21話 『人と紙の集まる場所』
ミランダを見送ったあと、俺も地上へ出た。
玄関の扉は閉まっていたが、昼の薄い時間帯らしく錠は落ちておらず、内側から押せばあっさり開いた。
外へ出て、振り返る。
石造の大きな正面構え。柱は太く、壁面には旧王都時代を思わせる意匠が残っている。入口の上には紋章を模した飾り彫りがあり、その下に「王立アウレリア歌劇場」の銘が刻まれていた。
遠目には立派だ。だが、間近で見れば粗が見える。欠けた装飾。煤けた壁面。継ぎ足された石の色が元の壁と合っていない箇所がいくつもあった。
正面だけはどうにか体裁を保っているが、建物の横へ目を向ければ、手の回っていない部分はすぐにわかる。全体を丸ごと支え切れていない。使う場所だけ繕って、残りは持つところまで持たせている。
だが、それは悪い話ばかりでもない。表の顔としては十分な格がある。目立ちすぎもしない。拠点として見るなら、むしろこの半端な衰え方が都合がいい。
劇場前の通りに目を向ける。
人の姿がないわけではなかった。だが、普段の往来というよりも、目につくのは武装した人間の方だった。衛兵の二人組が足早に通りを横切り、その向こうでは騎士団の腕章をつけた一団が角を曲がっていく。冒険者らしい連中も、買い物や散策の足ではない。どこかへ急いでいる動きだった。
昨夜の大脱獄の余波だろう。町全体がまだ騒ぎの渦中にある。
俺は劇場前から離れた。急がず、かといって立ち止まらず。周囲に溶け込む速さで歩く。
旧い街並みを抜け、商業地区の方へ足を向ける。少しずつ店の並びが変わっていく。
店は開いている。荷車も通る。だが、武装した連中の動き以外は、どこか勢いがない。品を並べる手つきにも、声の張りにも、余裕というよりは惰性に近い空気が漂っていた。荷運びの人足も少なめで、脱獄騒ぎとは別のところで、町の血色が悪い感じがする。
今ここで深掘りしても、拾えるものは限られている。歩いて眺めるだけでは足りない。
情報を拾うなら、人と紙が集まる場所へ行くべきだ。昼のこの時間に町酒場を覗いても、使える話を持った人間はまずいないだろう。
手っ取り早く情報を集めるなら、あそこだ。
俺は目標を定め、足を速めた。
通りを二つ越えたあたりで、空気が変わった。人の数が増えている。革鎧、剣帯、背負い袋、泥のついたブーツ。すれ違う人間の質が、さっきまでの通りとは明らかに違う。
正面に、間口の広い石造りの建物が見えた。
出入りが多い。扉は開け放たれ、武装した男女が引っ切りなしに行き交っている。革鎧の一団が中へ吸い込まれたかと思えば、背負い袋を担いだ男が足早に出てくる。人の流れが絶えない。
近づくと、正面の庇の下にデカデカと掲げられた板看板が目に入った。
冒険者ギルド バスティア支部。
素性を明かせない縛りがある俺にとって、本来ここは最も縁遠い場所だ。ましてや今は脱獄の翌日。公的機関に顔を出すなど、普通なら避けるべき手だ。
だが、今は速さが要る。慎重に構えているうちに、拾える情報が古くなる方が痛い。
登録や窓口を使う必要はない。食堂に座って話を拾えばいい。
中へ入ると、熱気がまず来た。
人の密度が違う。依頼板の前には何人もが群がり、更新されたばかりの紙を覗き込んでいる。カウンター前にも列ができていた。魔物素材の匂い、革と油の匂い、汗の匂い、焼けた肉の匂い。全部が混ざって、ギルド特有の空気を作っている。
俺はカウンターには寄らなかった。依頼板と手配書を流し見しながら、そのまま奥の併設食堂へ足を向ける。
食堂は広く、昼時ということもあって席の半分以上が埋まっていた。現場帰りらしい一団が声高に笑い、隅では一人で黙々と食事をしている男もいる。
