17話 『北塔の再会』
◇ ◇ ◇
マルコ視点
◇ ◇ ◇
黒仮面が始まりを告げた、その時だった。
手前の通路から、金属の触れ合う音が小さく響いた。
続いて、足音。
巡回の歩幅より少し速い。異変を聞きつけて、様子を見に来たのだろう。
黒仮面が低く言う。
「ガロは左壁。マルコは右壁に寄れ」
短い指示だった。
ガロが棍棒を握ったまま左の壁へ寄る。マルコも剣を返し、反対側の壁へ身を寄せた。
他の解放囚は壁際か、少し後ろへ下がる。
通路の真ん中には、黒仮面だけが残った。
足音が近づく。
角の向こうで灯りが揺れ、そのまま看守たちが姿を見せた。
先頭の男が、通路の中央に立つ黒仮面を見て足を止める。
「な、なんだお前――」
言葉はそこで鈍った。
視線が、青黒い仮面へ吸い寄せられる。
黒仮面は静かに言った。
「こんばんは、看守諸君」
一拍。
「そしてさよならだ」
次の瞬間、ガロが左から踏み込んだ。
重い棍棒が横殴りに振り抜かれ、先頭の看守のこめかみを打ち砕く。男は悲鳴を上げる間もなく崩れた。
同時に、マルコは右から二人目の懐へ入る。剣を大きく振る必要はない。喉元へ切っ先を走らせ、そのまま体重を掛けて石壁へ叩きつける。空気の潰れる音と一緒に、看守の膝が折れた。
最後尾の一人がようやく事態を理解し、口を開く。
だが、その時にはもう遅い。
ガロが倒れた一人を踏み越え、棍棒を振り下ろす。鈍い音がして、看守の身体がその場へ潰れた。
終わるまで、ほんの一息だった。
通路にまた静けさが戻る。
さっきまでと違うのは、その静けさがひどく熱を帯びていることだけだった。
ガロが棍棒を肩へ担ぐ。
「フン、拍子抜けだな」
マルコは剣先の血を払う。
久々に握るはずの得物だった。だが、身体は迷わなかった。鈍っちゃいなかった――ようやく、それが実感に変わる。
黒仮面は倒れた看守の腰から鍵束を抜き取り、懐にしまい込んで歩き出す。
「行くぞ」
それだけで十分だった。
解放された囚人たちが動き出す。もう誰も、檻の前で助けを待つ顔はしていない。選ばれ、武器を持たされ、初手で看守を沈めた。ここまで来れば、嫌でも分かる。
今夜は本当に外へ出る夜だ。
黒仮面は歩きながら、さらに房を選んでいく。
開ける房は、迷わず開ける。
通り過ぎる房は、そのまま捨てる。
さっきまでと違うのは、もういちいち武器を渡さないことだけだった。
低い声が通路へ落ちる。
「出たい者はついてこい。武器は手近な看守から奪え」
扉が開くたびに、囚人が一人、また一人と外へ出る。武器を持っている者は前へ、素手の者は倒れた看守から警棒や短剣を剥ぎ取る。わずかな時間で、通路の空気が目に見えて濃くなっていく。
手前へ進むほど、房の数も増える。
ざわめきも大きくなる。
独居房の並びを抜ければ、その先は雑居房だ。
黒仮面が足を止めずに告げた。
「ここからは数を出す」
ガロが喉の奥で笑う。
「ようやく派手になってきたな」
「好きに暴れろ。看守どもの手が足りなくなるくらいにな」
黒仮面の声は低いままだった。
ガロは棍棒を肩で回し、後ろの連中を顎でしゃくる。
「聞いたな。前は俺たちが抑える。開いた房の連中は、倒した看守から持てるもんを剥げ」
それだけ言い残して、ガロたちが先へ走った。
次の角の向こうで、すぐに怒鳴り声が弾ける。
「止まれ!」
「何だお前ら――」
「囚人が出てるぞ!」
鈍い打撃音。短い悲鳴。鉄が石床へ落ちる甲高い音。
黒仮面はその騒ぎに構わず、雑居房の鍵を選んでいく。
格子の向こうの数は、独居房とは比べものにならない。こもった熱気の濃さも、臭いの重さも、空気そのものの荒れ方も違う。汗、垢、湿った藁、腐りかけた飯の臭い。そこへ長く押し込められた人間の呼気が混ざり、通路の先まで淀んでいた。
