26話 『亡霊は夜を駆ける』
◇ ◇ ◇
ミランダ視点
◇ ◇ ◇
扉を押し開けた瞬間、夜気が肌を撫でた。
ミランダは一度だけ息を整え、フードを目深に引き下げた。顎を軽く引き、視線を前方へ固定する。歩調はやや早め。肩は心持ち縮こまらせ、胸の前で手を合わせるように組む。
追われているのに、急ぎきれない娘。そんな輪郭を、体が先に作っていた。
通りへ出る。
夜のバスティアは静かだった。昼の喧騒が嘘のように、人の気配が薄い。灯りも遠く、石畳の上に長い影が伸びている。
その影の一つに、視線があった。
街灯の陰。立ち姿に力みがある。剣を抜くほどではないが、いつでも動ける重心。殺気というより、確認の目だった。出てきたのは誰か、まず見極めようとしている。
さらに奥、荷車の陰にもう一つ。こちらは少し違う。動きたがっている。
角のあたりにも一人。肩で息をしていないから、今夜の当番に入ったばかりだろう。
三人。さっき確認した通りの配置だ。
ミランダは歩調を変えないまま、通りの端へ寄って歩き出した。視線は拾わない。振り返らない。気づいていないふりで、ただ前を見て歩く。
歩き出して数歩、背後の気配が動いた。
靴底が石畳を擦る音。軽く、慎重だ。続いてもう一つ。距離はほぼ同じ。二人、揃ってついてくる。音の運び方からして、仕留めに来ているわけではない。まずは確認のための尾行だろう。
ミランダは曲がり角で歩調をほんの少しだけ乱した。躓いたふりに近い間の悪さ。フードの縁から、淡い青灰色の襟と裾が一瞬だけ影の外へこぼれる。
背後で、息を呑む気配があった。
言葉は聞こえない。聞こえなくても、ミランダには伝わる。彼らの頭の中で、一つの名前が立ち上がった瞬間だった。
リディア・ヴァレリス。
追手の足音が、わずかに重くなる。迷いが抜け、体重が前に傾いた音だった。
釣れた。
ミランダは口の端だけで笑った。フードの奥まで覗ける者はいない。
通りの先で、追手の数が一つ増えた。三つ目の足音が後方から合流する。誰かが合図を送ったのか、それとも独自に気づいたのか。どちらでもいい。数が増えることこそが、今夜の成功条件だった。
通りを一本抜けたあたりで、足を速めた。
走る、というほどではない。ただ、歩きとは別の何かに変える。確信のないまま急いでいる女の、少し上ずった歩調。追われているかもしれない、でも振り返るのは怖い。そういう人間の足の運び方を、体の芯で再現する。
背後の足音は三つ。そのうち一つが、半歩ずつ遅れ始めていた。やがて音が離れ、別の方角へ消える。
報告か、応援か。どちらでもいい。脱落したのではなく、枝分かれして広がっている。この群れは、これから膨らむ方に傾いている。
ミランダは路地の入口で視線を投げ、迷う素振りを一拍だけ見せてから、暗がりへ身を滑り込ませた。
石壁に挟まれた細い通り。街灯の光はここまで届かない。靴底の音が壁に反響して、自分の足音が二重に聞こえる。それに、背後の足音が重なってくる。
ここから速度を上げる。ただし、全力ではない。
彼女の本気を知る者は、この町にはいない。夜の路地で三人や五人を相手にするなら、ミランダの足なら十を数えるうちに全員を振り切れる。だが今夜は、振り切ってはいけない。
速く走るより、追いつかせずにいる方が難しい。
曲がり角の手前で、歩幅を半分だけ縮める。角を曲がりきった瞬間、壁に身を寄せて一拍消える。追手が角に入ってくる気配を肌で拾ったところで、通りの先へスカートの裾を流す。
ちらりと見えて、また消える。
その繰り返しを、息を乱さずに続ける。
路地を二本抜けた頃には、足音が五つになっていた。横道から合流した二人分。片方は重い。革鎧か、下手をすれば軽い鎖帷子を着込んでいる。もう片方は軽くて速い。走り慣れた足音だ。
(そうそう、いい子ね。しっかりついていらっしゃい)
背後に神経を残したまま、次の角を曲がる。振り返りはしない。振り返らなくても、追手の呼吸と靴底の運びは耳で捉えられる。
焦りは出始めているが、刃は抜かれていない。独断で仕留めに来ている者と、命令を待っている者が混ざっている。前者の足音は重心が前に傾いていて、後者は半歩控えている。
まだ引っ張れる。
次の路地で、風がフードの縁をめくった。淡い青灰色の布地が一瞬だけ闇から浮き上がる。
背後で、押し殺した声が走った。
「見ろ、あの服――」
「間違いない。追え」
ミランダは奥歯で笑いを噛み殺した。
間違いも何も、わたしはリディアではない。だがこの連中にとっては、それはもう関係ないのだろう。あの服を着た女が夜の路地を逃げている。それだけで足が勝手に動いてしまう。
