25話 『忠犬と仮面』
男の口が、引きつったように開いた。
「な、なんだあんたたち!? ここがどこだか――」
声が上がりかけた瞬間、ミランダが動いた。音もなく背後へ回り込み、男の口元を掌で押さえる。手慣れた手つきだった。
「しーっ、静かに」
耳元で囁くミランダの声は穏やかだったが、押さえた手には力がこもっている。オーウェンの目が恐怖で見開かれたまま、仮面の俺とミランダの間を忙しなく行き来した。
「安心しろ、我々は味方だ。お前たちヴァレリス商会にとっては数少ない、な」
俺は声を落としたまま、一歩だけ近づいた。
「マルコから、何か聞いていないか」
ミランダがゆっくりと手を離す。オーウェンは咳き込みかけたが、声は上げなかった。それだけの判断力は残っている。
「マルコだと!?」
声を落としてはいたが、語気は鋭かった。
「あんな裏切者の恥知らず、知るわけがないだろう。あいつが先代を殺したせいで、店がいまどうなっているのか、知らないのか!」
顔を赤くして、唾を飛ばさんばかりの勢いだった。拳も握られている。
「俺たちがどれだけ苦労してると思ってるんだ。あいつが逃げたせいで、衛兵にも目をつけられて、店にまで捜索が入って……商売どころじゃない。あいつさえいなければ、こんなことには――」
言葉が途切れた。喉が詰まったのか、それとも次の台詞が出てこなかったのか。
俺はそれを最後まで聞いてから、静かに口を開いた。
「疑り深いのは結構だが、下手な芝居はよせ。お前は役者には向いていない」
オーウェンの表情が、一瞬だけ凍った。
「ヴァレリスの番犬、マルコ・ドレイク。あの男を慕い、あの男に育てられたお前が、本気であいつの犯行だと信じているわけがあるまい」
畳みかける。
「外でそう喧伝することで、なんとか体裁を保っていることは知っている。だが私の前では無意味で、何より時間の無駄だ。面従腹背、安い演技で騙せるのは、せいぜい今も外で見張っている連中くらいなものだろう」
オーウェンの拳から、力が抜けた。さっきまでの怒りが嘘のように消え、残ったのは疲弊と警戒が混じった顔だった。
「な……あ、あんたら本当に何なんだ……」
「話くらいは聞いているのだろう? 先の脱獄で、マルコ・ドレイクやリディア・ヴァレリスを助けた仮面の男の話を」
オーウェンの目が、大きく見開かれた。
「お嬢様のことまで……じゃあ、あんたが噂の」
「そう、私がその仮面の男だ。信じられないというなら、もっとじっくり証明に付き合っても構わない。だが君にも、そしてマルコたちにも、あまり時間的猶予は残されていないのではないかな。ヴァレリスの忠犬、オーウェン・ラング」
オーウェンは、しばらくこちらを見つめていた。それから、力の抜けたような笑いが漏れた。
「は、ははは……」
「何が可笑しい」
「いや、マルコの兄貴が言ってた言葉を思い出しまして」
オーウェンは目元を手の甲で拭い、息を整えた。
「もしかしたら、何もかも見透かしたような口ぶりの、胡散臭い男が訪ねてくるかもしれないって。正直眉唾だなって思ってたんですけど、本当にいらっしゃるとは……」
「ほう、あいつがそんなことを」
「兄貴はこうも言っていました。その男が奇妙な青黒い仮面をつけていたら、言葉は恐らく、全て真実だと。信用して良いとも」
オーウェンの声が、少しだけ真っ直ぐになった。
「仮面の旦那。兄貴とお嬢様を救っていただき、本当にありがとうございました」
頭を下げようとするオーウェンを、俺は手で制した。
「礼は必要ない。私は取引相手だからな。相応の見返りは求めるつもりだ。それに、救ったと言うにはまだ早い。そうだろう?」
オーウェンの顔が、引き締まった。
「はい、おっしゃる通りです」
「では、聞かせてもらおう。今、この商会はどういう状況にある」
オーウェンは奥歯を噛むように間を置いてから、ぽつりと話し始めた。
「……最悪です。カーライル商会の連中が、うちの所有だった倉庫や関連物件を片っ端から当たっています。帳簿に載っている物件はほぼ全部押さえられました。取引先もごっそり持っていかれて、まともに商売ができる状態じゃありません」
「監視は」
「常にです。この店の周りにも、いつも何人か見張りがついています。日中はもっと酷いですよ。俺が店を出れば後をつけられる。取引先に顔を見せれば、そこまで嗅ぎ回られる。どこへ行っても、誰かに見られている状態です」
「衛兵か」
「いえ、私兵です。雇い主はおそらく、セドリック・ベルメイン卿でしょう。ベルメイン男爵家の次男で、大監獄所長の、弟君ですよ」
苦い声だった。
