18話 『葛藤の末』
◇ ◇ ◇
マルコ視点
◇ ◇ ◇
聞き覚えのない声だった。
だが、扉脇に立つ黒仮面だけは違った。
あれほど淀みなく動いていた男が、その一声を聞いた瞬間、はっきりと動きを止めた。
それは黒仮面が初めて見せる、明らかな動揺だった。
短い沈黙のあと、黒仮面が低く口を開く。
「……ミランダ・ノクターナ」
その名前にも、聞き覚えはない。
だが、あの黒仮面が迷いなく呼んだ以上、ただの当てずっぽうではないのだろう。
マルコは眉を寄せる。
「知り合いか?」
問いに対して、黒仮面はほんの一拍だけ遅れて答えた。
「……いいや」
その否定は、妙に曖昧だった。
だが、そこへ割って入るように、お嬢様が言った。
「その方は……昨日、入られた方です」
マルコが腕の中の顔を見ると、お嬢様はまだ息を整えきらないまま続けた。
「その……入れられてすぐ、ちょっかいを出そうとした看守の足を折ったみたいで……」
お嬢様は、なおも扉の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。
「ここの方々が、どのような罪で投獄されたのかは存じません」
掠れた声だった。弱っているのは見れば分かる。だが、その言葉は不思議なほど真っ直ぐだった。
「それでも――ここは、人が居て良い場所だとは、私には到底思えません」
そこで一度、唇を噛む。
「……ここは監獄ではありません。人の尊厳を踏み躙るための場所です」
その視線が、声のした房の方へ向く。
「あの方も、出して差し上げることはできませんか?」
マルコは抱き寄せたまま、無言で黒仮面を見た。
判断を下せるのは、この場ではこいつだけだ。
黒仮面は何も答えない。
ただ一度だけ、お嬢様と、その奥にある房の並びへ視線を走らせる。
それから懐へ手を入れ、鍵束の一つを抜き取ると、そのまま放った。
マルコは片手で受け取る。
「一番と三番にも囚人がいる。開けてやれ」
淡々とした声だった。
ミランダ・ノクターナと口にした時の揺れは、もう表へ出ていない。少なくとも、そう見える。
マルコはお嬢様をそっと寝台へ座らせると、鍵束を持ったまま扉の外へ出た。
五番房の手前側に並ぶ房へ目を向ける。
一番、三番――確かに、まだ人の気配が残っていた。
まず一番の扉へ向かう。
鍵を差し込み、回す。硬い音を立てて扉が開いた。
中にいたのは、痩せた女だった。お嬢様とそう歳も変わらないだろう。怯えたように肩を震わせていたが、逃げるでも縋るでもなく、ただ呆然とこちらを見ている。
「出ろ」
短く言うと、女ははっとしたように立ち上がった。足元は覚束ない。だが、どうにか自分の足で外へ出る。
次に三番を開ける。
こちらにいたのも女だった。頬はこけ、髪は乱れ、衣服もお嬢様と似たり寄ったりの有様だ。だが、目だけはまだ死んでいない。
扉が開いた瞬間、一歩だけ後ずさりかけたが、マルコの顔を見て、その動きが止まる。
「歩けるか」
問うと、女は無言で頷いた。
その二人を五番房の方へ寄せてから、マルコはようやく声の主へ視線を向けた。
女は、五番房の一つ奥の房にいた。
牢の奥、壁に打ち込まれた鉄輪から伸びる鎖。その先で、両手を鉄の手枷で繋がれている。腕を引かれ、壁際に留め置かれた格好だった。足は動く。だが、それ以外はほとんど自由がない。
それでも、その女は妙に目を引いた。
濃い紫がかった黒髪は乱れてなお艶を失っていない。痩せてはいるが、頬から顎へ落ちる線は鋭すぎず、どこか作り物じみた整い方をしている。伏せ気味の灯りの下でも、鼻筋はすっと通り、目元には弱り切った人間にはない色気が残っていた。
囚われ、鎖に繋がれているはずなのに、みすぼらしさより先に見目の良さが立つ。
だが、その美しさも、ただ綺麗なだけでは終わらない。
こちらを見返す双眸には、追い詰められた獣の眼光があった。
マルコは眉を寄せる。
昨日入れられたばかりで、看守の足を折った女。
なるほど。少なくとも、ただの被害者面をして泣き崩れるような手合いではないらしい。
マルコは顎でその牢を示した。