北へ。アッシュが引いた導線の上を、ゆっくりと、確実に、群れを引いていく。
商業地区を抜け、町並みが変わり始めた。
石造りの家が低くなり、壁と壁の間隔が広がる。街路樹が現れ、通りの端には手入れされた花壇が並ぶ。灯りの数は減ったが、一つ一つが上等だった。魔道具の蝋燭だろう。揺らがない光が、通りに落とす影の輪郭を鋭くしている。
北の貴族街の外縁。
昼間でも人通りの少ない区画だが、夜はさらに静かだ。住人たちは屋敷の奥で眠っているか、舞踏会にでも出かけているか。いずれにせよ、通りに出ている者はほとんどいない。
その静けさの中で、自分の足音と、背後で崩れかけている群れの気配だけが、やけに大きく響いた。
ミランダは通りの端に身を寄せ、立ち止まらずに速度だけを落とした。
背後の足音を数え直す。
七つ。商業地区を抜ける間に、さらに二つ増えていた。そろそろ限界に近い。これ以上連れてきても、屋敷へ侵入する時の邪魔になる。
振り返らず、息だけを整える。
(そろそろね)
心の奥で、冷たいものが起き上がる感覚があった。背後の気配の中で、前に出すぎている者が二人いる。左右に一人ずつ。他の連中より半歩、いや一歩、踏み込みが早い。
この二人は、捕まえに来ている。殺すつもりまではないかもしれないが、ここで組み付かれれば面倒だ。
ミランダは呼吸を整え、次の角を曲がった。
曲がり切った直後、壁に背を預ける。体から力を抜き、気配だけを薄く伸ばす。自分という輪郭が夜の中に溶けて、わずかな残像だけを置いて消えていく感覚。
追手たちが角を曲がってくる。
先頭の二人は、前方に目を向けたまま走り込んできた。ミランダが通りの先に逃げたと思い込んでいる。壁際に身を寄せた影には、目を向けもしない。
ミランダは動いた。
短剣を抜いたのも、踏み込んだのも、同じ動作の中だった。最初の一人の首の側面に、刃が吸い込まれる。声は出ない。動脈を正確に切られた人間は、叫ぶ暇もない。
二人目が、ようやく異変に気づいて振り向きかけた。だが、ミランダの刃はすでにその喉元にあった。引き抜くのと、次の角へ体を流すのが、また同じ動作だった。
残された追手たちが角を曲がってきた時、そこには倒れた仲間と、夜の奥へ消えていくスカートの裾だけが見えた。
「おい……っ」
「し、死んでる……?」
誰かが声を上げた。悲鳴ではない。困惑と、恐怖が入り混じった声だった。
「今はいい! そんなことよりどこへ行った!?」
「さっきまでそこに――!」
ミランダは、すでに次の通りの陰にいた。壁に沿って歩きながら、背後の混乱を耳だけで拾う。
少しして、足音が再び動き出した。数が減り、怯えと怒りが足音に混じる。仲間を殺された恐怖と、それでも逃がすわけにはいかないという執念が、追手たちを前へ押し出している。
(もう少しよ)
ベルメイン邸までは、残り二本の通り。
ミランダは次の通りへ出ると、今度は少しだけ姿を見せるように走った。
さっきまでの暗殺で追手が減りすぎると、屋敷への誘導が成立しない。恐怖で足を鈍らせた連中を、もう一度「届きそうだ」と思わせて引き戻す必要がある。
街路樹の間を縫い、花壇の陰を通り過ぎ、通りの真ん中へわざと出る。スカートの裾が街灯の光を一瞬だけ跳ね返した。
背後で、声が上がった。
「いた! あっちだ!」
足音が揃い、数が戻ってくる。四つ、五つ。さっきの二人を失ってもなお、まだ群れとして機能している。ベルメイン家が雇った私兵というのは、恐怖で散らばる烏合の衆よりはもう少しまともに訓練されているらしい。
ミランダは通りを駆け抜け、次の角を曲がった。
そこに、目的の屋敷があった。
ベルメイン男爵邸。
北の貴族街の外縁に建つ、中規模の邸宅だった。男爵家の格としては妥当で、過剰な装飾もない。だが、手入れの行き届いた前庭と、鉄柵の門扉だけは場違いなくらい立派だった。見栄を張る場所だけは、きっちり整えてある。
門扉は閉ざされているが、塀はそれほど高くない。
ミランダは門前で立ち止まらなかった。角を曲がったその勢いで、塀へ向かって斜めに走る。そして、最後の一歩で踏み切った。
助走らしい助走はない。ただの斜走から、そのまま跳んだ。
塀の上端に片手をかけ、体を捻って乗り越える。腰から下が一瞬だけ空中に浮き、着地は庭の植え込みの中。衣擦れの音すらほとんど立たなかった。
追手が角を曲がってきた時、ミランダはもう姿を消していた。
「くそっ、どこだ――」
「塀だ! 塀を越えたぞ!」
