20話 『眠れる歌劇場』
「おはよう、お寝坊さん」
目を開けると、向かいの長椅子に腰掛けたミランダが、肘を背に預けるようにしてこちらを見ていた。
昨夜渡した服はもうきっちり着こなされていて、壁に繋がれていた女の面影は薄い。代わりに、紫がかった瞳だけが、寝起きの俺を面白そうに眺めていた。
「やっと起きたわね。もう昼前よ」
「……ん、もうそんな時間か」
瞼の奥にまだ眠気が残っている。昨夜は長椅子に転がった瞬間、意識が底へ沈んだらしい。目を閉じた記憶まではあるのに、その先がまるでない。
「ずいぶんよく寝てたじゃない。壁を叩けば起きるんじゃなかったの?」
「……深く寝入りすぎた。きっとこいつのせいだな」
そう言って、俺は寝台代わりにしていた長椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「確かに、寝心地は悪くなかったわね。久しぶりにゆっくり寝られたわ」
冗談めかしたその声色に、昨夜までの疲労はない。北塔の壁に繋がれていた時の張り詰めた気配は薄れ、今はようやく一息つけた女の顔をしている。
「そうか」
短く返しながら、俺は上体を起こした。首と背中には鈍い張りが残っていたが、石床の上で夜を明かすよりは遥かにましだ。部屋の冷えた空気を吸い込むと、頭の芯にこびりついていた眠気も少しずつ剥がれていく。
「先に起きてたなら、起こせばよかっただろう」
「起こそうかと思ったのだけどね。あんまり無防備に寝てるものだから、ちょっと面白くなっちゃって」
「それで眺めていたのか? ……なんというか、あまり生きた心地のしない目覚めだな」
俺がそう返すと、ミランダは鼻で笑った。
「ふん、言ってなさい。それとも、次はちゃんと起こしてあげましょうか」
そこで少しだけ言葉を切る。こちらの反応を待つように、紫がかった瞳が細くなった。
「わたしのモーニングコールは高いわよ?」
「……いや、次は自分で起きる」
「ふーん、本当かしら」
からかうような声を聞き流しながら、俺は足を床へ下ろした。石の冷たさが靴越しに伝わってくる。眠気はだいぶ引いたが、頭のどこかにまだ朝の鈍さが残っていた。
「そんなことより、だ。もう周りは見てまわったのか」
「ええ、一通りわね。かなり古い歌劇場みたいよ。人の気配もほとんどないわ。支配人室におじいちゃんが一人ってところね。気になるなら、アッシュも見てきたら?」
「そうだな、そうしよう」
立ち上がって軽く肩を回す。首のこわばりはまだ残っていたが、動けないほどじゃない。
昨夜は逃げ込むだけで精一杯だった。ここが使える場所かどうか、ちゃんと見ておく必要がある。俺はそう考え、扉の方へ向かった。
扉を開け、控え室の並ぶ廊下へ出る。ひんやりした空気の中を少し進み、右手のアーチをくぐって水路の前まで出た。黒い水面は昨夜と変わらず鈍く光り、緩やかに流れている。
バスティアを横切るアルネス川の水を引き込んだ、旧王都時代の導水路だろう。劇場の荷を運び入れるためか、あるいは川上に屋敷を構える貴族たちの舟寄せを兼ねていたのかもしれない。いまはもう役目の大半を失い、足場も係留環も放置されたままだが、水そのものはまだ死んでいない。手を入れれば使える。もっとも、今の俺にとっては、いざという時に飛び込んで逃げるための道で十分だ。
引き返し、今度は地下倉庫の方へ向かう。途中で見つけた階段口は、思った通り埃の薄れ方が違った。床には新しい擦れ跡があり、段の角にも靴底で削れた筋がいくつも残っている。ここは今も使われている。裏方か役者か、少なくとも人の出入りがあるなら、身を隠す導線には向かない。
気配を探りながら上がると、出た先は舞台袖だった。幕の匂い、乾いた木の匂い、古い塗料の匂いが混ざっている。舞台の奥には、大きなパイプオルガンが据え付けられていた。煤けた管が何列も立ち、飾り彫りの入った木枠には時代の古さがそのまま残っている。今も鳴るかはわからないが、王立だった頃の名残としては十分すぎる存在感だった。
そのまま舞台へ出る。正面から見える範囲だけはどうにか整えてあるが、袖に近い床や壁には補修の跡が目立った。見栄えのするところだけ繕って、あとは持つところまで持たせている。そういう劇場だ。
