16話 『脱獄開始』
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マルコ視点
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ひとまず手首を軽く回す。指を握り、開く。足首を返し、腰をひねる。痺れはない。筋も死んでいない。長く閉じ込められてはいたが、いざという時に身体が裏切るほど鈍っちゃいなかった。
そこでようやく、マルコは黒仮面へ視線を向けた。
「で、これからどうする?」
問いは短い。
黒仮面もまた、無駄なく答えた。
「まずは武器だ」
そう言うと、長外套の前がわずかに開いた。
外から見れば、仮面と長外套の人物にしか見えない。だがその内側には、擦れた革の肩掛け鞄が収まっていた。
手が外套の内へ潜る。
留め具に触れたかと思った次の瞬間、その手の中には一本の剣があった。
見慣れた長さ。重さ。刃の癖。粗悪品じゃない。看守から剥いだにしては出来が良すぎる。
マルコの目が細まる。
「……そりゃまた、とんでもない代物を隠してやがるな」
差し出された剣を受け取りながら、視線は自然と外套の内側へ落ちた。
古びた旅鞄にしか見えない。だが、いま目の前でやったことは、見かけだけで値踏みしていい代物じゃなかった。
「そいつがありゃ、潰れた商会だって一息で立て直せるぜ」
「貸さんぞ」
間髪入れない返答だった。
マルコは鼻で笑う。
「だろうよ」
剣を軽く振る。重心は悪くない。手首に残る感触だけで、この黒仮面がただの山師ではなく、きちんと準備を整えてここへ来たのだと分かった。
黒仮面はもう先へ向き直っている。
マルコが入れられていた房は、監獄の中でも最奥に位置していた。だが、その扉を出れば終わりというわけじゃない。すぐ手前には、同じような鉄扉が並んでいる。最奥の一房だけを切り離した袋小路ではなく、他に混ぜておけない囚人を奥から順に押し込めておくための列が、そのまま手前へ続いているのだ。
相変わらず静かだった。
見回りの足音は遠い。鍵束の鳴る音も聞こえない。雑居房の騒がしさからは遠く、通路は細い。石壁が冷えを抱え込み、空気まで重く淀んでいる。
誰かが寝返りを打つ音がした。鎖がわずかに擦れる。さらに手前の房からは、低い咳払いも聞こえる。
人はいる。
だが、どの気配も押し殺されていた。騒げば看守が来る。喚けば痛い目を見る。そういう場所で長く飼われた音だった。
黒仮面は何も説明しない。
どこから来たのか。どうやってここまで入ったのか。なぜ今なのか。
聞けば何かは返すのかもしれない。だが、こちらへ都合よく事情を明かす相手とも思えなかった。実際、その歩き方には迷いがない。通るべき道を最初から知っている足取りだ。
石床を踏む靴音だけが、低く返る。
その音に反応したのか、左手の房から低い声が飛んだ。
「……誰だ?」
続いて、別の房でも身じろぎの気配が走る。
「看守か?」
「いや、違う」
「何だ、その面……」
さらに手前、通路を見通せる位置の房から、くぐもった声が上がった。
「……おい。そっちにいるの、マルコじゃねぇのか」
一拍遅れて、別の房からも声が飛ぶ。
「は? マルコ?」
「何で外にいやがる」
「どうなってやがる、おい!」
ざわつきが広がる。
だが黒仮面は、急かしもせず、黙らせもせず、通路の半ばで足を止めた。
左右の房から視線が集まる位置だった。
そこで、低い声が落ちる。
「脱獄する。ついてくる気のある者は出してやろう。ただし、勝手な真似はするな。私の指示に従える者だけだ」
ざわつきが、一度止まった。
言葉の意味が分からなかったわけじゃない。ただ、あまりにも真っ直ぐに言い切られたせいで、全員が一瞬だけ反応を忘れたようだった。
先に我に返ったのは、右手奥の房の男だった。
「……は?」
乾いた声が漏れる。
「脱獄……だと?」
「ふざけてんのか?」
「看守の真似事か何かか?」
「いや、マルコが外にいるぞ……」
半信半疑の声が重なる。
怒鳴る者もいれば、逆に声を潜める者もいた。どちらにせよ、全員の視線が黒仮面へ集まっている。その中心にいる当人だけが妙に静かだった。
マルコは横目でその姿を見る。
騒ぎに呑まれていない。押し切ろうと力んでもいない。ただ最初の一声で、場の主導権だけを先に奪っていた。
