19話 『二人の脱獄』
「ついてこい」
そう言って、俺は北塔の房前から踵を返した。
背後で、外された鉄の手枷が床を打つ音が一度だけ鳴る。ミランダが壁際へ放ったのだろう。振り返る必要はなかった。
そのまま足を速める。少し遅れて、背後でも足音が追ってきた。
正面側からは、まだ騒ぎが続いていた。怒号。駆ける音。金属のぶつかる鈍い響き。どこかで扉を叩く音まで混じっている。
だが、そちらへ向かう意味はない。
今から正門へ向かっても、マルコたちに追いつける保証はない。追いついたところで、俺は正面突破の戦力にはならない。ならば、選ぶべき道は一つだ。
背後から、ミランダが少しだけ笑いを含んだ声を投げた。
「正門からは出ないのねぇ」
「今さら行っても遅い。別ルートを使う」
短く返し、そのまま進む。
北塔の通路を越え、雑居房列を抜け、マルコが捕まっていた独居房列へ入る。
開いた牢。閉じられたままの牢。落ちた鍵。壁際に崩れた看守。ミランダは通り過ぎるものをちらちらと眺め、そのたびに軽口をこぼした。
「うわ、痛そぉ」
「出してもらえなかったの? 残念ねぇ」
「あら、良いものあるじゃない。もらっていくわね」
「ねぇ、本当にこっちで合ってるの?」
……こいつ、思ったより元気そうだな。
「黙ってついてこい」
それだけ返し、列の最奥で足を止めた。
壁際の燭台受けに手をかける。わずかに傾け、離れた石の継ぎ目を押し込む。
低い石擦れの音が鳴った。
ミランダが息を呑む気配がした。
最奥の壁が、ゆっくりと横へずれた。
俺は先に身を滑り込ませ、ミランダへ手を伸ばした。
「こっちだ」
促されるまま、ミランダも俺の手を取り、壁の隙間へ体をねじ込む。二人が通りきったところで、開いた壁が背後で重く閉じた。
途端に、監獄の喧噪が遠のく。
残ったのは、湿った石の匂いと、俺たちの足音だけだった。
「……へぇ」
背後で、ミランダが小さく息を漏らす。
「本当にあるのね、こういう抜け道」
「感心してる暇があるなら歩け」
「歩いてるじゃない」
少し拗ねたような声が返る。
隠し通路は、人が並んで歩くには狭かった。俺が先を行き、ミランダがその後ろをついてくる。石壁に挟まれた細い道を、ただ進む。
曲がり角を二つ。下りを一つ。途中で一度だけ、天井のどこかから落ちた水滴が、近くの石を打った。
「ねぇ」
背後から、また声がかかる。
「どこへ出るの?」
「着けばわかる」
「それ、答えたうちに入らないと思うのだけど」
「……古い歌劇場。その地下だ」
「初めから素直にそう言いなさいよ」
「…………」
ミランダは小さく鼻を鳴らしたが、文句はそこで止めた。
やがて俺は足を止める。
正面の壁際にある燭台受けへ手をかけ、下へ引いた。
低い石擦れの音とともに、目の前の壁がゆっくりと開く。
流れ込んできた空気は、監獄のものとは違っていた。湿り気の奥に、古い木と布の匂いが混じっている。
俺は先に外へ出た。
そこは短い石廊下だった。灯りの届きにくい、古い連絡通路。
遅れて出てきたミランダは、背後で閉じていく壁を見て、今度ははっきり目を見開いた。
「……へぇ。どういう仕掛けなの、これ」
俺は答えず、まず足元へ視線を落とした。
新しい足跡はない。埃の上を走る細い線は、せいぜい鼠のものだ。
さらに耳を澄ます。
遠くで、かすかな水音がした。
その横で、ミランダがふっと目を細める。
「人の気配はないわね」
短く言ってから、今度は少しだけ首を傾けた。
「水……この先かしら」
「ああ」
俺は廊下の奥へ目を向ける。
「少なくとも、この辺りは長く使われてない」
ミランダも廊下の奥へ視線を向け、小さく息を吐いた。
「なら、今夜の寝床には困らなさそうね」
返事の代わりに、俺は歩き出した。
石廊下はすぐに左へ折れ、その先は長い横廊下になっていた。左手には古い扉がずらりと並んでいる。いずれも飾り金具は曇り、前を横切った跡もない。
俺はためらわず、その一つへ向かった。
取っ手をそっと下げる。わずかな抵抗はあったが、鍵は掛かっていない。扉を押し開けると、乾いた空気とともに、長く閉ざされていた部屋の匂いが流れた。
中は古い控え室だった。
壁際の長椅子。低い卓。隅に積まれた衣装箱。厚手の布が半端に垂れ、金具の意匠だけが、かつての上等さを辛うじて残している。
俺は中へ入り、床、壁、天井と順に見た。積った埃の厚さが、長い間放置されてきたことを物語っていた。
「……へぇ」
