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フェイタル・フェイト:フィクサー 〜名前を呼ばれただけで詰む無理ゲー世界で、最弱ステの俺は破滅の筋書きを覆す〜  作者: 霞見


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23話 『歌劇場の怪人』

 ◇ ◇ ◇

 ユリアン視点

 ◇ ◇ ◇


 客席には、もう誰もいなかった。


 幕が下りてから、どのくらい経っただろう。最後の客が席を立ち、出口の扉が閉まり、劇団員たちが舞台を片づけて裏へ引き揚げていく音も、いつの間にか途切れていた。


 ユリアン・エヴェレットは、前方の端の席に座ったまま動かなかった。


 薄暗い客席の中で、視線だけが舞台に向いている。幕の下りた舞台には何も残っていない。大道具も照明も片づけられ、裸の板張りと、奥に据えられた煤(すす)けたパイプオルガンの管が見えるだけだった。


 苛立ちが、まだ胸の底に残っている。


 今日の劇は、ひどかった。いや、正確に言えば、ひどいのはいつものことだ。だが、慣れたところで苛立ちが消えるわけではない。


 役者は悪くなかった。主演のエルザは声がよく通るし、感情の乗せ方にも筋がある。脇の連中だって、下手なりに舞台へ出ようとしている。才能がないわけではない。芽はある。磨けば使える人間が、何人かはいる。


 だが、それを台無しにしているのが脚本だった。


 身分違いの恋。引き裂かれ、すれ違い、再会して結ばれる。もう何度この型を見せられたかわからない。障害が弱い。構図が平板だ。観客は三幕目の展開を序盤で読み切れてしまう。それでは、どれだけ役者が頑張っても舞台は立たない。


 音楽も悪い。盛り上がるべき場面で伴奏が鈍く、静けさが要る場面で妙に軽い。芝居の呼吸と音が別々の方向を向いている。あれでは役者が可哀想だ。


 舞台袖の方から、裏方の男が顔を出した。


「おい、もう閉めるからな。俺は言ったぞ」


 ユリアンはちらりとそちらを見たが、返事はしなかった。裏方の男は肩をすくめ、すぐに引っ込んでいった。慣れた対応だった。追い出しにかかるでもなく、付き合うでもなく、ただ伝えるべきことだけ伝えて消える。この劇場の人間は、もうユリアンの扱いを知っている。


 自分ならもっとやれる。そう思う。いつも思う。


 だが、誰もまともに取り合わない。


 支配人のランベールは「若様のお気持ちはありがたいのですが」と言って笑い、劇団長は目を合わせようとしない。役者たちは、口を出すたびにちらりとこちらを見て、それから視線を逸(そ)らす。


 エヴェレット男爵家の三男。爵位も継がず、家業にも就かず、芝居にだけ入れ込んでいる変わり者。町ではそういう扱いだった。家でもそうだ。父は何も言わない。兄たちは呆れている。芝居の話をまともに聞いてくれる人間は、この町には一人もいなかった。


 それでも、この劇場を放っておけなかった。


 王立アウレリア歌劇場(かげきじょう)。かつてはこの旧都の誇りだった場所だ。王族が通い、大陸中から名だたる劇団が招かれ、客席は毎夜埋まっていたと聞く。今は見る影もない。正面だけ繕(つくろ)って、中身は朽ちかけている。それでもまだ、この建物には器がある。箱としての格がある。使い方さえ変えれば、まだ蘇れる場所だと、ユリアンは本気でそう思っていた。


 だが、金がない。人もいない。後ろ盾もない。


 男爵家の三男に回ってくる金など、たかが知れている。劇場を買い取るどころか、一公演の費用すら賄(まかな)えない。演目を変えたいと言っても、脚本を書ける人間を雇う金がない。音楽を変えたいと言っても、楽師を入れ替える権限がない。


 全部わかっている。わかっていて、それでもここに座っている。


 指先が膝を叩いた。無意識の癖だった。


 あの二幕目の終わり。エルザが恋人の名を呼ぶ場面。あそこは照明を一拍遅らせるべきだった。台詞(せりふ)の余韻が残っているうちに照明が切り替わったせいで、感情の尻尾が切れた。あれさえなければ、もう少し客の空気が動いたはずだ。