こちらの気配に気づいた囚人たちが、一斉に身を起こす。
「なんだ?」
「看守じゃねぇぞ」
「おい、マルコだ!」
「外にいるのかよ!」
「開けろ! こっちも出せ!」
怒鳴り声が通路にぶつかり、たちまち膨れ上がる。
だが黒仮面は、その騒ぎごと踏み越えるみたいに歩き続けた。
開ける房と、開かない房がある。
ここでもやることは同じだった。見て、選んで、開ける。捨てる房はそのまま捨てる。その手つきに迷いはない。
「おい、ふざけんな! 何でそっちなんだ!」
「こっちだ、こっちを開けろ!」
「出せって言ってんだろうが!」
喚き立てる房は、そのまま通り過ぎられる。
一方で、黒仮面が鍵を差し込んだ房からは、息を呑んだような沈黙のあとに囚人がこぼれ出てくる。武器は渡さない。だが、前でぶつかったガロたちが看守を引き受けているおかげで、すぐ先には倒れた看守が転がり始めていた。
警棒を剥ぐ。短剣を抜く。腰の鍵や革帯まで引きちぎる。
雑居房から出た連中は、外へ出た途端にそれをやる。
人数だけなら、独居房の比ではない。しかも雑居房の連中は、体格も気配も荒い。最初の数人が外へ出た時点で、通路の圧が変わる。
前の方で、また怒号が弾けた。
「押し返せ!」
「増えてるぞ!」
「応援を呼べ!」
そこへ、囚人どもの声が混ざる。
「前だ! 前へ出ろ!」
「そいつを寄越せ!」
「武器持ってる奴は正面へ回れ!」
勢いは完全に前へ流れていた。
統率が利いているとは言い難い。だが、勢いさえあれば十分だ。雑居房で膨らんだ数が、そのまま正面側へ雪崩れ込んでいく。看守どもはそれを止めるために前へ集まるしかない。
その流れを見て、マルコは口の端だけで笑った。
なるほど。そういうことか。
雑居房で数を解き放ち、ガロたちを先頭にして正面へぶつける。看守はそちらを抑えに回る。そうして入口側を混沌で埋める間に、別の道を通って北塔へ抜ける。
全部、最初からそのつもりで組んでやがる。
さらに手前から、金属音と怒号が膨らんだ。
看守どもも、ようやく騒ぎの大きさに気づいたらしい。
黒仮面は一度だけ振り返る。
その仮面越しの視線が、マルコへ落ちた。
「今だ」
短い一言だった。
だが、それで十分だった。
マルコはすぐに流れを読む。
ここで数に飲まれて正面側へ流されるのは悪手だ。行くべきは、そこじゃない。
黒仮面は雑居房と正面側の通路がぶつかる少し手前で、躊躇なく横の道へ折れた。
太い流れから切り離された、一本の脇道。
普段なら看守か、一部の関係者しか使わない通路だろう。正面側の騒ぎが膨れ上がるほど、かえってこちらの目は薄くなる。
マルコも黙って続く。
後ろからは怒号と金属音が追いかけてくる。棍棒のぶつかる鈍い音。悲鳴。格子の鳴る音。雑居房から吐き出された連中が、もう正面側へ雪崩れ込んでいるのだろう。
ガロたちはそちらへ行かせた。
今さら引き返す理由はない。
脇道へ入った途端、空気がまた変わる。
人の密度が下がる。怒鳴り声も一枚壁を隔てた向こうの出来事みたいに遠のき、代わりに石造りの冷たさが戻ってくる。
黒仮面は止まらない。
途中、角を二つ曲がる。
その先で、ようやく人影が一つ現れた。
巡回の看守だ。
正面側の騒ぎに気を取られていたのか、曲がり角の向こうから現れた黒仮面とマルコを見て、一瞬だけ反応が遅れた。
「な――」
マルコはその間に踏み込んでいた。
剣先が喉を裂く。看守は声を上げる暇もなく崩れ、石床へ倒れた。
黒仮面は一瞥もくれず先へ進む。
その無駄のなさに、マルコは乾いた笑いを噛み殺した。
徹底してやがる。
正面でどれだけ騒ぎが膨らもうと、こっちはこっちで最短だけを踏んでいくつもりらしい。