上手い。
気に食わないが、そう思わざるを得なかった。
黒仮面はそれ以上、同じ説明を繰り返さない。
そのまま最初の房の前へ歩いた。
格子の向こうにいたのは、痩せた男だった。頬はこけ、囚人服も薄汚れている。だが、目の光は死んでいない。外から覗き込む黒仮面を、睨み返すだけの気概は残っていた。
黒仮面はほんの一瞬だけ男を見た。
それだけで鍵束から一本を選ぶ。
迷いのない手つきだった。
鍵が差し込まれ、硬い音が鳴る。錠前の噛み合う感触に続いて、扉が低く開いた。
房の男が目を見開く。
「……本当に開けやがった」
黒仮面はもう次の房へ向かっていた。
開いたばかりの扉の前に立ち尽くした男が、数拍遅れて外へ出る。その顔にはまだ戸惑いが残っていたが、目の奥にはさっきまでなかった熱が差していた。
通路の空気が変わる。
疑いが消えたわけじゃない。だが、こいつは口先だけじゃない――その一点だけは、今ので全員に伝わった。
黒仮面は次の房の前で足を止める。
今度は、中にいる囚人へ一瞥をくれただけで通り過ぎた。
「お、おい!」
格子の向こうの男が身を乗り出す。
「待てよ! 俺は!?」
返事はない。
黒仮面はもう次の扉へ視線を移していた。そこでもまた一瞬だけ中を見て、今度は鍵を選ぶ。開ける。通り過ぎる。開ける。
その繰り返しに、理屈は見えない。
だが、躊躇だけはなかった。
その手際を見ながら、マルコは小さく息を吐く。
なるほど、そういうやり方か。
片っ端から解き放つ気はないらしい。最初から、使う駒だけを拾い上げるつもりで来ている。
だったら――と、マルコは視線を巡らせた。
この列なら、まだ混ぜてもいい顔が何人かいる。逆に、出した瞬間に場を濁すだけの奴もいる。
黒仮面が次に通り過ぎようとした房を見て、マルコは口を開いた。
「待ってくれ」
黒仮面の足が止まる。
振り返りはしない。ただ、次の鍵を選びかけていた手だけがわずかに止まった。
マルコは、その房の格子の向こうを顎で示した。
「そいつは出していい」
中にいたのは、肩幅の広い男だった。鼻筋を潰し、右の頬に古い裂傷痕が走っている。柄は悪い。実際、短気でもある。だが、目つきの荒さの割に、筋の通らない裏切りはしない男だった。
黒仮面の低い声が返る。
「根拠は」
「口は悪いが、背中から刺す手合いじゃない。戦いになりゃ、前を張れる」
格子の向こうの男が、そこでようやく声を上げた。
「おい、マルコ。勝手に品定めしてんじゃ――」
「黙ってろ、ガロ」
短く切って捨てる。
「出してもらいてぇなら、今は吠えるな」
男――ガロは舌打ちしたが、それ以上は言わなかった。
黒仮面が一拍だけ黙る。
「暴れたら」
「俺が止める」
間髪入れずに言う。
「止まらなきゃ、俺が斬る。これでいいだろ」
黒仮面はそれ以上問わなかった。
鍵束から一本を抜き、錠へ差し込む。硬い音がして、扉が開いた。
ガロが一歩、外へ出る。
獣みたいな眼で黒仮面を見たあと、マルコへ視線を移した。
「……借りにしとくぜ」
「高くつくぞ」
吐き捨てるように返すと、ガロは初めて口の端を歪めた。
そこから先は早かった。
黒仮面が見て、通り過ぎようとする房へ、マルコが短く口を挟む。
「そっちは駄目だ。口が軽い。前に二人、看守へ売った」
黒仮面は足を止めず、ただ一言だけ返した。
「見たのか」
「見た」
それで終わりだった。
次に、向かいの房へ視線が流れる。中にいた痩せた男は、さっきから格子の陰でじっと様子を窺っていた。喚きもせず、目だけが忙しなく動いている。
マルコはそちらを顎で示す。
「向かいは出していい。足が速い。伝令に使える」
黒仮面の手が、鍵束の上でわずかに止まる。
「逃げるぞ」
「追い詰められたらな。だが、走らせるなら役に立つ」
短いやり取りのあと、向かいの錠が開いた。
さらにもう一つ先の房では、大柄な男が格子を掴んでいた。顔つきだけなら威勢はいい。だが、マルコはそいつが揉め事になるたび、最後には人の後ろへ引くのを知っている。
「あれはやめとけ」
黒仮面がそちらへ視線だけ向ける。
「なぜだ」
「威勢だけだ。刃物を見たら味方の後ろへ隠れる」
黒仮面は何も言わず、その房を通り過ぎた。
開く扉が少しずつ増える。
逆に、格子へ縋る声を上げても、そのまま通り過ぎられる房もある。