 それから、三幕目の再会。あの場面に音楽はいらない。静寂のまま、二人の足音だけで距離を詰めさせるべきだ。そのほうがずっと——


 ユリアンは首を振った。考えても仕方がない。来週もまた同じ劇が始まって、同じ場所で同じように躓(つまず)く。それを客席から見ているしかない。


 それでも、立ち上がる気にはなれなかった。


「ひどい演劇だったな」


 声は、背後から落ちてきた。


 ユリアンは弾かれたように振り返った。


 客席の通路に、二つの影が立っていた。


 先に目を奪ったのは、女の方だった。


 ダークパープルの髪。紫紺(しこん)の瞳(ひとみ)。灯りの落ちた客席の中でも、その美貌は嫌でも目に入る。深い紫の布地に銀糸の縁取りが入った衣装は仕立てが良く、胸元の開き方にも腰回りの線にも、隙がなかった。


 奥方だろうか。一瞬そう思い、すぐに違うと感じた。貴族の妻が纏(まと)う空気とは、どこか質が違う。かといって、愛妾(あいしょう)や高級娼婦(しょうふ)の類かと問われれば、それも違う気がする。あの美しさには媚びがない。仕立ての良さにも、立ち姿にも、誰かに見せるための飾りではない品がある。


 関係は読めない。ただ、少なくとも自分の手が届く階層の人間ではないことだけは、直感でわかった。


 そして、その隣に立つ男。


 深いフード付きの長外套(なががいとう)。青黒い仮面。顔の大半が隠れていて、輪郭(りんかく)はわかるのに印象が掴めない。身なりは上等だが、それ以上に異様なのは、この暗い客席に自然に溶け込んでいることだった。いつからそこにいたのか、まるでわからない。


「……誰だ、あんたたちは」


 ユリアンは立ち上がりかけた。だが、仮面の男はそれには構わず、一歩近づいた。


「仮面で姿を隠している男に、誰だと聞いて何の意味がある」


 穏やかな声だった。だが、問いを正面から退ける響きがある。


「問うならば、誰(・)か(・)ではなく何(・)か(・)だ。そうだろう、エヴェレット卿」


 名前を呼ばれた。


 ユリアンの背筋が、わずかに強張った。名乗った覚えはない。今日この客席で言葉を交わした相手もいない。それなのに、この男は当然のように家名を口にした。


「僕の名を知っているのか」


「芝居と劇場に並々ならぬ情熱を注ぐ貴族がいると聞いてね。少し調べさせてもらった」


 調べた。わざわざ。自分のことを。


 驚きと同時に、妙な居心地の悪さがあった。町で自分の芝居狂いは知られている。だが、それを態々(わざわざ)調べにかかる人間がいるとは思わなかった。


「劇を貶(けな)されて、怒るかね」


「怒るかって? 当たり前だろ。あの劇を観ていたのなら――」


「役者は悪くない」


 言葉を遮られた。


 ユリアンは口を閉じた。仮面の奥から落ちる声は低く、静かだったが、妙に腹に響く重さがあった。


「主演の女は声の通りがいい。台詞(せりふ)を切る間合いにも、舞台を動かそうとする意志がある。脇の連中も、細いなりに感情を乗せようとしている。手を抜いてはいない」


 ユリアンの口が、わずかに開いた。


 同じだ。自分が見ていたものと、まったく同じことを言っている。


「だが、脚本が弱い。使い古された型をそのまま乗せている。障害も構図も平板で、先が全部読める。それから音楽だ。芝居の呼吸と噛み合っていない。盛り上げるべきところで鈍く、沈めるべきところで軽い」


 一語ずつ、正確に刺してくる。


 反論しようとして、言葉が出なかった。反論する材料がない。全部、自分がさっきまで考えていたことと同じだったからだ。


「役者がいくら足掻(あが)いても、土台が傾いていれば芝居は立たない。あの舞台を殺しているのは、役者ではなく演目と音楽だ」


 仮面の男は、そこで言葉を切った。


 静寂が落ちる。薄暗い客席の中で、ユリアンは男の顔を見つめていた。仮面のせいで表情は読めない。だが、声に込められた確信は本物だった。


 この男は、わかっている。


 客席に座って眺めていただけの人間の言葉ではない。舞台を、芝居を、構造から見ている人間の目だった。


 ユリアンは、気がつけば喋っていた。


 脚本の話だった。今の恋愛劇がなぜ弱いか。障害が足りない。身分差があると言っても、せいぜい商家と小貴族の差でしかない。あの程度では観客の胸に引っかからない。もっと深い断絶が要る。越えられないとわかっていて、それでも手を伸ばす。そういう構図でなければ、芝居は動かない。