舞台の端から客席へ降り、一階を横切る。前の方の座席はまだどうにか使える状態を保っていたが、後ろへいくほど布を被せた椅子や寄せられた備品が増え、暗がりも濃くなる。客席とロビーを仕切る扉を抜けると、空気が少し変わった。ロビーは広いが、人の気配はひどく薄い。閉まったままの売店、くすんだ石床、欠けた装飾。手を入れていないわけではないが、回しきれていないのが見て取れた。
脇の細廊下へ入ると、奥の半開きの扉から紙を繰る音がした。中では白髪混じりの老人が一人、帳面に顔を落としている。支配人か、その代わりか。いずれにせよ、今この時間、表にいる人間は彼一人のようだ。
ロビーへ戻る。壁際には二つの階段が並んでいた。片方は地下へ、片方は二階へ。どちらにもポールと縄が渡され、立て札がぶら下がっている。老朽化につき使用禁止。客の目につく導線はまとめて閉じてあるらしい。
縄を跨いで二階へ上がる。軋みはするが、崩れそうなほどではない。回廊を抜け、使われていない貴賓席へ入ると、劇場の内側が一望できた。前方の客席と舞台だけが、どうにか今も興行の体裁を保っている。後はひどいものだ。金のかかる場所から順に切り捨てて、残った芯だけで回しているのがよくわかった。
来た道を戻り、今度は地下へ続く正規階段の前に立つ。こちらは舞台袖の階段と違って、段の上に埃が薄く積もったままだ。縄を外して使った跡もない。閉めてあるから誰も使わない。舞台袖の階段より、使うならこっちだ。
周囲に気配がないのを確かめてから、俺はその階段を下りた。足音を殺して地下へ戻り、控え室の並ぶ廊下へ入る。水音がまた近くなり、ようやく息が落ち着いた。使える道と、避けるべき道は見えた。これなら当面の足場としては十分だ。そう判断して、俺はミランダの待つ部屋へ戻った。
部屋へ戻ると、ミランダはさっきと同じ長椅子に腰掛けたまま、扉の音にだけ反応してこちらを見た。
「おかえり。どうだった?」
「悪くない」
扉を閉め、ミランダの対面にある長椅子に腰かける。
「追手が落ち着くまでは、しばらくここを使う」
ミランダが片眉を上げた。
「ここ、ってこの地下?」
「ああ。部屋は複数。人も来ない。逃げ道には水路と隠し通路が使え、上には老人が一人だけ。十分すぎる条件だ」
「そうね、隠れ家としては悪くないわ」
「別の候補も考えてみるが、当面はここで問題ない」
そこまで聞いて、ミランダは長椅子の肘掛けに頬杖をついた。
「じゃあ、戻る場所もここ?」
「そうだ。何かあった時の合流も、この歌劇場地下だ」
戻る場所があるだけで動きやすさは変わる。追われている時ほど、そういう単純な条件が効いてくる。ミランダもそこは理解したらしく、軽く頷いてから視線を戻した。
「そう。それで、これからどうする気? 考えがあるのよね」
「ひとまず今日は町の様子を見る。監獄の騒ぎがどこまで、どのように広がっているのか。追手の数、警備の様子、町の声。拾うべき情報は多い」
「ふぅん。情報収集ね」
「ああ」
短い応答のあと、部屋の中にわずかな間が落ちる。遠くの水音だけが変わらず聞こえていた。
「だったら、手分けしたほうが早いんじゃない?」
「……その通りだ」
俺が頷くと、ミランダは満足そうに口元を緩めた。
「でしょ?」
そのまま言葉を切る。次に何を言うつもりかは知らないが、少なくとも碌でもない方向だということだけは顔を見ればわかる。
「でも、ひとつ問題があるのよねぇ」
「何だ」
そう返したところで、ミランダの視線がゆっくりと下へ落ちる。
魔法の鞄だった。
嫌な予感が、今度ははっきり形を持った。ミランダの視線は隠そうともせず、肩にかかった鞄の口へ向いている。さっきまでの軽い調子とは違う。あれは獲物を見つけた時の顔だ。
「わたし、今ほとんど丸腰なのよ」
「見ればわかる」
答えながらも、俺は少しだけ鞄の位置を体に寄せた。たぶん無駄だ。
「か弱い女が丸腰で表を歩くなんて、危ないでしょう?」
「……か弱い?」
一人で町を壊滅させ、捕まってなお看守の足をへし折った女が……?