「あの脱獄騒ぎで兄である所長はいま、失態の責任を問われています。このまま何も手柄がなければ処分が下る立場ですから、彼らも血眼になっています。営業中だろうが構わず怒鳴り込んできては、俺や店員の反応を一つ一つ見ていました」
「何を嗅ぎ回っている」
「マルコの兄貴の居場所。それと、口にこそ出しませんが、お嬢様のことも」
オーウェンの声が、さらに低くなった。
「特にお嬢様のことが世間に出るのだけは、所長にとってよほどまずいみたいでした。セドリック卿の目つきが一番変わるのは、きまってリディア様の名前が出た時です」
「なるほど。それで、お前自身はどうなっている。味方はいるのか」
オーウェンの目が、一瞬だけ伏せられた。
「……正直、わからなくなってきています。昔の取引先も、人足も、誰がまだこっち側で、誰が向こうに寝返っているのか。下手に声をかければ、そこから情報が洩れそうで……。いまは店を回すだけで手一杯で、それ以外のことに手が回りません」
オーウェンは一度深く息を吐き、こちらを見た。
「仮面の旦那、正直に言います。このままだと、兄貴たちはあと何日も持ちません」
その一言に、部屋の空気が沈んだ。
「上手く隠れられてはいますが、安全なんて呼べるようなものじゃない。たまたま、運よくまだ見つかってないだけなんです」
俺は黙って聞いていた。
追い詰められた人間の声だった。だが、崩れてはいない。この男はまだ立っている。
「わかった。十分だ」
短く切った。
「一つ頼みがある。この町の詳細な地図を持ってきてくれ」
オーウェンは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに頷いて帳場を出た。
戻ってきたのは、それほど経たないうちだった。両手に抱えた大判の紙を、机の上に広げる。
バスティア全域の地図だった。通りの名、区画の番号、主要な建物の位置まで書き込まれている。商会が使っていた実務用のものだろう。細かく、正確だ。
俺は地図の前に立った。灯りが足りない。ミランダが壁掛けの燭台を一つ外し、机の脇に寄せた。蝋燭の灯りが紙の上に広がる。
通りの筋、河岸の形、埠頭の配置。頭の中にあるものと、目の前の地図を照らし合わせる。
指を落とした。
「マルコたちが隠れているのは、ここだな」
南埠頭の外れ。荷揚げ場から一本入った路地の奥を指している。
オーウェンの顔が強張った。
「……なんで、そこまで」
「合っているか」
「……はい」
掠れた声だった。もう驚く余力も残っていないらしい。
「では、セドリックの屋敷は」
指を北へ動かす。貴族街の外縁。
「ここか」
「……ええ、そこです」
オーウェンは地図とこちらの顔を交互に見ていた。何を知っていて、何をどこまで見ているのか、測りかねている目だった。
俺は地図から目を上げた。
壁際の棚に、写し絵が何枚か立てかけられていた。さっきから視界に入ってはいたが、改めて見る。
一枚目は壮年の男。がっしりとした体格に、商人というよりは軍人に近い面構え。先代商会長だろう。隣にマルコの写し絵。あの監獄で見た顔より少し若いが、間違いない。その横にオーウェン。今より顔色がいい。
そして、もう一枚。
若い女の写し絵だった。長い髪を後ろでまとめ、襟の高い淡い色の上着を着ている。表情は硬いが、目元にはどこか芯の強さがあった。
リディア・ヴァレリス。
俺はその写し絵の前で足を止めた。
「リディアは、いつもこういう服装か」
オーウェンが振り返った。
「お嬢様ですか。ええ、お嬢様には服装の好みがありまして。特に大切な場に出る時は、いつもああいう装いでした。襟の高い上着に、裾の長い巻きスカート。色は薄い青か、白に近い灰色。あまり飾り立てないのがお好みで」
「同じような服は手に入るか。商会にあるもので構わない」
「似たものなら、倉庫にまだ残っているかと思いますが……」
オーウェンは言葉を切り、仮面の俺とリディアの写し絵を見比べた。何を考えているのか掴みかねている顔だった。
「あの、それは何に使うんですか」
「すぐにわかる。まず用意してくれ」
オーウェンは一瞬ためらったが、頷いて帳場を出た。
残された部屋の中で、俺は地図に目を戻した。
南埠頭の倉庫。北の貴族街外縁のベルメイン邸。その間に広がる商業地区と、裏路地の網。
頭の中で、導線が一本引かれた。
オーウェンが服を抱えて戻ってきた頃には、俺の中で段取りは組み上がっていた。
淡い青灰色の上着と、裾の長い巻きスカート。写し絵の中のリディアと同じ型ではないが、色味と仕立ての方向は近い。夜目には十分だ。
俺はその服をミランダの方へ示した。
「着替えろ」
ミランダが片眉を上げた。
「……何の冗談?」
「冗談ではない。お前にはこれから、リディア・ヴァレリスになってもらおう」