「たとえば、身分差をもっと大きくする。王族と、名もない歌い手。あるいは聖職者と罪人。越えようとすること自体が罪になるような壁を置く。そうすれば、手を伸ばすだけで物語が動く」


 仮面の男は黙って聞いていた。隣の美女も、腕を組んだまま口を挟まない。


「演出も変える。再会の場面に音楽はいらない。静寂のまま、足音だけで距離を詰めさせる。照明も落とす。舞台の上に二人だけが残って、音のない空間で見つめ合う。そのほうがずっと——」


 言葉が熱を帯びていくのが、自分でもわかった。止められなかった。こんな話をまともに聞いてくれる相手は、今までいなかったのだ。


「三幕目の構成も作り直すべきだ。今のままでは障害が都合よく退くだけで、何の痛みもない。再会に代償がなければ、観客は信じない。片方が何かを失う。あるいは、結ばれること自体が破滅を招く。そこまで踏み込んで初めて——」


「悪くはない」


 仮面の男の声が、静かに割り込んだ。


 ユリアンは口を閉じた。


「障害の深さ、演出の引き算、代償の構造。方向は間違っていない」


 そこで一度、言葉が切れた。


「だが、まだ弱い」


 鼻白む、という感覚を、ユリアンは久しぶりに味わった。


 否定されたわけではない。方向は認められた。だが、その上で足りないと言われている。しかも、声に迷いがない。感想や好みで言っているのではなく、確信を持って断じている。


「……どこが弱いっていうんだ」


 問い返す声が、自分でも思ったより硬かった。


「構図は正しい。だが、君はまだ観客の側から演目を見ている」


「観客の側?」


「障害を大きくし、演出を削り、代償を置く。それは舞台を整えることであって、観客の心臓を掴むこととは違う」


 ユリアンは黙った。


「本当に客を呑む歌劇というのは、もう少し別のところにある」


 仮面の男は、そこでまた言葉を切った。試すように、沈黙がひとつ落ちる。


 ユリアンは次の言葉を待っていた。悔しいが、待たずにはいられなかった。


「……あんた、本当に何者なんだ」


 仮面の男は、わずかに肩をすくめた。


「ただの芸術愛好家だよ。この通り、仮面でもつけなければ演目ひとつまともに観られない、不自由な身だがね」


 冗談めかした言い方だったが、声は崩れていない。嘘とも本当ともつかない。ただ、芝居への目が本物であることだけは、さっきの言葉で証明されている。


「私の故郷では昔、こんな歌劇が流行ったことがある」


 仮面の男は、不意にそう切り出した。


 ユリアンは身構えた。さっきの「まだ弱い」の続きが来る。そう直感した。


「題名は、そう……『オペラ座の怪人』」


「……オペラ座?」


 聞き慣れない響きだった。意味は掴めるようで、どこか滑る。この大陸の言葉ではない。


「古い歌劇場(かげきじょう)の名だよ。つまり、歌劇場の怪人ということになるかな」


 仮面の男は短く補った。その言い直しで、すとんと意味が落ちた。歌劇場の、怪人。


 だが、同時に小さな違和感が残った。この男はどこの言葉を混ぜているのだろう。故郷、と言った。仮面の奥の声に訛(なま)りはない。だが、今の一語だけが、妙にこの土地から遠い響きを持っていた。


「舞台は、古い大歌劇場だ」


 仮面の男は語り始めた。


「華やかな歌劇場の地下に、広大な水路がある。そこに、一人の男が棲(す)んでいる。仮面で顔を隠し、誰にも姿を見せず、歌劇場の闇の中から全てを支配している男だ」


 ユリアンの指が、膝の上で止まった。


「男は天才だった。作曲も、演出も、歌劇のすべてを知り尽くしている。だが、世に出ることはできない。顔を隠さなければ人前に立てない理由がある。だから男は、地下から歌劇場を操る。自分の代わりに舞台に立つ者を、一人の歌姫を、見出すために」