「ええ、か弱い」
ミランダはしたり顔で続ける。
「……そ、そうか。普通に考えれば凶器を持ち歩く女のほうがよほど危ないと思うんだが」
「あら、それじゃ追手に出会ったらどうするの? わたしが捕まればあんたも困るんじゃない?」
「それはそうだが」
そこは否定できない。街へ出す以上、手足を縛ったまま放り出すような真似はできない。
もちろん、一般人であればの話だ。
「お前は丸腰でも十分対処できるだろ」
「あ・ぶ・な・い・の」
「…………そうか」
「そうよ」
このまま拒めば、確かに危ないだろう。主に俺の身が。
「言い分はわかった」
「ふふ。それじゃあわかるでしょ?」
「何のことだ」
「もぉ、鈍いわねぇ。情報も装備も、ただじゃないってこと」
そう言いながら、ミランダは俺の手元ではなく、その少し横――鞄そのものを見ていた。
「……」
「どっちにも、先立つものが必要よね。ね?」
わざわざ念押しまでしてくるあたり、もう逃がす気はないらしい。
「昨日の、ちゃんと見てたわよ。ずいぶん面白い鞄持ってるじゃない」
「……あぁ、これか。確かに中身は魔法の鞄だが」
言いながら、俺は鞄を持ち上げてみせると、そのまま小脇に抱え込んだ。せめて簡単には取られない位置に寄せる。
「水も食べ物も着替えまで出てくるんだもの。どうせたっぷり持ってるんでしょ」
「……何の話だ」
ミランダは鞄の方を指先でちょいと示し、わざとらしく首を傾げた。
「お金よ。お・か・ね」
仕草には可愛げがあったが、言葉には清々しいほどそれがなかった。
黙っているわけにもいかず、俺は答える。
「…………多少はな」
「多少、ねぇ」
ミランダは目を細める。
「何だ」
「用意周到そうなあんたが、本当に多少?」
「……あるにはある。だが、これからどう動くにせよ、金は入用になる。無駄使いは――」
「無駄? 聞き間違いかしら。いま、無駄って言った?」
声音がすっと低くなる。まずい。この調子はまずい。
「わかった、わかったよ。出せば良いんだろ」
俺は肩掛け鞄の口に手を差し入れ、亜空間から金貨袋を握って取り出す。もう片方の手で金貨を一枚摘まみ出し、ミランダへ放った。
「そら、大事に使えよ」
ミランダは金貨を受け取り、指先でつまんだまま光に傾けた。視線は投げられた金貨ではなく、俺の手元。鞄の中に向けられている。
「ふぅん」
「何だ、その顔は」
「別にぃ? あんたの鞄から、もっとずっしりとした音が聞こえたはずなんだけどなぁ~なんて、これっぽっちも思ってないわよぉ」
「…………」
こいつ、本当に面倒だな。
「わたしたち、相棒よねぇ? 相棒って、もっと苦楽を供にできるものだと思ってたわ」
「……足らんなら素直にそう言え。後で何に使ったかはきっちり聞かせてもらうぞ」
もう一枚、同じように金貨だけ摘まんで放る。
「あ~ぁ、『俺と組め!』とかカッコつけてたあの姿は、どこに行っちゃったのかしら」
くそ、言い方がいちいち腹立たしい。
さらに一枚、今度は少し強めに放った。
「貨幣価値はわかってるんだよな? 銅貨や銀貨じゃない。金貨だぞ、金貨!」
現代人である俺の感覚に照らせば、金貨には十万円相当の価値がある。そう軽々しく投げていい額じゃない。
「何よ、ただの必要経費じゃない」
「この額を必要経費と言い張る時点で、お前の金銭感覚は信用できん」
「馬鹿言わないで。こんなんじゃ全然足りないわよ」
「なに!? まだ取る気なのか」
さすがに声が上ずった。三枚だぞ。三枚。ここまででもかなり譲っている。