その中の一人に、目が止まった。
壁際の席。くたびれた上着に使い込んだ革帯。武器は見えないが、座り方に隙がない。卓の上にはエールの杯と、広げられた手配書の束。食堂に居座りながら、周囲の話に耳を立てている男の気配だった。
飲んだくれではない。根を張って、情報を拾う側の人間だ。
俺は迷わず、その男の向かいへ腰を下ろした。
近くを通りかかった給仕に、俺は手を上げた。
「エールを。あと、大岩鳥のガラガラ焼きも」
メニューには目もくれなかった。この店の名物も、目の前の冒険者がこれを好むことも、全て織り込み済みだ。
向かいの男が、手配書から目を上げた。
「へぇ。初見でガラガラ焼きたぁ、お目が高い」
値踏みするような視線だった。だが、敵意はない。むしろ面白がっている顔だ。
「名物だろ。頼まない手はないさ」
「違いねぇ」
男は短く笑い、手配書を卓の脇へ寄せた。それだけで、こちらの話を聞く気になったのがわかる。
「あんた、この町は長いのか」
「……だったらどうした」
声のトーンが少しだけ変わった。警戒というほどではない。ただ、安い世間話の相手をする気はない、という線引きだった。
「つい最近こっちに来たばかりでな。良ければ少し話を聞かせてもらえないか」
そう言って、銅貨を一枚、卓の上へ置いた。
男の視線が銅貨へ落ちる。一拍。それから、口元がにやりと緩んだ。
「へへっ、わかってるじゃねぇか。若ぇのに感心だ」
そのまま振り返り、食堂の奥へ声を飛ばす。
「おい! 俺にもエールとガラガラ焼きだ!」
こちらへ向き直った時には、もう商談の顔になっていた。
「で、何が聞きてぇ?」
「昨夜はやけに町が騒がしかったみたいだが、何かあったのか?」
「大監獄が破られたんだとよ、俺も聞いた時ぁ耳を疑ったぜ」
男は声を落とすでもなく、むしろ楽しそうに言った。この手の話は、冒険者にとっては酒の肴なのだろう。
「へぇ、それでこの賑わいか」
「まぁな。新たに賞金も掛かって、町じゃあいまも大捕り物の真っ最中ってわけよ」
「なるほどな。あんたがいま見てたそれも、手配書か?」
「ああ、こういうのは早いもん勝ちだからよ」
「良ければ見せてもらえないか?」
男がじろり、とこちらを見た。改めて測るような目だった。
「ああ゛? お前ェ、冒険者って面じゃねぇだろう」
当然の反応だ。いまの俺は貧弱体質。魔法職と嘯くことすら無理がある。
「ただの興味本位さ。今しがた、町をぶらついてきたからな。もしかしたらあの中にも指名手配犯がいたかもしれないだろ?」
軽く言うと、男は一瞬だけこちらを見てから、鼻を鳴らした。
「そうかよ、ほれ」
手配書の束が卓の上を滑ってきた。
受け取り、一枚ずつ捲る。
最初に目に入ったのは、マルコのものだった。顔も罪状もしっかり載っている。元々正式に収監されていた人間だ。手配書が出るのは当然だろう。手配書があるということは、マルコの無事を意味する。まずは収穫あり、だ。
次に目に止まったのは、ミランダのもの。懸賞金はマルコよりずっと高い。あの女を町中で見つけられる人間がどれだけいるかは怪しいが、額だけは立派だ。
他にも見覚えのある顔が並んでいた。正門側で暴れていたガロや、魔術師の男。それ以外にも、脱獄に乗じて逃げた連中が何人か混じっている。
一通り目を通し、確認する。
北塔の令嬢。リディア・ヴァレリスの手配書はない。
これは大きい。少なくとも、リディアの脱出は表沙汰になっていないか、あるいは意図的に伏せられている。どちらにせよ、今の段階では都合がいい。
手配書を揃え、男へ返した。
「さすがにいなかったよ。ありがとう」
「おう。で、続きだがな」
男はエールを一口含んでから、声を少し落とした。
