を殺そうとしているが、癖で踵から落としている。商人の歩き方だ。盗人の歩き方ではない。
まぁ、それは仕方がない。
酒場の裏手を抜ける。閉じた搬入口の前を通り、壁の影に沿って角まで出る。
角の手前で足を止めた。
灯りを待つ。
通りの先に、街灯が一つ。その下を、巡回の足音が横切っていく。二人分。歩調が揃っている。衛兵だ。
足音が遠ざかり、灯りの下から影が消える。
五つ数えてから、角を曲がった。
次の路地へ入る。ここは倉庫の裏で、夜は人が通らない。壁と壁の間が狭く、頭上に干された洗い物が垂れ下がっている。その下を潜り、奥の石段を降りる。
降りた先は、別の通りだった。
また角の手前で止まる。今度は足音ではなく、灯りの揺れ方を見た。風ではない。誰かが手にした灯りが、通りの端で揺れている。
私兵だ。
衛兵とは歩き方が違う。巡回ではなく、何かを探している動きだった。足が止まり、首が回り、また歩き出す。
俺は壁に背を預け、動かなかった。
オーウェンが息を詰める気配がした。肩が強張っている。だが、声は出さなかった。それだけの判断力は、この男にはある。
灯りが遠ざかる。
私兵の足音が角を曲がり、消えた。
半拍置いて、また歩き出す。
オーウェンが小声で聞いた。
「……仮面の旦那。こんな道、よく知ってますね」
「こんな恰好では、大手を振って通りを歩くわけにもいかなくてね」
「そりゃあそうでしょうけど……。今の見張りが通るのも、さっきの衛兵が来るのも、全部分かってましたよね? 待ち方が……」
言葉を探して、少し詰まる。
「……何というか、慣れすぎています」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「……別に褒めちゃいませんけど」
小さく返したオーウェンの声には、呆れと、それからわずかな安堵が混じっていた。この男についていけば、少なくとも見つからずに着けるのだろう、という種類の安堵だ。
倉庫街が近づいてくる。
空気に潮と油の匂いが混じり始める。石畳の継ぎ目が荒くなり、壁の汚れが増え、建物の背丈が低くなっていく。
南埠頭だ。
倉庫街の裏手に入る。
表通りの灯りはここまで届かない。建物の隙間から覗く空だけが、夜の色をわずかに返していた。
荷揚げ場の音はもう聞こえない。この時間、倉庫の裏は人が途絶える。昼間は荷車や人足で埋まる道も、今は石畳の上に木箱の影が転がっているだけだった。
オーウェンの足が止まった。
「あの建物です」
小声で、指さす。
路地の奥、背の低い倉庫が並んでいる。表通りからは一本奥まった場所で、看板もなければ灯りもない。ヴァレリス商会が裏荷を扱っていた実務倉庫。帳簿の表には載らない場所だ。
俺はオーウェンと顔を見合わせ一度頷き、壁の影に下がった。
先に行かせる。
オーウェンが倉庫の扉の前に立ち、拳で叩いた。三つ。間を置いて、二つ。
合図だ。
中から物音は聞こえない。
沈黙が数拍続いた。オーウェンの肩が強張る。返事がない。いないのか。見つかったのか。その不安が、背中に滲んでいた。
やがて、扉の向こうでかすかな足音がした。
重い。低い。慎重に、間合いを測りながら近づいてくる足音だった。
扉が細く開く。
隙間から覗いたのは、片目だった。暗がりの中で鋭く光る視線が、オーウェンを捉える。
一瞬、間が空いた。
それから、扉がもう少しだけ開いた。マルコ・ドレイクが姿を見せた。
監獄で見た時より顎の無精髭が伸び、目の下に深い影が落ちていた。
「オーウェン」
低い声だった。まず名前を呼び、それからオーウェンの顔を、体を、足元まで一度だけ見る。
「大丈夫か」
「なんとか。……すみません、兄貴。監視が厳しくて、なかなか抜け出せませんでした」
オーウェンの声が、少し震えた。
「ですが、今は大丈夫です」
一度だけ息を吸い、背後へ目を向けた。
「この方が、協力してくださいましたから」
マルコの視線が、オーウェンの肩越しに動く。
俺は壁の影から、一歩だけ前へ出た。
灯りは乏しい。だが、扉の隙間から漏れるわずかな明かりが、フードの奥の青黒い仮面を拾った。
「息災か、マルコ・ドレイク」
マルコの目が見開かれた。
