22話 『舞台裏の算段』
埃の積もった貴賓席で、腕を組んだまま考えを巡らせていた。
昼に拾った情報から、今後の動き方を幾通りか組み立てようとする。だが、どれも途中で輪郭がぼやけた。材料が足りない。手札が足りない。浮かんでは消える計画の断片を追いかけるうちに、思考はいつの間にか同じ場所を巡っていた。
薄暗い二階は人の気配もなく、考えを整理するにはちょうどよかった。だが、整理するための土台がまだ揃っていない。
どのくらいそうしていたのか。ふと気がつくと、階下の空気が変わっていた。
客席に目を落とす。昼間は空っぽだった椅子に、ぽつりぽつりと人影が増えている。前方から中央にかけて、まばらに座っている程度だが、さっきまで自分しかいなかった空間に音が混じり始めていた。外套を脱ぐ衣擦れ、椅子の軋み、低い話し声。夕方の興行に向けて、少しずつ客が入り始めたらしい。
後ろ半分はほとんど空席のままだ。布を被せた椅子の列が暗がりに沈んでいる。細々と回している興行だということが、上から眺めるとよくわかる。
やがて、舞台の照明が変わった。蝋燭の灯りが足元から持ち上がり、幕が上がる。
劇が始まった。
筋はすぐに読めた。身分違いの恋。引き裂かれる二人。すれ違い、嘆き、再会。ありきたりな恋愛劇だ。三幕目で何が起きるか、終幕でどう収まるか、序盤の時点でほとんど予想がついてしまう。脚本を書いた人間に、新しい筋を立てる余裕がなかったのだろう。使い古された型を、そのまま舞台に乗せている。
音楽も噛み合っていなかった。感情が高まるべき場面で伴奏が鈍く、静かに沈めるべき場面で妙に軽い。旋律そのものが破綻しているわけではないが、芝居の呼吸と合っていない。舞台と音楽が別々の方向を向いたまま進んでいるような居心地の悪さがあった。
ただ、役者は悪くなかった。主演の女が台詞を切る間合いには、舞台の空気を動かそうとする意志がある。脇を固める男たちも、声の通りは細いなりに、感情を届かせようとしていた。動きに無駄が多い役者もいたが、それは経験の問題であって、手を抜いている気配ではない。
弱いのは役者ではない。演目と音楽だ。この舞台を潰しているのは、乗せられている脚本と、噛み合わない伴奏だった。役者がいくら足掻いても、土台が傾いていれば芝居は立たない。逆に言えば、土台さえ換えれば、この連中はもう少しまともなものを見せられる。
そんなことを考えていた時だった。客席の前方から、声が飛んだ。
「違う、そこじゃないだろう。間が一つ遅い」
若い男の声だった。抑えてはいるが、明らかに舞台へ向けて投げている。周囲の客が何人か振り返り、迷惑そうな顔をしたが、当人は気にしていない。
視線を落とす。前方の端、客席と舞台袖の境目に近い位置に、一人の若い男が座っていた。身なりは悪くない。仕立ての良い上着に、磨かれた靴。貴族か、少なくともそれに近い家の人間だろう。
男はまた口を開いた。
「照明が早い。台詞の余韻が死んでる」
舞台上の役者が一瞬だけそちらを見たが、すぐに芝居へ戻った。慣れている。この男が口を出すのは、今日が初めてではないのだろう。隣の席の老人が、小さく溜息をついて席を立った。男はそれにも気づかない。視線は舞台に貼りついたまま、何かを呟いている。
芝居狂い。しかも、ただの観客の目ではなく、作り手の目で舞台を見ている。周囲から半ば厄介者扱いされているのが、上からでもわかった。
俺はその男をしばらく眺めていた。何に使えるかは、まだわからない。ただ、この劇場に対する執着だけは、本物だった。
二幕目の半ばに差しかかった頃、背後で微かに床が軋んだ。
振り返ると、ミランダが回廊の入口に立っていた。