「その牢はどうする?」
黒仮面は、その女から目を逸らさないまま答えた。
「ダメだ。この女を出すわけにはいかない」
即答だった。
その冷たさに、一番驚いたのはお嬢様だったのかもしれない。五番房の中から、息を呑む気配がした。解放した二人の女も、戸惑ったように顔を見合わせる。
だが、壁に繋がれた当の女だけは、薄く笑った。
「相変わらず冷たいのねぇ、妖精憑きさん」
場が止まる。
意味が分からなかったのは、マルコだけではない。お嬢様も、女囚たちも同じだろう。
だが、黒仮面だけは違った。
あれほど淀みなく動いていた男が、その一言を聞いた瞬間、今度こそはっきりと動きを鈍らせる。
肩が、ほんのわずかに強張った。
仮面のせいで顔は見えない。だが、それでも分かる程度には反応が出ていた。
女は楽しむように首を傾げる。
「なぁに、そんな反応しなくてもいいじゃない。せっかく再会できたのに」
黒仮面は何も返さない。
沈黙が、かえって不自然だった。
マルコは眉を寄せる。
「……知り合いじゃねぇってのは、無理があるだろ」
黒仮面は、なおも女を見たままだった。
返事をする代わりに、ほんの一瞬だけ視線が落ちる。何かを切るか、何かを呑み込むか、そんな間だった。
女は壁へ繋がれたまま、くすりと喉を鳴らす。
「ふふ。やっぱり、あなたなのね」
その言葉で、黒仮面の迷いが完全に切り替わったのが分かった。
ふっと息を吐く。
それから低く、だが今度はよく通る声で告げる。
「状況が変わった」
そこでようやく、黒仮面はマルコたちの方を振り返った。
「マルコ・ドレイク。お前たちは先に脱出しろ」
マルコの眉間に深く皺が寄る。
「あんたはどうする気だ」
短く問うてから、視線だけを女の牢へ流した。
「あの女はどうする」
黒仮面は即答しなかった。
ほんの一拍だけ沈黙が落ちる。だが、次に返ってきた声にはもう迷いがなかった。
「私には、ここでやるべきことがある」
低い声が、冷えた通路に落ちる。
「だが時間がない。正門の制圧も長くは持つまい」
そこで一度、黒仮面の視線が通路の先へ向いた。遠くの喧噪を測るみたいな一瞬だった。
「今はまだ大丈夫だ。看守だけであの数の囚人は止められない。だが連絡が行き、騎士団が介入した時点でこの脱獄劇は幕引きとなるだろう」
そして、改めてマルコを見る。
「女たちを連れて行け。今ならまだ抜けられる」
正しい。
癪だが、正しい。
マルコは舌打ちを飲み込み、お嬢様と、解放した二人の女を見た。ここで問答を続ければ、その分だけ逃げる機を失う。今は一人でも多く外へ出す方が先だ。
それでも、すぐには頷けなかった。
黒仮面はそんな迷いごと切るみたいに言う。
「迷っている時間はないぞ、マルコ・ドレイク」
マルコは鼻を鳴らした。
「……分かってるよ」
吐き捨てるように言ってから、お嬢様の肩へ手を添える。二人の女囚にも顎をしゃくった。
「お嬢様を支えろ。足元に気をつけろよ」
女たちは怯えたようにしながらも頷いた。
そこでマルコは、もう一度だけ黒仮面へ向き直る。
喉の奥で何かが詰まる。
恩だの借りだの、そんな軽い言葉で済ませていい話ではなかった。だが、他に言いようもない。
「……感謝してもしきれねぇ」
声が、思ったより低く出た。
「俺はこの借りをどう返せばいい!」
黒仮面はわずかに顎を上げた。
仮面の奥の目は見えない。だが、それでも今は、少しだけ笑ったように感じた。
「安心しろ。ちゃんと取り立てに行く」
その返しに、マルコは思わず口の端を歪める。
「あんたなら本当に来そうだ」
その時、お嬢様がマルコの腕に支えられたまま、黒仮面へ頭を下げた。
「……ありがとうございます。この御恩は、忘れません」
解放した女たちも、慌てたように続く。
「ありがとう、ございます……」
「助けて、いただいて……」
だが黒仮面は何も答えない。
答える代わりに、もう意識を別のところへ向けていた。視線の先にいるのは、壁に繋がれたまま薄く笑うあの女だけだ。
マルコは踵を返す。
「行きましょう」