また角を曲がる。
今度は、通路の造りそのものが変わった。
新しい。
石の継ぎ目が浅く、壁の荒れ方も少ない。古い独居房や雑居房の並びにあった、湿気と年季の染み込み方がここにはない。代わりにあるのは、よそよそしいほど整った冷たさだった。
マルコの胸の奥で、じわりと別の熱が持ち上がる。
北塔だ。
あの下衆が、表へ出したくない女や、見せ札に使う囚人をしまい込む場所。新しい区画で、独立性が高い。そういう話は、牢の中にいても耳へ入ってきていた。
つまり、お嬢様がいるとしたら、ここだ。
歩幅が、知らず速くなる。
黒仮面が先を見たまま言う。
「五番だ」
それだけで、マルコの喉がひりついた。
分かっている。聞いている。北塔五番牢だ。
だが、改めてその数字を突きつけられると、胸の奥で嫌な想像ばかりが膨らんだ。遅かったんじゃないか。もう手遅れじゃないのか。まだ息があるとして、一体どこまで――。
黒仮面はそこで初めて少しだけ速度を緩めた。
「焦るな、マルコ・ドレイク。今は助けることだけを考えろ」
低い声が、冷水みたいに頭へ落ちる。
マルコは歯を食いしばり、短く息を吐いた。
「……分かってる」
分かっているとも。
だが、それと焦らないことは別だった。
通路の先に、扉が見える。
北塔の入口だ。
向こう側にも、まだ人はいるだろう。
マルコは剣の柄を握り直した。掌に汗が滲んでいる。さっきまでの戦いでは出なかった種類の汗だった。
黒仮面が扉の前で止まる。
通路の向こうでは、まだ遠く怒号が続いていた。正面側の騒ぎは、思った以上に派手に育っているらしい。
それでいい。
今は、その方がいい。
黒仮面がわずかに顎を引いた。
「行くぞ」
マルコは答えなかった。
答える代わりに、剣を持つ手へ力を込めた。
黒仮面が扉の把手へ手を掛ける。
押す前に、一度だけ耳を寄せた。
マルコも息を殺す。
向こうから聞こえてくるのは、遠い喧騒だけじゃない。すぐ内側にも人の気配がある。革の擦れる音。槍の石突きが床を軽く叩く音。
二人だ。
黒仮面が指を二本立て、それから通路の脇を示した。
片方を引きつける。もう片方はマルコが潰せ。
そういうことだろう。
マルコがごく小さく頷くと、黒仮面は音も立てずに扉を押し開けた。
隙間が開く。
まず見えたのは、灯りを背にした見張りの横顔だった。
「……下が騒がしいな」
ぼやく声に、もう一人が面倒そうに返す。
「放っとけ。こっちへ来るようなら、その時だ」
黒仮面は扉の隙間から、わざと半身だけを覗かせた。
青黒い仮面が灯りを拾う。
見張りが眉をひそめた。
「誰だ」
その一声で、二人の視線が黒仮面へ寄る。
十分だった。
マルコは開いた扉の影から一気に踏み込む。
まず手前の一人。振り向きざまに喉を裂く。声は出ない。血を噴きながら崩れた身体を、そのまま肩で押し倒す。
もう一人がようやく異変を飲み込み、槍を持ち上げる。
遅い。
マルコは間合いを潰した。穂先が伸びきる前に懐へ潜り込み、剣を下から振り上げる。脇の下から胸へ浅く裂け目が走り、見張りの息が止まる。
なおも叫ぼうと開いた口へ、マルコは左手で喉を押さえつけた。
声が潰れる。
その一瞬で、切っ先を喉元へ深く突き入れる。
見張りは膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
終わるまで、ほんの数拍だった。
黒仮面は、倒れた見張りへ一瞥をくれただけで、そのまま中へ踏み込んだ。
マルコも続く。
北塔の内側は、外から見た印象そのままに新しかった。古い区画のような湿り気も、石に染みついた臭いも薄い。壁の傷は少なく、灯りもやけに明るい。だが、その整い方がかえって嫌悪感を掻き立てた。