最初に目に入ったのは荷物だった。両手に紙包みと布袋。肩にも何か掛けている。次に目に入ったのは衣装だった。出ていった時に着ていたものとは、まるで違う。深い紫の布地に銀糸の縁取り。胸元の開き方も、腰回りの仕立ても、どう見ても「目立たないように」という注文とは正反対の方向を向いていた。
ミランダは荷物を抱えたまま、音を立てずに近づいてきた。隣の椅子に腰を下ろし、荷物を足元にまとめて置く。それだけの動作なのに、紙包みが擦れる音がやけに大きく聞こえた。
「こんなところに居たの。探したわよ」
「……何だ、その荷物は」
声を落とす。階下では芝居が続いている。
「買い物よ。見ればわかるでしょ」
「量の話をしている」
「必要なものを買ってきただけよ」
この量が、必要なもの。俺は足元に積まれた包みの数をもう一度見た。紙包みが三つ、布袋が二つ、肩に掛けていた包みが一つ。それに加えて、今着ているこの衣装だ。
「……あの金貨、いくら残っている」
「え?」
「金貨だ。いくら残っている」
ミランダは一瞬だけ目を逸らし、それから何でもない顔でこちらを見た。
「安心して。まだ残ってるわ」
「いくら、と聞いている」
「…………」
「ミランダ」
「……まぁ、ほとんど」
「ほとんど、何だ」
「ほとんど、使ったわね」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「――お前、あれ全部で金貨何枚あったと思ってる」
「ちょっと、声。声を抑えなさい」
「抑えてる」
「抑えきれてないわよ」
確かに少し上がっていた。奥歯を噛んで、息を吐く。階下の客席に聞こえたらまずい。
「……いいか、あの袋には金貨が数十枚は入っていた。一枚でも庶民の数ヶ月分だ。それを半日で、ほとんど?」
「言ったでしょ、必要だったって。着るものも、身だしなみの道具も、武器だってそう。情報だって、タダじゃないわ」
「その衣装の、どこが必要なんだ」
「これ? これは必要経費ね。良い情報は良い場所に集まるの。良い場所には、それなりの格好でないと入れないのよ。わかる?」
「わからん」
「嘘。わかってるくせに」
わかっている。理屈としては。だが、感情がまったく追いついていない。
「……目立つなとも言ったはずだ」
「目立ってないわよ」
「その格好で目立たないわけないだろう」
「あら、綺麗な女が綺麗な服を着ているだけじゃない。こういうのはね、釣り合いがとれてれば案外目立たないものなの」
言い切ってから、ミランダはちらりとこちらを見た。
「むしろ、あんたみたいなのと並んで歩くほうがよっぽど目立つわ」
「…………」
反論が出てこない。いや、出てくるが、この場で声を張るわけにはいかない。舞台では恋人同士が再会の抱擁を交わしている最中だった。その上で俺たちがここで揉めているのは、絵面として最悪だ。
俺は額を押さえ、深く息を吐いた。
「……もういい」
「あら、もう終わり?」
「劇の最中だ。後で話す」
「ふふ、逃げたわね」
「逃げてない。場所を選んでいるだけだ」
ミランダは口元を押さえて笑いを噛み殺した。その横顔が、舞台の薄い灯りに照らされている。腹は立つ。だが、今ここでこれ以上声を上げるわけにもいかない。
結局、二人とも黙った。
舞台の上では、恋人たちの再会の場面が続いていた。音楽が高まり、抱擁が解け、台詞が交わされる。筋書は相変わらず読めるが、役者の声はちゃんと届いている。陳腐な台本を、声と間合いだけでどうにか持たせようとしていた。
隣のミランダは、荷物を足元に収めたまま、腕を組んで舞台を眺めていた。さっきまでの軽口の気配はもう消えていて、ただ静かに観ている。