お嬢様を支え、女たちを先に立たせて歩き出す。去り際、一度だけ振り返ると、黒仮面はもうこちらを見ていなかった。あの女の前に立ち尽くしたまま、何かを決めるように沈黙している。
マルコは奥歯を噛み締めた。
今さら口を挟む気はない。
あとは、あの仮面の男が自分で選ぶことだ。
そうしてマルコは、女たちを連れて北塔の通路を離れた。
◇ ◇ ◇
アッシュ視点
◇ ◇ ◇
足音が遠ざかっていく。
マルコたちが北塔を離れたのを、俺は背中越しに聞いていた。
遠くでは、まだ怒号と金属音が響いている。正門側の騒ぎは続いているらしい。だが、この北塔内は妙に静かだった。
壁に繋がれた女が、こちらを見ている。
長い紫がかった黒髪が肩口へ流れ、整った輪郭を縁取っている。鎖に引かれ、腕を拘束され、足しか自由に動かせないはずなのに、その姿は少しも哀れに見えない。むしろ、こちらを値踏みする挑発的な眼が、先に立つ。
ミランダ・ノクターナ。
過去の周回で何度も出会った顔だ。
だがこうして目の前で見るそれは、記憶よりずっと鮮烈で、生々しい。
ミランダが、俺の仮面を見て小さく笑う。
「変な仮面ね。視線が引き付けられて、なんだか気味が悪いわ」
軽い調子だった。
だが、その声音の奥には、確信めいたものがあった。
俺は視線を逸らさず、低く返す。
「……妖精憑きとは何のことだ? 私は――」
「私?」
ミランダが、くすりと喉を鳴らす。
「前は俺って言ってなかったかしら」
喉の奥がひくりと鳴った。
仮面を着けている間は、一人称も口調も意識して変えている。声と話し方を切り分け、同一人物と結びつけられにくくするための一工夫。そのはずだった。
だが、それももう意味を失っている。
ミランダは俺の沈黙を見て、さらに笑みを深くした。
「もしかして誤魔化してるつもりなの?」
その声音は柔らかい。だが、逃がす気のない言い方だった。
「かわいいところもあるのね。でも無駄よ。そんな仮面じゃ匂いは誤魔化せない」
匂い。
思わず、自分の肩口へ意識が向く。
何も分からない。血と鉄と、監獄の湿った臭気しか拾えなかった。
そんな俺を見て、ミランダが面白そうに目を細める。
「夜香の原液を直接体にすり込んだんでしょ? 簡単に抜けるわけないじゃない」
盲点だった。
俺には何も感じない。だが、こいつにとっては違うらしい。嗅覚が異常なのか、この匂いに執着があるのか。どちらにせよ、もうごまかしは利かない。
ミランダが少し首を傾ける。
「黙ってないで何とか言ったら?」
一拍。
「アッシュ」
名を呼ばれた瞬間、腹の底が冷えた。
俺は答えない。
答える代わりに、壁に繋がれた女を見る。
ミランダは、こちらの沈黙を受け入れたように、ただ静かに俺を見返していた。怯えも、命乞いもない。薄い笑みさえ浮かべず、ただ待っている。
その数秒が、やけに長く感じられた。
もはや疑いようもない。こいつは俺を覚えている。
生かしておけば、いずれ所長や看守どもの耳に入るかもしれない。それでは、この脱獄そのものの意味が薄れる。ここで口を塞ぐのが、たぶん一番合理的だ。
鞄に手を入れ、短剣を引き抜く。
刃が灯りを冷たく返した。
ミランダはそれを見ても騒がなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細める。
「そう。殺すのね」
静かな声だった。
責めるでも、怯えるでもない。ただ事実を受け入れるように。
「あんたなら別にいいわ」
一拍置いて、続ける。
「復讐、するんでしょ?」
その声音は、妙にやさしかった。
「精々、頑張りなさい」
その一言が、過去の周回と重なった。
何度も出会い、何度も戦い、何度も打ち破った。
その度に、ミランダは最後「頑張りなさい」とこぼして、消えていった。
思い返せば、命乞いや泣き言、恨み言だって聞いたことがない。
散々プレイヤーを困らせ、“無理ゲー女”と呼ばれた彼女。
だが彼女はいつだって、苛烈で鮮烈で、無茶な盤面をひっくり返し、腐った連中へ刃を突き立てる、信念と執念、そして矜持を持って戦っていた。