後ろから覗き込んだミランダが、今度は少しだけ素直な声を漏らす。
「思ったより、ちゃんと部屋になってるのね」
「元は王侯貴族用の控え室だ。使われなくなっただけで、造り自体は良い」
ミランダは部屋の中を見回し、それから長椅子の背に指先を触れた。
「なるほどね。監獄上がりには、贅沢なくらいだわ」
俺は小さく息を吐く。
「今夜はここを使う」
そう言ってから、魔法の鞄を床へ下ろし、口を開く。
「水と……あった、食料だ」
卓の上へ水袋を一つ、包みを三つ置く。硬いパン。干し肉。少しだけ甘味の残った果実の砂糖煮。どれも街道の宿場宿で買った日持ちのする携帯食だ。
ミランダが卓を覗き込み、口元をゆるめた。
「……気が利くじゃない」
「今さら倒れられても迷惑だからな」
「はいはい。そういうことにしておいてあげる」
軽く受け流しながら、俺はさらに鞄へ手を入れた。
次に取り出したのは、畳まれた衣服と外套だった。卓の端へ寄せると、さすがにミランダが目を瞬かせる。
「そこまで出てくるの?」
「そんな格好じゃ、休まるものも休まらんだろ」
北塔から引きずってきた拘束の痕と汚れは、こんな薄暗い部屋でも隠しきれない。裂けた布地も、冷えた足元も、そのまま寝かせるにはひどすぎた。
そして何より、俺の目のやり場に困る。
ミランダは衣服を手に取り、軽く広げて眺める。
「へぇ。ちゃんと女物なのね」
「本当はあの令嬢に渡すつもりだったものだ。お前のためじゃない」
「そういう言い方しかできないの?」
呆れたように言いながらも、声音はどこか楽しげだった。
俺は卓の脇から半歩下がる。
「着替えろ。俺は外に出ている」
そう言うと、ミランダは小さく眉を上げた。
「あら、覗かなくていいの? わたしの着替えなんてそうそう拝めないわよ」
「ああ、俺も命は惜しいからな」
「ふふ、賢明ね」
からかうような目で、こちらを見上げる。
「じゃあ相棒さん、見張りお願い」
俺は何も答えず、扉の外へ移った。背を壁に預ける。
実際に覗こうものなら、こいつは本当に殺しに来る。揶揄っているようでも、そのじつ目的は俺の値踏みだ。猫のように読めない性格、どこに地雷があるかわからない危うさもまた、ミランダが界隈で“無理ゲー女”と呼ばれていた理由の一つだ。
扱い方は、これから慎重に考えていかなければならないだろう。
劇場のどこかで、古い木が一度だけ小さく鳴った。
背後では、布擦れの音がかすかに続いている。
ようやく監獄を抜けたのだと、そんなところで実感した。
着替えを待つ間、俺も仮面に手をかけた。
青黒い古鉄が、肌からゆっくりと剥がれる。続けて長外套を脱ぎ、魔法の鞄へ押し込んだ。
ここまで来れば、仮面の怪しげな男でいる意味はない。むしろ見咎められた時、女を連れ込んだ若い男の方がまだ話は立つ。
もっとも、今この区画に誰かが踏み込んでくる気配はなかったが。
扉の向こうでは、まだ布擦れの音が続いている。
俺は壁から背を離し、水音のする方へ足を向けた。
石廊下を進み、角を折れる。湿った空気が少しずつ濃くなる。古い木材の匂いも混じっていた。さらに先へ進むと、廊下は緩やかに下り、やがて開けた。
目の前を、水路が通っていた。
地下を流れるには幅がある。黒い水面が、届きの悪い灯りを鈍く返している。壁際には古い荷役用の足場が残り、石の縁には係留環らしき鉄具も見えた。今は使われていないのだろう。木の手すりは朽ちかけ、板の一部は外れている。だが、構造そのものはまだ死んでいなかった。
……なるほど。
水音の正体を目で確かめて、ようやく周囲の形が頭の中で繋がる。歌劇場の地下に、こういう搬入用の導線が残っていてもおかしくはない。大道具なり、荷物なり、人目につけたくない何かなり。昔は色々運び込んでいたのだろう。
最悪、ここへ飛び込む手もある。
もっとも、今すぐ試したい手ではないが。
水面を一度見下ろしてから、俺は踵を返した。
控え室の前まで戻ると、布擦れの音は止んでいた。代わりに、扉の向こうから気配だけが静かにこちらを窺っている。
「入っていいか」
「どうぞ」
柔らかい声が返る。
扉を開けると、ミランダは長椅子の脇に立っていた。渡した服は大きな問題もなく収まっている。元々豪商の娘用に、と監獄の没収品保管庫から見繕ったものだ。中身を知らずに見れば、どこに出しても恥ずかしくない令嬢のそれだ。
「ほぅ」
俺が見た瞬間の顔を拾ったのか、ミランダが片眉を上げる。
「何、その反応」
「いや、案外さまになっていると思ってな」