左手に扉が並ぶ。
一。二。三。四。
五番の前で、黒仮面が止まる。
マルコは剣を握る手に力を込めた。
黒仮面が鍵束から一本を抜き、鍵穴へ差し込む。
硬い感触。噛み合う音。
扉が、ゆっくりと開いた。
中は薄暗かった。
寝台があり、水差しがあり、毛布もある。独居房や雑居房よりはましに見える。だが、それだけだ。見栄えだけ整えた箱へ押し込めているだけで、やっていることは何も変わらない。
寝台の脇に、一人の女が座っていた。
肩口まで乱れた髪。痩せた頬。手首には赤い擦れ跡。衣服もまともとは言い難い。
だが、扉の開く音に怯えて縮こまるのではなく、ゆっくりと顔を上げる。
目が合った。
その瞬間に、マルコの喉が詰まる。
折れてはいない。
どれだけ削られていようと、芯の火までは消えていなかった。
女の目が揺れる。
信じられないものを見るみたいに、何度も瞬きをする。
やがて、掠れた声が零れた。
「……マルコ?」
その二文字だけで、胸の奥に押し込めていたものが一気に崩れた。
「お嬢様――!」
気づけば、もう駆け寄っていた。
寝台の前で膝をつき、その細い身体を抱き寄せる。軽い。抱き上げた瞬間に嫌になるほど軽かった。
お嬢様の肩が震える。
最初はまだ、信じ切れないみたいに固かった。だが、マルコの腕の中で一度息を呑んだあと、堰を切ったように力が抜ける。
「……っ、マルコ……マルコ……」
縋るように服を掴む指先が震えていた。
マルコは強く抱き締めた。
「遅くなりました、リディアお嬢様。申し訳ありません……本当に、遅く――」
言葉が続かない。
謝ることも、言い訳も、何もかもが遅すぎる気がした。ここへ来るまで何をしていた、どうしてもっと早く助けられなかった、そんな思いばかりが喉を塞ぐ。
だが、お嬢様は首を小さく振った。
「いいえ……そんな……」
掠れた声だった。弱い。だが、折れてはいない声だった。
「生きて……いたのね……」
その一言に、今度はマルコの方が息を呑んだ。
死んだと思われていたのは、こちらも同じか。
当然だろう。商会は潰れ、旦那は殺され、自分も監獄へ放り込まれた。そこから先で、生きていると信じろという方が酷だ。
「ええ」
ようやくそれだけ絞り出す。
「しぶとく、まだ生きておりました」
お嬢様の肩がまた小さく震えた。泣いているのか、笑いかけたのか、その両方かもしれない。
黒仮面は部屋の奥へは入らなかった。
開いた扉の脇に立ち、外を警戒したまま低く告げる。
「長居はできない」
その声に、お嬢様の肩がびくりと揺れる。
それでも、マルコの腕の中から扉脇の黒仮面へ視線を向けた。
「……そちらの方は?」
マルコは抱き締めたまま、短く答えた。
「恩人です。俺をここまで導いてくれました」
お嬢様の唇がかすかに震える。
「そう……」
黒仮面は何も答えなかった。
マルコは腕を緩めず、振り返らないまま問うた。
「動けますか、お嬢様」
少しの間、息を整えるみたいな沈黙が落ちる。
それから、お嬢様はマルコの胸元を握ったまま、確かに頷いた。
「……ええ」
細い声だった。だが、その芯は折れていない。
「歩けます」
その時だった。
並びの奥から、女の声が静かに落ちた。
「……感動の再会は結構だけど、ついでにあたしも出してくれない?」
低く抑えた声音だった。
泣き崩れるでも、喚くでもない。余裕すら滲むその一言に、マルコは抱き締めた腕のまま顔を上げた。
聞き覚えのない声だった。
だが、扉脇に立つ黒仮面だけは違った。
あれほど淀みなく動いていた男が、その一声を聞いた瞬間、はっきりと動きを止めた。
それは黒仮面が初めて見せる、明らかな動揺だった。