 地下水路。仮面の男。歌姫。


 聞いたことのない構図だった。


「歌姫は才能を持っているが、まだ無名だ。男は闇の中から彼女を導く。声を磨き、舞台を与え、歌劇場の頂点へと押し上げていく。だが、歌姫には光の側に立つ男がいる。身分も顔も名前もある、表舞台の人間だ」


 仮面の男は声を落とした。


「怪人が歌姫に差し出せるのは、才能と音楽、そして地下の闇だけだ。光の側の男が差し出せるのは、名前と地位と、表の世界そのものだ。歌姫は二人の間で引き裂かれる」


 ユリアンは口を開きかけて、閉じた。言葉が出なかった。


「そして、怪人の執着はやがて歌劇場そのものを巻き込んでいく。舞台は混乱し、事件が起き、歌劇場の華やかさの裏側が剥(は)がれていく。怪人が愛しているのは歌姫だけではない。歌劇場そのものだ。自分を生かしてくれた、唯一の場所だ。だが、その愛が全てを壊していく」


 背筋が、冷たくなった。


 恐ろしいのではない。これだ、と思ったのだ。


 仮面の男が語っているのは、あらましと要だけだった。細かな筋は省かれている。だが、それで十分だった。骨格だけで、この歌劇がどれほどのものかわかる。


 障害の深さが違う。身分差や家柄の差ではない。光と闇そのものの断絶だ。表に出られない男と、表に引き上げられていく女。越えられない壁は、相手の中ではなく、自分自身の中にある。


 そして、舞台そのものが物語に組み込まれている。歌劇場の地下水路、仮面。劇場が単なる背景ではなく、怪人の世界そのものになっている。


 この場所、王立アウレリア歌劇場そのものが、物語を形作る最大の舞台。


 なんて壮大なんだ。こんな構図は、見たことがない。


「……それは」


 ユリアンの声が掠(かす)れた。


「それは、まるでこの劇場のために書かれた歌劇みたいだ」


 仮面の男は、そこで初めてわずかに笑ったように見えた。仮面のせいで表情は読めない。だが、声の質がほんの少しだけ柔らかくなった。


「この歌劇を、観てみたいと思うかね」


 問いかけというより、確認だった。答えはわかっているという声の運び方だった。


「……観たいに決まっている」


 ユリアンは即答した。抑えようとして、抑えきれなかった。


「この劇場で上演できたなら、どれほど——」


 言いかけて、口を閉じた。夢を語るには、自分の手持ちがあまりに少ない。金も、人も、権限も。さっきまで一人で噛み締めていた無力感が、また喉の奥にせり上がってきた。


 仮面の男は、その沈黙を見届けたように、静かに歩き出した。


 客席の通路を抜け、舞台へ向かう。迷いのない足取りだった。この暗がりの中を、まるで自分の家のように歩いている。


 ユリアンは黙ってその背を追った。隣にいた美女も、音もなくついてくる。


 仮面の男は舞台に上がると、奥へまっすぐ進んだ。煤けた管が何列も立ち並ぶ、あのパイプオルガンの前で足を止める。


 飾り彫りの入った木枠に手を触れ、鍵盤の蓋を開けた。その手つきに、ためらいがなかった。


「触りだけだが、聴いてもらおう。この演目の、主題曲だ」


 ユリアンが何か言う前に、仮面の男の指が鍵盤に落ちた。


 最初の一音が、劇場の空気を割った。


 低く、重く、腹の底まで沈み込むような音だった。古い管が軋(きし)みながら鳴っている。だが、その軋みすら音楽の一部であるかのように、旋律は止まらなかった。


 荘厳だった。


 だが、ただ荘厳なだけではない。美しさの裏側に、何かぞっとするものが潜んでいる。甘く響いたかと思えば、次の瞬間には不穏な低音が忍び寄る。光と影が交互に入れ替わるような旋律だった。