ミランダは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに口元を緩めた。
「そ、ありがとう。でもこの服、ちょっと窮屈なのよね。デザインも地味すぎるし」
どうやらあまりお気に召さなかったらしい。
「まぁ、お前向きの服じゃないのは認めよう」
「でしょ」
楽しそうに返しながら、ミランダは長椅子へ腰を下ろした。そこでようやく、張っていた糸が少し緩んだように見えた。
「あんたも着替えたのね。タダでさえ怪しいんだもの、そっちのほうがずっとマシよ?」
「余計なお世話だ」
俺も卓の向かいへ腰を下ろす。
「外を見てきた」
「どうだった?」
「この先に水路がある。昔の搬入口か何かだろう。今は使われていないが、逃げ道にはなる」
ミランダは小さく頷いた。
「いいじゃない。寝床もあるし、逃げ道もある」
「今夜を越すには、な」
「十分よ。今のわたしたちには」
そう言って、水袋へ手を伸ばす。飲み込む喉の動きが、暗い部屋の中でやけに静かだった。
俺もようやく肩の力を抜く。
食べられるうちに食べ、休めるうちに休む。今夜はそれでいい。
明日になれば、街の空気も、監獄の動きも、追手の出方も見えてくる。
今はまだ、そこまで考えなくていい。
「で?」
干し肉を齧りながら、ミランダがこちらを見る。
「今夜はここで寝るとして、その後は?」
「明日、外を見て回る」
「様子見?」
「ああ、あの脱獄騒ぎの後だ。これからのことを考えるにも、まずは情報がいる」
「ふぅん」
ミランダは少し考えるように視線を落とした。
「じゃあ今夜は、本当に休むだけなのね」
「不満か」
「まさか。むしろ助かるわ」
そこで、ふっと笑う。
「壁に繋がれた直後だもの。今から走り回れって言われたら、ちょっと見損なってたわ」
「安心しろ。そこまで馬鹿じゃない」
「それもそうね」
言葉が切れる。
部屋の外では、相変わらず遠い水音だけが続いていた。
静かだった。
だからこそ、気が抜ける。
俺は長椅子へ目をやり、それから扉の方を見た。
ここには同じような部屋がいくつか並んでいた。わざわざ同じ部屋を使う必要もない。
ミランダもそのほうが落ち着いて休めるだろう。
「この部屋はお前が使え。俺は隣にいる」
ミランダが水袋を口元から離し、少しだけ目を細めた。
「へぇ。一緒の部屋じゃなくていいの?」
「その方が楽だろ」
「気を遣ってくれてる?」
「部屋が余ってるから分けるだけだ」
そう返すと、ミランダはくすりと笑った。
「素直じゃないわねぇ」
「お前に言われたくない」
干し肉を一口齧ってから、ミランダは長椅子の背に肩を預けた。
「でも、悪くないわ。すぐ隣なら、何かあっても呼べるものね」
「ああ」
「襲いにこないでよ?」
「俺に自殺願望はない」
さっきまでの挑発より、少しだけ柔らかい。機嫌がいいのか、疲れて気が緩んでいるのか、その両方か。
俺は立ち上がり、鞄を持った。
「何かあったら壁でも叩け。それで起きる」
「わかったわ」
ミランダはそこで少し間を置いてから、こちらを見た。
「……ありがと」
今度は軽口ではなかった。
俺はそれに対して、うまい返事を思いつけない。
「早く寝ろ」
結局それだけ言って、扉へ向かった。
背後で、ミランダが小さく笑う気配がする。
「はいはい。おやすみ、アッシュ」
俺は手だけ軽く上げて部屋を出た。
隣の控え室も、造りはほとんど同じだった。
長椅子。低い卓。壁際の布。隅に置かれた箱。使われなくなって久しい埃の匂い。
俺は長椅子の埃を落とし、端へ腰を下ろし、壁に背を預けた。
監獄は抜けた。だが、終わったわけじゃない。
街の様子も、監獄の動きも、騎士団がどこまで騒ぎを拾っているかも見なければならない。
ミランダというイレギュラーも加わった。今後の動きもまだ決め切れずにいる。
元々武器と呼べるものは、ゲームで得た知識のみ。それも新しい出来事の連続で、どこまで通用するか予測ができなくなってきた。
時間が欲しい。ゆっくりと計画を見つめ直す時間が。
だが、全ては明日だ。今はこの疲れた体と脳を、休ませる必要がある。
長椅子へ体を横たえ、鞄を手の届く位置へ引き寄せる。隣室との壁は薄くはないが、何かあれば気づける距離だ。
目を閉じる直前、隣から小さなくしゃりとした笑い声がした。
……まだ起きてるのか。
そう思ったが、声はかけなかった。
俺はそのまま目を閉じ、遠い水音を聞きながら、ようやく眠りへ落ちていった。