「なんて身体能力だ! なぁ、ありゃ本当に――」
「うるさい! 今はとにかく追うぞ、門を開けろ!」
外の混乱を背中で聞きながら、ミランダは植え込みの陰で身を低くした。
庭は広くない。母屋の正面までは、走れば十歩。正面の扉は、窓からの光でうっすらと輪郭が見える。玄関灯が点いていた。まだ主人が起きている印だ。
庭の左手、東側に使用人の出入口らしき小さな扉。右手には、二階の窓へ続く蔦の絡んだ格子。
ミランダは右を選んだ。
格子を蹴って二階へ駆け上がる。片手で格子を掴み、もう片手でバランスを取る。格子にかける体重を最小限に抑える。格子が軋む音は、ほとんど立たなかった。
二階の窓辺に足をかけ、室内の気配を拾う。誰もいない。廊下に続く客間のようだった。
窓の鍵は内側から掛かっているが、古い造りの差し込み式。ミランダは短剣の先を隙間に滑り込ませ、軽く捻った。乾いた音がして、鍵が外れる。
窓を押し開け、室内へ身を滑らせる。
屋敷の中は、廊下の灯りだけが遠くで揺れていた。
セドリック・ベルメインの部屋。
それがどこにあるかは、地図を見た時点である程度当たりをつけている。男爵家の次男が執務に使う部屋なら、二階の奥、東向きの角部屋が定番だ。
ミランダは音もなく廊下へ出た。
廊下を進みながら、気配を拾う。
屋敷の中は、思ったより静かだった。使用人の気配は一階の奥に集中していて、二階には誰もいない。警備らしい警備も見当たらなかった。
(やっぱりね)
私兵の主力は、マルコ捜索と、ついさっきまで自分を追っていた連中で使い切られている。残っているのは屋敷の最低限の使用人だけだろう。屋敷の主の警護を優先するより、リディアの影を捕まえる方を選んだ。ベルメイン家の次男としての判断としては、正しかったのかもしれない。命さえ無事なら、の話だが。
奥の角部屋に、灯りが漏れていた。
扉の下から、細く光が伸びている。燭台の明かりだろう。誰かが起きている。
ミランダは扉の前で立ち止まらなかった。
ノックはしない。呼びかけもしない。扉の取っ手に触れ、静かに回す。鍵はかかっていなかった。自室で鍵をかける習慣のない人間だったのか、それとも、家人が入れるように開けていたのか。どちらでもいい。
扉を開ける。
机に向かっていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
三十前後の男だった。やや神経質そうな顔立ちに、目の下に深い隈がある。机の上には紙束と、読みかけの書簡。ペンを握った手が、途中で止まっていた。
兄である監獄所長に似た顔つきだった。痩せ方も、神経質そうな目つきもよく似ている。なら、これが標的で間違いない。
セドリック・ベルメイン。
セドリックの目が、ミランダを捉えた。
フードの奥、顔は半分以上影に沈んでいる。見えるのは口元と、淡い青灰色の襟元、裾の長いスカートだけ。
一瞬、セドリックの目が見開かれた。
「リディア……!?」
だが次の瞬間、眉間に強い疑念が走る。
「いや、違う。お前は誰――」
そこまでだった。
ミランダは答えなかった。
扉を閉め、後ろ手に鍵をかける。その動作を、セドリックが追う。立ち上がろうとして、椅子が軋む。
ミランダは、一歩だけ踏み込んだ。
それだけだった。
短剣は、セドリックの喉元にすでに触れていた。
セドリックの目が大きく見開かれた。声を上げようとして、口が開きかけた。だが、言葉が出る前に、刃が動いた。
横一文字。
血が噴き出すより先に、セドリックの体は椅子から崩れ落ちていた。机の上のペンが倒れ、インクが紙の上にこぼれる。書きかけの書簡が、黒く染まっていく。
ミランダは短剣の血を、セドリックの上着の裾で拭った。
部屋の中が、急に静かになった。
ミランダは机の上を一瞥した。
インクで汚れた書簡のうち、まだ読めるものが何通かある。兄宛ての釈明らしい書きかけ、カーライル商会の担当者へ宛てた報告書、マルコ捜索の進捗を記した走り書き。焦りと追い詰められた苛立ちが、ペン跡にまで滲んでいた。
(手ぶらで帰るのも、ね)
ミランダは血で汚れていない書簡だけを選び、素早く畳んでドレスの内側へ滑り込ませた。続いて、机の引き出しを静かに引く。
印章と、小振りの金庫の鍵。それから、現金の入った革袋が二つ。装飾のついた懐中時計。金目のものはそう多くはなかったが、この男の身分にしては妥当な量だった。
印章は迷わず取った。アッシュが使いようを見つけるだろう。
現金の袋も二つとも頂く。
(このくらいのご褒美はあってもいいわよね?)