 劇場の奥底から響いてくるような音だ、とユリアンは思った。


 この建物の、石壁の奥、地下水路の闇、二百年分の埃(ほこり)の底から、何かが這(は)い上がってくるような音。歌劇場そのものが鳴っている。そう感じた。


 指は止まらなかった。旋律は高まり、管の震えが空気を揺らし、薄暗い劇場の隅々にまで音が届いていく。客席の布地が、壁の石が、天井の装飾が、全部まとめて振動している。


 ユリアンは動けなかった。


 舞台の端に立ったまま、呼吸を忘れていた。


 これが、あの歌劇の音なのだ。さっき語られたあらましが、今この瞬間、音になって劇場を満たしている。


 最後の一音が、長く尾を引いて消えた。


 沈黙が戻る。だが、さっきまでの沈黙とは質が違った。音の余韻が、まだ空気の中に残っている。


 ユリアンは動けなかった。


 目の奥が、熱かった。


 こらえようとして、こらえきれなかった。涙が頬を伝った。拭おうとして、また溢(あふ)れた。みっともないと思ったが、この感情は止めようがない。


 さっき語られたあらましが、たった一曲で全部わかった。仮面の怪人の孤独も、歌姫への執着も、地下の闇も、光との断絶も。言葉では届かなかったものが、音で届いた。


 物語と音楽の融合。


 これだ。これこそが、歌劇なのだ。


 そして、それがこの劇場ではもう二度と鳴らないのだと思った瞬間、胸が潰れそうになった。


「……なんで」


 声が掠れた。


「なんでこれが、この劇場でできないんだ」


 金がない。人がいない。後ろ盾がない。何度も噛み締めてきた現実が、今この瞬間、今までで一番重くのしかかってきた。こんな歌劇が存在することを知ってしまった。この劇場にこそ相応(ふさわ)しい歌劇があることを、知ってしまった。なのに、自分には何一つ手が届かない。


 ユリアンは袖で目元を乱暴に拭った。


 仮面の男は、鍵盤の前に立ったまま、静かにこちらを見ていた。


「あなたは」


 ユリアンの声は、まだ震えていた。


「あなた様は、本物だ。こんなに素晴らしい歌劇をご存知で、卓越した演奏の名手。このようなお方が、本当にいらしたなんて」


 仮面の男は何も言わなかった。ただ、その沈黙には否定の気配がなかった。


「……高貴なお方と、お見受けしました」


 仮面。上等な身なり。芸術への造詣(ぞうけい)。人目を避ける身。そして、アウレリアの名を冠した歌劇場への関心。それだけ並べれば、そう考えるのが自然だった。


「この通り、仮面なしでは外も歩けない身の上でね。そこは察してもらえると助かる」


 否定はしなかった。だが、それ以上も語らなかった。ユリアンにはもうそれで十分だった。やはりそうだ。王家の血筋か、それに近い何かを持つ人物に違いない。


「私は芸術を愛している。アウレリアの名を冠した歌劇場が、このまま朽ちていくのを見るに忍びない。そこでだ、エヴェレット卿。いや、あえてユリアンと呼ばせてもらうよ」


 仮面の男は、そこで一度言葉を切り、空っぽの客席をゆっくりと見渡した。


「ユリアン、この劇場を運営してみる気はないか?」


 ユリアンの頭が、一瞬真っ白になった。


「……運営、ですか」


「演目も、劇団も、全て君の手で立て直してほしい。買い取るための資金は、私が出そう。名義も実務も、君に一任する」


「僕に、この劇場を……」


 声が震えた。夢の中にいるような感覚だった。ずっと欲しかったものが、今まさに目の前に差し出されている。


「……はい」


 気がつけば、敬語になっていた。


「はい、やらせてください! 僕は、この劇場を——」


「ありがとう。だが、もう少し聞いてほしい」


 仮面の男の声は穏やかだったが、ユリアンの前のめりをそっと押し戻す響きがあった。


「文化の保護もまた、芸術を愛する者の務めだと思っている。だが見ての通り、私は人目を避けねばならない身だ」


 仮面の男はそこで言葉を切った。薄暗い舞台の中で、その視線だけがまっすぐユリアンを射抜く。


「だから、君にその務めを託したい。この劇場の、表に立つ顔としてね。できるかい?」


「もちろんです。この身に代えても」


 迷いはなかった。この人の前で、出し惜しみをする理由がない。


「頼もしいな」


 仮面の男は穏やかに頷(うなず)いた。


「では、条件を伝えよう。といっても、大したことではない。芸術を愛する者の、少しばかりのわがままだと思ってくれればいい」


 ユリアンは背筋を伸ばした。


「この歌劇場の地下には、旧王都時代の水路が通っている。私もここへ通う際は、あの水路を使うことになるだろう。できれば、誰にも見られたくない。お忍びで通うためにもね」