仮面を見ている。声を聞いている。監獄の闇の中で聞いた声と、今の声を重ねている。
やがて、見開かれた目が細まった。
「……本当に現れやがった」
声が低い。驚きを噛み殺すように、喉の奥で絞り出した声だった。
「言っただろう、取り立てに行くと。相変わらず、"底値"は継続中のようだがね」
わずかな明かりに揺れるマルコの輪郭を、下から順に見る。
擦り切れた靴。泥と埃を吸ったズボンの裾。袖口はほつれ、上着には古い血の跡とも油染みともつかない汚れが残っている。牢を出たあとも、まともに休めてはいないのだろう。
だが、目はまだ鋭い。
俺は続ける。
「そろそろ融資が欲しい頃合いだったろう? 私の助力という、巨大な融資が」
「ハッ……旦那は相変わらず、だな」
マルコは短く息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、その両方だったのか。
だが、すぐに表情が引き締まる。通りの奥へ一度だけ目を走らせ、低く言った。
「外はまずい。とりあえず中へ入ってくれ」
扉が、もう少し開いた。
俺とオーウェンは、暗い倉庫の中へ足を踏み入れた。
倉庫の中は、暗かった。
灯りは奥の壁際に置かれた小さな油灯だけ。炎が低く揺れ、天井の梁や積まれた木箱の輪郭をぼんやりと浮かべている。窓は板で塞がれ、外の空気はほとんど入らない。代わりに、人の体温と湿気と、長く閉じ込められた空間特有の澱んだ匂いが充満していた。
奥に人影がある。
油灯の灯りに照らされた顔が、こちらを見ていた。
マルコの後ろに、ガロがいた。壁に背を預け、腕を組んでいる。棍棒は足元に立てかけてあった。俺の姿を見ても動かない。ただ、目だけが鋭く仮面を追っている。
その隣に、脱獄時に一緒に動いた荒くれが数人。壁際や木箱の上に散らばって座っている。疲労の色は濃いが、マルコの近くにいる分だけ、まだ形を保っていた。
そして、奥の壁。
布を掛けた木箱の陰に、若い女たちが身を寄せ合っていた。北塔から救い出した女囚たちだ。肩を寄せ、膝を抱え、こちらの気配に怯えるように顔を伏せている。
その中に、一人だけ顔を上げている女がいた。
リディア・ヴァレリス。
監獄で見た時より、さらに痩せて見えた。だが、目だけは違う。怯えてはいない。俺の仮面を見て、それからマルコを見て、状況を測ろうとしている。
折れてはいない。あの時と同じだ。
マルコが扉を閉め、内側から閂を落とした。
「全員いる。増えても減ってもいねぇ」
短い報告だった。
俺は倉庫の中を一度だけ見回した。人数を数え、配置を確認し、使える者と動けない者の区別を頭の中に入れる。
「状況を聞かせてくれ」
「最悪に片足突っ込んだところだな」
マルコが壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「食い物はあと二日分。水はもう少し持つが、外へ出て汲みに行くのが厳しくなってきた。昼間は倉庫街にも私兵が回ってくる。この辺りはまだ当たられていないが、時間の問題だ」
「負傷者は」
「歩けないほどのはいない。だが、女たちの体力が限界に近い」
マルコの視線が、奥の壁際へ向いた。
俺は頷いた。
「状況は理解した。今夜、全員を移す」
マルコの目が、わずかに動いた。
「移す、だと」
「新しい隠れ家を用意してある。ここよりは、ずっとましな場所だ」
「……そりゃ、どこだ?」
「着けば分かる」
マルコの眉が寄った。だが、問い詰めはしなかった。
代わりに、別のことを聞いた。
「なぜ今夜なんだ」
「私の仲間が今夜、北で騒ぎを起こす」
言って鞄から懐中時計を取り出すと、蓋を空け、長針を一瞥する。
「もう起き始めている頃合いだろう。衆人の目が北へ向いている今だけは、町全体の監視が薄くなる。ここを逃せば、次はもっと悪い条件で動くことになるだろう」
マルコは黙って聞いていた。
それから、奥の壁際のリディアと女たちを見た。木箱の陰で肩を寄せ合う彼女たちの姿を、長く、静かに見た。
「……分かった」
低い声だった。
感情で動いた声ではない。条件を聞き、残された選択肢を量り、ここに留まる方が危険だと判断した声だった。
「あんたに乗る。今夜、動こう」