「おい! 待てって言ってんだろ!」
「俺も出せ! 使える!」
「ふざけんな、何であいつだけ――」
喚く声が重なる。
だが、黒仮面は足を止めない。マルコも振り向かなかった。
一度でもその選別が始まってしまえば、あとは早い。泣き言を言うから出す、喚いたから考え直す、そんな流れにはならないと、囚人たちの側もすぐに理解したらしい。
だからこそ、開いた扉から出てきた連中の空気も変わっていく。
助けられた、ではない。
選ばれた。
その意識が、戸惑いの下にじわりと熱を作っていた。
マルコはざっと顔ぶれを数える。
今の時点で、使えるのは六人。
自分を入れて七。ここからさらに増やすにしても、まずは足場としては悪くない。
黒仮面が立ち止まった。
長外套の内へ、また手が入る。
囚人たちの視線が一斉に集まった。
先ほど剣を出した鞄から、今度は別の武器が次々と引き抜かれる。
短剣。棍棒。片手剣。さらに、金属の芯を仕込んだ短杖。
ガロが思わず低く唸った。
「……おいおい。まだ出てきやがるのか」
黒仮面は答えない。
まず、ガロへ重めの棍棒を放る。
無造作に投げられたそれを、ガロは反射で受け取った。手の中で重さを確かめ、目の色が変わる。
ガロは一瞬だけ言葉を失い、それから鼻を鳴らした。
「……分かってんじゃねぇか」
次に、痩せた若い男へ片手剣が投げ渡される。そいつは長剣を振るう腕より、懐へ潜って手早く刺す方が向いている。受け取った本人が、無意識に重心を確かめるように刃を返した。
さらに、痩せた中年の男へは片手剣ではなく、短めの刃物が渡る。
男は不服そうに眉を寄せかけたが、すぐに何かを飲み込んだように黙った。図星だったのだろう。
そして、列の後ろにいた一人へ、黒仮面は迷いなく短杖を差し出した。
「使え」
受け取った男が、はっきり動きを止める。
痩せぎすの、冴えない男だった。髪は伸び放題で、囚人服も他と変わらない。だが、杖を握った瞬間だけ、指の収まり方が違った。
「……なんで、これを俺に寄越す」
低い声だった。
問いというより、確かめる響きだった。
黒仮面は短く返す。
「必要だろう、お前には」
それだけだった。
だが、杖を受け取った男の目が細まる。
自分が術師だと、名乗ってもいない。ここでそう扱われる筋合いもない。にもかかわらず、黒仮面は迷いなく杖を渡した。
それだけで十分すぎた。
囚人たちの間を走るざわめきの質が、また一段変わる。
こいつは何を知っている。
そんな気配だった。
マルコもまた、内心で舌を巻く。
どこまで調べた。いつ見た。あるいは、最初からこの監獄の中身を頭に入れていたのか。
どちらにせよ、薄気味の悪い手際だった。
「お前は」
黒仮面が、最後に一人の男へ短剣を渡す。
四十前後だろう。腕は細く、肩も落ちている。見るからに荒事向きではない。帳場上がりか、あるいは政治絡みで放り込まれた口か。
「守るためだけに使え。前へ出るな」
男は一瞬だけ反論しかけるような顔をしたが、すぐに口をつぐんだ。自分が前へ出る側の人間ではないことくらい、とうに分かっているのだろう。
武器が渡りきる。
ほんの数人。だが、素手で震えていたさっきまでとは、空気が違う。
ガロが棍棒を肩へ担ぐ。短剣を受け取った若い男は、刃を逆手へ収める位置を確かめている。杖を持った術師は、まだ黒仮面から目を離さない。
そこでようやく、黒仮面が全員を見渡した。
低い声が通路に落ちる。
「これから雑居房を通り、入口広間へ向かう。鍵は私が開けるから、お前たちは看守の相手をしろ。最終目標は、正門の制圧だ」
誰も軽口を返さなかった。
返せなかった、が近いかもしれない。
その時だった。
手前の通路から、金属の触れ合う音が小さく響いた。
続いて、足音。
一つではない。二つ、三つ。巡回にしては少し急いでいる。
誰かが気づいたのだろう。
ざわつきの余韻が、とうとう届いたらしい。
ガロが棍棒を握り直す。
「来やがったか」
杖を受け取った術師が、息を浅く吸う。片手剣持ちの若い男は、音もなく壁際へ身を寄せた。
マルコは剣の柄を握る。
長く離れていた感触のはずなのに、不思議なくらい手に馴染んだ。
黒仮面だけは、少しも慌てない。
通路の先へ視線を向けたまま、ただ一言だけ告げた。
「始めるぞ」