 仮面で顔を隠さなければ外を歩けない人物だ。正面から堂々と出入りできないのは当然だろう。ユリアンは頷いた。


「だから、劇団で使わない部分の地下を、私に貸してほしい。私の許可のない者は、絶対に立ち入らせないでもらいたい。修繕もこちらで行おう」


「わかりました。もとより地下は閉鎖されたままですし、劇団が使う予定もありません」


「それと、二階の貴賓席(きひんせき)の一室も、私の専用にしてほしい。気兼ねなくこの劇場を楽しみたい、ささやかなわがままだ。どうか聞き入れてもらえるかな」


 わがまま、とこの人は言う。だが、これのどこがわがままだろう。この劇場を丸ごと救ってくれる恩人が、地下の使われていない場所と、閉鎖中の貴賓席の一室を求めているだけだ。条件と呼ぶにも軽すぎる。


「もちろんです。それだけで、本当によろしいのですか」


「十分だよ」


 仮面の男は満足そうに頷くと、長外套(なががいとう)の内側に手を入れた。


 取り出されたのは、ずしりと重みのある革袋だった。口を緩めると、中から鈍い光が覗(のぞ)く。宝石だった。大粒のものが、いくつも詰まっている。


「これでまず支配人と交渉するといい。足りなければ、まだ出そう」


 ユリアンは息を呑んだ。革袋の中身は、劇場を買い取るどころか、修繕まで賄(まかな)えるほどの額に見えた。


 その時、隣に立っていた美女が、小さく口を開いた。


「……やっぱり、まだまだあるんじゃない」


 仮面の男が、わずかに振り返った。


「バカ、やめろ。後にしろ」


 短く、だが切実な響きだった。


 ユリアンには、そのやり取りの意味がよくわからなかった。だが、あの絶世の美女が仮面の男に対してあんな口をきけるということ自体が、二人の間にある信頼の深さを物語っているように思えた。高貴な男と、その傍(かたわ)らに立つ美しい女。絵になる取り合わせだった。


 ユリアンは革袋を両手で受け取った。ずしりとした重みが、掌(てのひら)を通して全身に伝わった。


 これは夢ではない。本物の重さだ。


 ユリアンは革袋を胸に抱えたまま、舞台を飛び降りた。


 客席の通路を駆け抜ける。足音が暗い劇場に響いた。静かにしなければ、という考えは浮かばなかった。浮かんだとしても、今の自分には止められなかっただろう。


 ロビーを横切る。支配人室の明かりは、まだ点いていた。


 ランベールはいつも遅くまで残っている。帳簿を繰り、溜息(ためいき)をつき、足りない金の計算を続けている。その背中を何度も見た。声をかけても、笑って流されるだけだった。


 だが、今は違う。


 ユリアンは支配人室の扉を叩いた。返事を待たずに開ける。


「ランベールさん!」


 白髪混じりの老人が、帳面から顔を上げた。いつもの困ったような顔が、こちらを見ている。


「若様、こんな時間にどうされ——」


「この劇場を、僕に任せてください」


 言葉が先に出た。順序も説明も後回しだった。革袋を机の上に置く。ずしりと鈍い音が鳴った。


「出資者が現れました。この劇場を買い取って、立て直す。演目も、劇団も、全部やり直す。その資金が、ここにあります」


 ランベールは革袋を見つめ、それからユリアンの顔を見た。目が丸くなっている。


 説明しなければならないことは山ほどあった。出資者のこと。条件のこと。地下のこと。貴賓席のこと。だが、今はそのどれよりも先に、伝えたいことがあった。


「この劇場は、まだ終わっていません」


 声が震えていた。だが、震えを隠す気はなかった。


「僕が、必ず蘇らせてみせます!」


 ランベールは何も言わなかった。ただ、老人の目が、ほんの少しだけ潤んだように見えた。


 ユリアンの胸の中で、何かが燃えていた。


 あの仮面の御仁(ごじん)は本物だった。自分はついに、この劇場を変える最初の一歩を掴んだのだ。



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