多少目線が物取りに寄ろうが、知ったことではない。自分の流儀に合わない暗殺を引き受けたのだ。正当な報酬として受け取る権利があるはず、とミランダは勝手に納得した。
懐中時計には手を触れなかった。換金しにくい上に、持ち去れば身元特定の手がかりを残すだけだ。
最後に、ミランダは机の脇の燭台を一本だけ倒した。
蝋燭の火が書きかけの書簡に移り、小さく燃え上がる。きっとこの炎が、全てを有耶無耶のままに葬ってくれるだろう。
ミランダはゆっくりと窓辺へ向かった。
窓枠に手をかけ、体を持ち上げる。脚を振り上げ、逆上がりのように一息で窓の上へ抜けた。指先と足先だけで体を支え、そのまま屋根の傾斜へ滑り込む。
音は、ほとんど立たなかった。
屋根の傾斜が落とす影に身を潜めながら、ミランダは門前の様子を窺った。
下では、ベルメイン家の私兵たちがまだ騒いでいる。
「門を開けろ! 中へ入るぞ!」
「さっき確かに越えたんだ、見間違いじゃねぇ!」
「セドリック様に報せろ、早くしろ!」
誰もまだ、報せる相手がもう喋れないことを知らない。
ミランダは口元だけで笑った。
次の瞬間、わざと屋根の端へ姿を晒す。
淡い青灰色の服が、月明かりの下で翻った。
「いたぞ!」
門前で誰かが叫ぶ。
「上だ! 屋根の上にいる!」
「裏へ回れ、逃がすな!」
(お披露目はこれで十分よね)
ミランダは身を翻し、屋根の反対側へ駆ける。瓦の上をほとんど音もなく走り抜け、そのまま裏手へ出た。
眼下には、屋敷の外周に沿って細い堀が走っている。
だが、ためらうほどの幅ではない。
屋根の縁を蹴る。夜気が耳元を裂き、次の瞬間には向こう岸へ着地していた。衝撃を膝で殺し、そのまま前へ転がって勢いを流す。立ち上がるまで、一息もかからない。
ミランダは裏手の暗がりへ走り出した。堀を越えた時点で、追手との距離は十分に開いている。あとは道を二つ三つ折れれば、もう誰も追いつけない。
背後では、ベルメイン邸の方角がにわかに騒がしくなり始めていた。まもなく死体が見つかり、火の騒ぎで屋敷中が引っくり返るだろう。追手の目も、町の耳も、全部そちらへ向く。
リディア・ヴァレリスの亡霊を見た。
そんな噂が、今夜のうちに北の区画を走り抜けるだろう。
ミランダは路地の影へ身を滑り込ませ、ようやく一息ついた。
走りすぎた。普段の自分ならもっと楽に済ませる仕事だったはずだが、今夜は追手を途切れさせず、位置を調整しつつ、最後は静かに始末する必要があった。こういう殺し方は、あまり性に合わない。
いつもなら、もっと見せつけて殺す。腐った男が、自分の積み上げてきたものが全部崩れていくのを理解した上で絶望する顔を、じっくり眺めてから終わらせる。それがミランダの流儀だった。
だが今夜のセドリックは、ただの障害役だった。噂の起点として死んでもらう必要はあったが、彼自身に用はなかった。あっさり切って、必要なものだけを頂いて、退く。
(まぁ、たまにはこういうのもね)
悪くない、とまでは言わない。だが、アッシュが引いた導線の上を走って、欲しかった盤面を正確に作り上げた。それは、一人で狩りをしていた頃には味わえなかった種類の手応えだった。
ミランダは路地の壁に背中を預け、空を見た。
見上げた夜空は、思ったよりも綺麗だった。
北の騒ぎがじわじわ広がっていくのに、星はまるで関係がないみたいに静かに瞬いている。
フードを脱ぎ、首筋の汗を拭う。
ミランダは空を眺めながら、口の中だけで小さく笑った。
(そっちもちゃんとやんなさいよ、相棒さん)
南の方角へ、視線だけを流した。