「どうやらこの監獄破り、首謀者がいたらしいぜ」
「首謀者?」
「ああ、なんでも仮面を被った野郎が指示を出してたらしい。捕まった連中が、口々にそう言ってるって噂だ」
仮面の男。当然、俺のことだ。
顔には出さない。エールの杯が届いていれば、ここで一口つけるところだったが、あいにくまだ来ていない。代わりに、軽く頷くだけにとどめた。
「へぇ。そうなのか」
ちょうどそこへ、給仕が皿を運んできた。
大ぶりの鉄串に刺された肉が、まだ脂を滴らせている。削ぎ切りにされた大岩鳥の肉に、甘辛いソースが絡んでいた。焦げた脂の匂いが卓の上に広がる。
食堂の奥からは、串を回す時のガラガラという音がまだ聞こえていた。あの音がそのまま名前になったのだろう。
男の分も続けて届く。男は皿を引き寄せ、慣れた手つきで肉を頬張った。
俺も一切れ口に運ぶ。脂の甘みと、ソースの辛みが追いかけてくる。やはり美味い。冒険者がこれを好むのも頷ける。
「しかし、ギルドは随分と入りがいいな」
「そりゃあ今日はな。手配書が出りゃ賞金狙いが集まる。いつもこうってわけじゃねぇよ」
「普段はもっと少ないのか」
「少ねぇなんてもんじゃねぇ。依頼そのものが細ってんだ。護衛も運搬も、ひと月前の半分も出ちゃいねぇ」
男は肉を噛み千切りながら、不機嫌そうに続けた。
「河岸を見りゃわかるぜ。船の数も荷揚げの人足も、目に見えて減ってる。日雇いの連中なんざ、足元見られて買い叩かれてるよ」
「ここへ来る途中で商業地区を歩いたが、確かに勢いは感じなかった」
「表通りはまだ取り繕ってるがな。下のほうはもっと露骨だ」
男はエールを煽り、杯を卓に戻した。
「それにしちゃ、全部が全部苦しいって顔でもなさそうだったが」
男の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。
「……カーライルだろ」
「カーライル?」
「カーライル商会。この町じゃ今いちばん幅を利かせてる商会だ。荷も金も人も、あそこだけは妙に景気がいい」
「一軒だけ太っているというのは、あまり健全な話に聞こえないが」
「誰だってそう思うさ。だが面と向かって言う奴はいねぇ。上とも繋がってるって話だしな」
「上?」
「……まぁ、そのへんは俺の口から言えるような話じゃねぇ。察しろや」
男はそこで話を切った。踏み込みすぎた、という顔ではない。ただ、これ以上は銅貨一枚の範囲じゃない、という線引きだった。
俺はそれ以上追わず、話を変えた。
「そういえば、ここへ来る前に古い劇場の前を通ったんだが」
「劇場? ああ、あのでかいのか」
「正面は立派だったが、かなり無理をして保っている感じだった。あれは昔からああなのか」
「まさか。昔は王族が通ったような格式ある場所だったんだぜ」
男は皿の肉を一切れつまみながら、遠い話をするように続けた。
「首都が移ってから、太い客が全部抜けた。残ったのは箱だけだ。あのでかさを維持する金なんざ、今のバスティアにはねぇよ」
「それで、使える場所だけ残して回しているのか」
「そういうこった。正面と舞台だけ繕って、あとは朽ちるに任せてる。広場の芝居や酒場の歌のほうがよっぽど客が入る時代だ」
「潰さないのか」
「潰すったって、あれは王立の名前がついてる。勝手にどうこうできる代物じゃねぇんだろうよ。かといって金を注ぐ奴もいねぇ。だから、ああやって死にきれずに残ってる」
死にきれずに残っている。
男は何の気なしに言ったのだろうが、俺にはそれが少し違って聞こえた。
死にきれないのではない。まだ死んでいないのだ。
あの建物には、まだ使える余地がある。表の格。地下の広さ。人の目が届かない構造。町の中心に近いのに、誰も深く踏み込まない。