三幕目に入った頃、隣でミランダが小さく息を吐いた。
「つまらない劇ね」
短く、冷たかった。感想というより、切り捨てに近い。
「そうか」
「そうよ。筋は読める、先も見える、驚きもない。退屈だわ」
間違ってはいない。だが、俺の目はもう少し別のところを見ていた。
芝居を殺しているのは、役者ではなく演目と音楽だ。陳腐な脚本と噛み合わない伴奏が、役者の力を押し潰している。ミランダは舞台の退屈さを切ったが、俺が見ているのは、その退屈を作っている構造の方だった。
だが、今それを説明する気にもならない。
「先に戻ってろ。俺はもう少し残る」
「あら、この劇にまだ用があるの」
「劇にじゃない。劇場にだ」
ミランダは一瞬だけこちらを見て、それ以上は聞かなかった。足元の荷物をまとめて抱え上げ、音を立てずに立ち上がる。
「じゃ、先に戻ってるわ。荷物も片づけたいしね」
「ああ」
「お金の話は、後でちゃんと聞くわよ」
「……こっちの台詞だ」
ミランダは小さく笑い、回廊の暗がりに消えていった。足音はすぐに聞こえなくなる。
一人になった貴賓席で、俺は再び舞台に目を向けた。
三幕目は予想通りの筋で進んでいた。引き裂かれた恋人たちが再び結ばれ、障害は都合よく退き、幕は祝福の中で下りようとしている。客席からはぱらぱらと拍手が上がったが、熱はない。義理の拍手に近い音だった。
幕が下りる。照明が戻る。
客がまばらに立ち上がり、出口へ向かい始めた。席を離れる足音、外套を羽織る衣擦れ、低い会話。それらが少しずつ薄れていき、客席はすぐに静かになった。元々の入りが薄いから、引きも早い。
舞台の方でも片づけが始まっていた。大道具を動かす音、幕を手繰る音、裏方同士の短いやり取り。劇団員たちが手際よく舞台を畳んでいく。
客席はほとんど空になった。だが、一人だけ残っている。
前方の端。さっきから芝居に口を出していた、あの若い男だった。
客も劇団員もほとんど掃けた後の薄暗い客席で、男は席に座ったまま、舞台の方を見ていた。腕を組み、何かを呟いている。時折、首を振ったり、指先で膝を叩いたりしている。独り言の内容までは聞き取れないが、芝居の運びについて考え込んでいるのは姿勢を見ればわかった。
周りには誰もいない。片づけの裏方が一度だけ客席の方を見たが、男の存在に気づいても声はかけず、そのまま舞台裏へ戻っていった。ここでも慣れている。この男がこうして居残るのは、いつものことなのだろう。
俺は暗がりの貴賓席から、その男をじっと見ていた。
町で半ば笑われていそうな、芝居狂いの若い貴族。周囲から浮いている。劇場の誰にも本気で相手にされていない。それでも、終演後の空っぽの客席に一人で残って、まだ舞台のことを考えている。
執着だけは、本物だ。
頭の隅で、何かが引っかかった。まだ形にはならない。だが、このまま放っておくには惜しい引っかかりだった。
地下へ戻ると、ミランダは控え室の長椅子に腰を下ろしていた。足元には買い物の包みが開かれ、中身が半分ほど並べてある。替えの衣類、小瓶がいくつか、細い革紐で束ねた小道具の類。その脇には小ぶりの擂鉢と乳棒、乾燥した草の束、蝋で封をされた薬瓶が並んでいた。調香か、あるいはそれに近い何かの道具だろう。
「遅かったわね」
「少し見ておきたいものがあった」
向かいの長椅子に座る。ミランダは小瓶の一つを灯りに透かしながら、こちらを見た。
「で、何か拾えた?」
「お前の方が先だ。町はどうだった」
ミランダは小瓶を置き、指を折り始めた。
「衛兵の数は昼よりさらに増えてたわ。大通りだけじゃなくて、裏路地にも回ってる。脱獄騒ぎの捜索はまだ本腰ね。手配書はあちこちに貼られてたけど、わたしに気づいた人間はいなかった。あの手配書の絵、けっこう古いのよね。恰好も違うし、別人に見えるんじゃないかしら」