プレイヤーの前に立ちはだかる壁として、逃れ得ぬ“仕様”として割り切りながらも、俺は何度、その姿に惹かれ、勇気づけられ、そして「頑張りなさい」に背中を押してもらったことだろう。
指先から力が抜けていく。
ここで殺せば、盤面は綺麗になる。頭では分かっている。分かっているのに、手が進まない。
目の前にいるのは、ただの危険分子じゃない。あの、ミランダなんだ。
人気キャラだから、じゃない。そんな軽い話じゃない。
俺は、こいつにも生きていてほしかった。
滅びるはずのこの世界で、それでも先の景色を見せたくて、ここまで足掻いてきた。
なのに、その俺が、自分の都合のために、自分の手で、最後の一周まで彼女を殺すのか。
そんなことをした瞬間、きっと決定的に何かが終わる。
やれ。今ならまだ間に合う。
そう頭では何度も命じているのに、指は動かなかった。
ミランダは黙って俺を見ている。ただ、こちらが何を選ぶのか見届けるように、静かに。
その目に耐えきれなくなったのは、俺の方だった。
短く息を吐く。
殺せない。本当は初めから、わかっていた。
あの日。教会で瓦礫に埋もれた彼女を見た時、生きていることに、心底ほっとした自分がいたのだ。
なら、残る手は一つしかない。
俺は短剣を下ろした。
そして、剥奪の仮面を脱ぎ捨てる。
ミランダの目が、ほんのわずかに見開かれた。
だが、それも一瞬だった。
俺は真正面からその視線を受け止める。
「俺と手を組め、ミランダ・ノクターナ」
ミランダは何も言わない。
だから、続ける。
「お前の復讐を手伝ってやる。だから、お前は俺の復讐を手伝え」
少しの沈黙。
やがてミランダが、ゆっくりと息を吐いた。
「わたしは一匹狼よ。誰とも組まない主義なの」
「知っている」
即答すると、ミランダの口元がわずかに歪む。
「……相手は一人じゃないわ」
低い声だった。
「大勢いる。本当に大勢よ」
「それも、知っている」
それでもミランダは、まだ俺を見ていた。
「……あんたの敵は、誰?」
俺は一度、息を吸った。
「この世界を終わらせるもの、全てが俺の敵だ」
ミランダの眉がぴくりと動く。
「は?」
間の抜けた声だった。
「なにそれ」
俺は口の端をわずかに吊り上げた。
「お前の敵より確実に多いぞ」
しばらく、見つめ合った。
ミランダは冗談を聞いた顔をしなかった。笑い飛ばしも、鼻で嗤いもせず、ただじっとこちらを見ている。
やがて、細く息を吐いた。
「……本気、なのね」
問いというより、確認だった。
俺は答えない。
答える代わりに、その視線を受け止め続ける。
するとミランダは、ふっと肩の力を抜いた。
「わかった。わかったから、そんなに見つめないで」
そこで少しだけ困ったように笑う。
「恥ずかしくなってきたわ」
反射的に視線が逸れた。
しまった、と思った時にはもう遅い。耳のあたりがわずかに熱を持っているのが、自分でも分かる。
ミランダはそれを見て、くすくすと喉を鳴らした。
「ふふ……かわいい反応もできるのね」
言い返そうとして、やめた。
今ここで噛みついたところで、余計に面白がられるだけだ。
ミランダはひとしきり笑ってから、改めてこちらを見る。
「……いいわ」
その声は、さっきまでより少しだけ真面目だった。
「面白そうだから、少しだけ手伝ってあげる」
俺は鼻を鳴らす。
「フン、組む以上は、きっちり最後まで手伝ってもらうぞ」
ミランダの口元が、また薄く歪んだ。
俺は鍵束を指先で鳴らし、合う鍵を探した。
鉄の手枷は見た目以上に重い。所長の趣味か、それとも本気で危険視していたのか。どちらにせよ、女一人を繋ぐには大袈裟すぎる代物だった。
鍵を差し込み、捻る。
硬い音がして、右手の手枷が外れる。
続けて左も解く。
重みを失った鎖が、じゃらりと床へ落ちた。
ミランダが手首をさする。
「跡が残らないといいけど」
軽い言い方だった。
だが次の瞬間には、もうこちらを見て笑っている。
「それで? 何か計画はあるのかしら、相棒さん?」
俺は短く答えた。
「もちろんある」
ミランダの口元が、楽しげに歪む。
俺は仮面を拾い上げた。
「ついてこい」