拠点としてだけではない。表の顔として、もう一段使える可能性がある。
だが、それは今口に出す話ではなかった。
皿の上の肉は、いつの間にか綺麗になくなっていた。エールも底をついている。
男にもう一枚銅貨を置き、席を立った。
「助かった。いい飯だったよ」
「おう。またなんかあったら来いや」
男は軽く手を上げ、すぐにエールの杯へ視線を戻した。もうこちらへの興味は切れている。それでいい。印象に残らない客のまま、ここを出る。
食堂を抜け、ギルドのざわめきの中を通り過ぎる。依頼板の前はまだ人だかりが残っていた。手配書の前で声を上げている連中もいる。
外へ出ると、昼の陽射しが目に刺さった。
ギルドの喧噪が背中に遠ざかる。通りの空気は、入る前と変わっていなかった。武装した連中が足早に行き交い、その隙間を町の人間が縫うように歩いている。
歩きながら、拾った情報を整理する。
監獄破りの噂はもう町中に広がっている。手配書も出回り、賞金狙いが動き始めた。仮面の首謀者の話も回っている。ただし、まだ噂の域を出ていない。顔も名前も割れていない以上、今すぐ追手が俺に辿り着く線は薄い。
マルコは無事に脱出している。リディアの手配書が出ていないのは、大きな材料だ。
町の依頼と荷の流れは細っている。河岸が痩せ、日雇いが買い叩かれ、冒険者への依頼も減っている。表通りはまだ取り繕っているが、中身はかなり削れている。
その中で、カーライルだけが太っている。上との繋がりを匂わせる話まで出た。あの男の口ぶりからすれば、町の人間はみな気づいている。だが、誰も触れない。触れられない。
そして、旧都歌劇場。あれは町が痩せていく過程で取り残された建物だ。だが、取り残されたからこそ、手つかずの余地がある。
角を曲がった時、すぐ前を衛兵の二人組が横切った。
一人がもう一人に何か言っている。声は拾えなかったが、手振りから察するに脱獄犯の捜索に関する話だろう。足取りは速く、苛立ちが滲んでいた。
俺はその背中を見送ってから、旧い街並みの方へ足を向けた。
まだ日は高い。ミランダが戻るまでには時間がある。
劇場が近づくにつれ、通りから人の気配が減っていく。ここは元々そういう場所なのだろう。旧王都の名残が残る静かな一角。人が寄りつかないことが、今はありがたい。
正面の扉は、出た時のままだった。中へ滑り込み、静かに閉める。
ロビーを横切る。
支配人室の方から声が聞こえた。紙を繰る音ではない。言い合っている。片方は低く落ち着いた老人の声で、もう片方は若い男の声だった。
内容までは聞き取れない。だが、若い方の声には妙な熱がこもっていた。何かを訴えている。懇願というより、熱弁に近い。
俺は足を止めかけたが、そのまま通り過ぎた。
ロビーの壁際に並んだ二つの階段。片方は地下へ、片方は二階へ。どちらもポールと縄が渡され、老朽化につき使用禁止の立て札がぶら下がっている。
縄を跨いで二階へ上がる。軋みはするが、崩れそうなほどではない。回廊を抜け、閉鎖された貴賓席へ入った。
埃の積もった椅子に腰を下ろす。目の前には、劇場の内側が一望できた。薄暗い客席と、かろうじて体裁を保っている舞台。その向こうに、煤けたパイプオルガンの管が並んでいる。
静かだった。
さっきの若い男の声も、ここまでは届かない。
情報は揃った。次は、この情報をどう使うかだ。
マルコとの再接続。カーライルの利権構造。劇場の表の顔としての活用。やるべきことの輪郭が、少しずつ見えてきている。
だが、まだ足りない。俺一人で回せる範囲には限りがある。人が要る。信用できる手足が。
埃っぽい貴賓席の上で、俺は腕を組んだ。