「良い女で居るには、お金がかかるの。そんなの常識でしょ」
「他人の財布だと思って気楽に言うな」
「他人じゃないわよ。わたしたち、相棒でしょ」
「……」
その言葉を便利に使いすぎだ。
「それとも、わたしにそのへんの通りで適当に稼いでこいって言うの?」
「それはやめろ」
即答する。
「じゃあ、出して」
そこでミランダは立ち上がった。
長椅子の前を回り込むと、ためらいもなくこちらへ身を寄せてくる。歩幅にすれば二、三歩のはずなのに、ぐいっと詰められるとやけに近い。肩口にかかる髪が揺れ、甘い香りがかすかに掠めた。
俺は反射的に中腰で立ち上がりかけ、肩掛け鞄を引き寄せる。開いた口へ差し込んだ手に力が入った。中の金貨袋を握り直す。これ以上は渡さない。
「ねぇ、アッシュ」
「……近い」
「ちゃんとお願いしてるのよ?」
甘えるような声音。間近で覗き込まれると、視線の置き場に困る。
「圧しか感じないが」
「ふふ。じゃあ、もっと優しく言ってあげる。お金、ちょうだい?」
わざとらしく首を傾げる。近い。近すぎる。紫がかった瞳がまっすぐこっちを見ていて、そのくせ口元だけは愉しそうに緩んでいる。
「言い方の問題じゃない」
「でも、必要でしょう?」
「……必要ないし、これ以上渡す気もない」
線を引くなら、ここだ。三枚。ここまでで十分譲った。これ以上はない。そう決めて袋を握り直した、その時だった。
ミランダがふっと笑う。
「ふぅん、強情ね。でも嫌いじゃないわ」
さらに半歩、踏み込まれる。肩先が触れそうなほど近い。思わず視線が揺れた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけだ。
「――隙あり」
つま先が、俺の脇に引き寄せた鞄の底をひょいと跳ね上げる。
「っ」
不意に持ち上がった衝撃で、鞄の中の金貨袋が指の間からすっぽ抜けた。宙へ浮いたそれを、ミランダは何でもない顔で片手に収める。最初から、そこまで込みで動いていたみたいな手際だった。
「いただき」
「お前……!」
睨みつけると、ミランダは袋を胸元で軽く揺らし、満足そうに目を細めた。甘えて近づいてきたくせに、最後は力ずくだ。本当に性質が悪い。
言い返そうとした頃には、もう遅かった。ミランダは袋の口を軽く結び直すと、そのまま懐の内側へ滑り込ませる。手品みたいな手際だった。さっきまで俺の鞄の中にあったものが、今はもう向こうの持ち物みたいな顔をして収まっている。
俺は小さく息を吐いた。ここで揉めても面倒が増えるだけだ。
「……無駄使いはするなよ。必要なものだけにしろ」
「はいはい、子供じゃないんだから」
「後、目立つのもよせ」
「わたしがそんなヘマすると思う?」
「日が落ちる前には戻れ」
「わかってるわよ」
返事は軽い。だが、袋を隠したあとの顔は隠しようもなく機嫌がいい。してやったりという顔のまま、ミランダは袖口を軽く整え、裾を払った。もう頭の中では買い物の段取りでも始まっているのだろう。
「本当にわかってるのか?」
「少なくとも、あんたが思ってるよりは上手くやるわ」
そこまで言って、ミランダは楽しげに片目をつぶってみせた。
「じゃ、行ってくるわね。アッシュ」
「……ああ。気を付けろよ」
「ふふふ。はぁい」
言葉だけ残して、ミランダは軽い足取りで扉へ向かった。背中まで浮かれて見えるのが腹立たしい。
扉が開いて、閉まる。
静けさの戻った部屋の中で、俺はようやく肩の力を抜いた。
……完全にやられたな。