部屋の中が、一瞬だけ静かになった。オーウェンが息を呑む気配がした。ミランダは仮面の俺をじっと見ている。
「正確には、リディアに見えるかもしれない女だ。フードで顔を隠し、服装と体格だけで、追手に食いつかせる」
「囮ってわけね」
「そうだ。お前にはこの店の正面から出て行ってもらう」
俺は地図の上に指を置いた。
「見つかりたくないのに急いでいる女を演出しろ。尾行がつくはずだが、気づいていないふりで走れ。引き離しすぎるなよ。追いつけそうで追いつけない距離感が重要だ」
指が地図の上を動く。本店から商業地区を抜け、裏路地を縫い、北へ。
「この道筋で、貴族街まで連れていけ。ここを通って、ここを曲がる。最終目的地はここ、ベルメイン邸だ」
指が、北の貴族街外縁で止まった。
「追手は適度に削っていいが、何人かは残せ。目撃者は必要になる。排除は邪魔な位置にいる者だけでいい。目的はあくまで監視網の混乱だ。邸宅の警備はおそらく脆い。奴らは監視と捜索にほとんどの人員を回しているはずだからな。お前なら、容易く侵入できるだろう。侵入後は、速やかにセドリックを討て」
ミランダの目が、静かに光った。
「セドリックが死ねば、監視の中核が消える。私兵どもは指揮系統を失い、町中の目が北へ向く。その混乱に乗じて、私とオーウェンはマルコたちの救援へ向かう」
「ふぅん。その後は?」
「お前の仕事はそこで終わりだ。追手を撒いたら、アジトで合流するとしよう」
ミランダは考えるように顎を引いた。ただ、口元にわずかな笑みが浮かんでいる。
「セドリック・ベルメイン。あの下衆男の弟ねぇ」
その声は穏やかだったが、底の方に冷たいものがあった。おそらく監獄では、監獄所長ともひと悶着あったのだろう。
「いいわ。引き受けた」
オーウェンが不安そうにこちらを見ていた。
「あの……仮面の旦那。こちらのお嬢さんを、囮に出すんですか。その、危なくは……」
「心配はいらない。この女が追手ごときに遅れを取ることはないよ」
ミランダがくすりと笑った。
「ふふ、優しいのね。ありがと、坊や」
オーウェンは何か言いかけたが、ミランダの目を見て口を閉じた。笑っているのに、目の奥が笑っていない。この女が何者なのか、言葉にはできなくても、肌で感じ取ったのだろう。
「お前にも動いてもらう。この女が出た後、私と一緒に南へ向かう。それまでは、いつも通りにしていろ」
「……わかりました」
俺はミランダに服を渡した。
「では、着替えろ。時間がない」
ミランダは服を受け取り、体に当てて眺めた。それから、眉をひそめた。
「……胸がきつそうね、これ」
「知らん」
「知らんじゃないわよ。こんなぴったりしたのを着て走れると思ってるの?」
上着を広げ、渋い顔を続ける。
「袖も短いし、スカートの裾が長すぎる。こんなので路地を駆けたら、三歩で裾を踏んで転ぶわよ」
「顔を隠して、遠目にリディアに見えればいい。走りやすいように崩すのは構わないが、崩しすぎるな」
「はいはい」
ミランダは帳場の隅に引っ込むと、手早く着替え始めた。俺とオーウェンは背を向けて待つ。衣擦れの音に混じって、布を裂く小さな音が聞こえた。
「……いいわよ」
振り返ると、ミランダが立っていた。
淡い青灰色の上着。裾の長い巻きスカート。フードを被れば、夜目にはリディアに見えなくもない。ただし、胸元はミランダの手で少し緩められていたし、スカートの片側には太腿の半ばまで切れ込みが入っていた。
「これが限界。お嬢様には悪いけど、このまま着たらまともに動けないわ」
「十分だ。暗がりで走る姿が、それらしく見えればいい」
ミランダは裾を軽く払い、一度だけ足を動かして感触を確かめた。
「まぁ、これなら走れるわね」
そこでちらりと、壁に立てかけられたリディアの写し絵を見た。
「顔も髪も全然違うわよ?」
「夜の暗がりだ。フードを目深に被って、追われるように走っている女がこの服を着ていれば、それだけで連中の頭にはリディアの名前が浮かぶだろう。奴らが血眼で追っている人物だ。確認せずにはいられないさ」
「ふぅん。人の心理を突くのは得意なのね」
「そうでなければ、この仮面は被れない」
ミランダは鼻で笑った。
俺は地図を畳み、長外套の内側に仕舞った。
「オーウェン。わかっているな」
「はい」
「そっちも準備はいいか」
ミランダはフードを被り、位置を整えた。顔の上半分が影に沈む。口元だけが見えている。
「いつでも」
「では、始めよう。ヴァレリスの復讐劇、その序章を」
ミランダは一度だけこちらを見て、それから音もなく帳場を出た。階段を降りていく足音は、すぐに聞こえなくなった。