「仮面の男の噂は」
「出回ってるわよ。酒場でも市場でも、みんな好き勝手に喋ってる。ただ、どれも尾ひれがついた与太話ばかり。顔も名前も割れてないから、実態のない怪談みたいな扱いね」
昼にギルドで拾った話と一致する。当面は、噂が噂のまま広がっている段階だ。
「他に気になったことは」
「北のほうを歩いたんだけどね。一軒だけ、やけに羽振りのいい商会があったわ」
「羽振りのいい商会」
「カーライル、って名前だったかしら。店構えも品揃えも値付けも強気で、出入りしている客も身なりのいい貴族ばかり。周りの店が静かなのに、あそこだけ別の町みたいだったわ」
カーライル。昼にギルドの食堂で聞いた名前と同じだ。
「ああいうの、見覚えがあるのよね」
ミランダの声が、少しだけ低くなった。
「一軒だけ太っていて、周りが痩せている。上と繋がっていなければ、ああはならない。きな臭いわよ、あれは」
腐敗した貴族や商人を相手にしてきた女の嗅覚だ。直感だけで言っているわけではないのが、声の質でわかる。
「昼にギルドの食堂で話を拾った時にも、同じ名前が出た」
俺は手短に返した。依頼の細り、河岸の衰え、その中でカーライルだけが景気がいいこと。上との繋がりを匂わせる話が出たが、誰も面と向かっては口にしないこと。
「町の商いが細っているのは、お前も歩いて感じただろう」
「ええ。表通りはまだ取り繕ってるけど、裏へ入れば一目でわかるわ」
「それと、ヴァレリスの名前は何か聞いたか」
「ヴァレリス? ええ、何度か聞いたわよ。半年前まではあの商会が町を支えていたって、年配の商人なんかは普通に話してた。河岸の近くで荷物を見ていたおじいちゃんも、昔は世話になったって言ってたし。覚えている人間は多いわね」
半年前まで町を支えていた商会の名前が、まだ普通に口に出る。消えてはいない。であれば、再び持ち出した時に受け皿はある。
俺はそこで少し間を置いた。情報の交換はここまでだ。次の話に移る。
「一つ、提案がある」
ミランダが目を向ける。
「この劇場を手に入れよう」
一拍、間が空いた。ミランダは表情を変えず、ただ俺の顔をじっと見ていた。
「手に入れる、ね」
ミランダは長椅子の背に体を預け、腕を組んだ。
「あんたが買うの? 仮面までつけて正体を隠してたのは、こういう時のため?」
「いや。俺に身分を証明するものはない。そして、今後もそれを作る気はない」
ミランダの目が、わずかに動いた。
「……あんたも、訳ありなのね」
「そういうことだ」
「じゃあ、どうするの。お金だけの問題じゃないでしょう。買い取るにしても、それなりの身分が要るんじゃない?」
「その通りだ。俺もお前も、表には立てない」
俺は頷いた。
「だから、表の顔を手に入れる」
ミランダの目が、わずかに細くなった。
「……もう当てがあるの?」
「さっき、劇場で一人見つけた」
それだけ言って、俺は言葉を切った。ミランダは少しだけ待ち、続きが出てこないのを見て片眉を上げた。
「焦らすわね」
「計画はある。だが、もう少し組み立てたい」
「今じゃ駄目なの?」
「生煮えで話すと、お前が先に動きかねないからな」
「あら、信用ないのね」
「信用の問題じゃない。手順の問題だ」
ミランダは肩をすくめたが、それ以上は追わなかった。こちらの頭に何かがあることは、もう読んでいるのだろう。
遠くで水路の水音がしている。地下の空気は静かで、舞台の喧噪がまるで嘘のようだった。
頭の中に、ひとつの形が浮かびかけていた。
まだ粗い。だが、試す価値はある。
実行は、次の夜だ。




